第3話
朝食が終わると、ミナトは自分の皿を両手で持ち上げた。
「お母さん、これ、どこに置けばいい?」
「いつもの台だよ。熱い鍋があるから、厨房の奥までは入らないでおくれ」
「うん!」
教えられた場所へ皿を運び、ミナトは手を洗って戻ってきた。もう出かけるつもりらしく、食堂の裏口でわたしを待っている。
「シロ、行ける?」
「うん。ちょっと待ってて」
わたしも食器を下げ、メルから布巾を受け取って食卓を拭いた。アカはパン籠を片づけながら、まだ名残惜しそうに底を覗いている。
「アカ、もう食べたでしょう?」
「うん。でも、いい匂いがするんだもん」
「お昼にも作るから楽しみにしててね」
メルが笑うと、アカはすぐに顔を明るくした。わたしが片づけを終える頃には、アカもミナトの隣に並んでいた。
裏口の先には、小さな日当たりのいい場所がある。壁際の棚にはいくつかの鉢植えが並び、葉の形も背丈も少しずつ違っていた。メルが香草を育て始め、そこへミナトとアカが自分たちの鉢を置くようになったのだ。
「これ! ここを見て!」
ミナトは一番手前の鉢へ駆け寄り、細い茎を指差した。横には小さな木の棒が立てられていて、途中に印がついている。
「昨日はこのくらいだったんだ。でも、ほら!」
わたしはしゃがんで葉の先を覗いた。柔らかな緑が、棒の印をほんの少し越えている。
「本当だ。大きくなったね」
「でしょ!」
ミナトは満面の笑みを浮かべた。たったこれだけの違いを見つけるために、毎朝じっくり眺めているのだろう。
「毎日見てるの?」
「うん。昨日は葉っぱが開いたんだよ。今日は背が伸びた!」
「じゃあ、明日はどうなるかな」
「もっと大きくなる!」
迷いのない答えに、わたしも笑った。ミナトは、気に入ったものを見つけると何度でも見に行く。通りで見つけた綺麗な石も、巣を作る小鳥も、わたしが聞けば目を輝かせて教えてくれる。難しいことを説明しようとするより先に、見てほしいという気持ちが顔に出てしまうのだ。
「ねえ、シロ。葉っぱに触ってもいいかな」
「優しくなら、いいと思うよ」
ミナトは指先をそっと近づけ、葉の縁に触れた。柔らかさを確かめると、すぐに手を引っ込める。
「破れなかった!」
「ふふ。ちゃんと優しくできたね」
「あら、もう見てたの?」
メルが水差しと手拭いを持って出てきた。ミナトはすぐに駆け寄り、印より伸びた葉を見せようとする。
「メル、ほら! 大きくなった!」
「本当だね。毎日お世話してるからかな」
「お水もあげる!」
「じゃあ、土を見てからね」
メルは指で土の表面をそっと確かめた。それから水差しをミナトへ渡し、手を添えて傾ける。細い水が鉢の端へ落ち、乾いた色の土が少しずつ濃くなっていった。
「もうそのくらいでいいよ」
「え、少なくない?」
「たくさんあげすぎると、根っこが困っちゃうんだって」
ミナトは水差しを置き、鉢の中をもう一度覗いた。
「そっか。じゃあ今日はここまで」
メルは満足そうに頷いた。五つ年上の姉は、こういうとき本当に根気強い。ミナトが何度同じことを聞いても嫌な顔をせず、できるまで隣についている。その一方で、ときどき妙なところが抜けていた。
「あれ、手拭いはどこへ置いたかな」
「メル、腰のところ」
わたしが指差すと、メルはいつの間にか前掛けに挟んでいた手拭いを見下ろした。
「あら、本当。ふふ、ありがとう」
「メルって、ときどき忘れんぼだね」
「そうかなあ」
ミナトに言われても、メルは怒らず笑っている。ミナトもその顔を見て、つられたように笑った。
「アカのも見て!」
隣で待っていたアカが、棚の端の鉢を両手で示した。こちらはまだ背が低く、小さな葉がいくつか並んでいる。
「アカの、昨日より大きい?」
「ええと……」
わたしが身をかがめていると、ミナトも横から覗き込んだ。
「同じくらいかなあ」
「ええー、なんで!」
「毎日同じだけ伸びるわけじゃないんだよ」
メルが言うと、アカは少し考えたあと、鉢へ向かって顔を寄せた。
「じゃあ、明日は大きくなってね!」
「ぼくのも!」
ミナトとアカが並んで鉢に話しかけるから、わたしは思わず吹き出してしまった。
アカは、見た目ではミナトより少しお姉さんだ。それでも、こうして一緒にいると、どちらも同じくらい夢中になっている。長い間旅をして、いろいろなものを見てきたはずなのに、アカは小さな葉っぱ一枚でこんなに喜べる。それが嬉しかった。
「にゃあ」
聞き慣れた声がして振り向くと、クロが裏口から歩いてきた。朝日の当たる石の上で一度背中を伸ばし、それからゆっくり棚の前へ近づいてくる。
「クロ! こっち!」
ミナトがしゃがんで手を伸ばすと、クロは迷わずそのそばへ行った。長い黒い毛に指を埋めて撫でるミナトの顔は、すっかり緩んでいる。
「クロにも見せたかったんだよ。ほら、昨日より伸びたの!」
「にゃ」
「すごいでしょう?」
クロは鉢を見上げ、尻尾の先を一度だけ揺らした。それだけでミナトは満足らしい。
今では、クロがミナトのそばにいるのは当たり前の光景になっていた。ミナトが椅子に座れば足元に、裏口を開ければいつの間にか後ろにいる。ミナトもクロの居場所をいちいち確かめなくなった。
昔のクロを知っているわたしには、それが少し不思議で、何より嬉しい。ここでは長い旅の話をする必要も、誰かの前で威厳を保つ必要もない。ただ、撫でられれば目を細め、名前を呼ばれれば鳴いてみせる。
「おや、みんな揃ってるね」
エライザが裏口から顔を出した。腕には空の籠を抱え、前掛けの裾にはうっすら粉がついている。
「お母さん、見て!」
「はいはい。今度は何が育ったんだい?」
ミナトに手を引かれ、エライザは棚の前に屈んだ。葉の先と棒の印を見比べ、大きく頷く。
「おお、たいしたもんじゃないか。この調子なら、いつか店の料理にも使えそうだね」
「えっ、食べちゃうの?」
急に心配そうになったミナトを見て、エライザは声を立てて笑った。
「全部なくすわけじゃないよ。よく育ってから、必要な葉だけ少し分けてもらうのさ」
「そしたら、また生えてくる?」
「ちゃんと世話をすればね。食べておしまいじゃなく、次の葉っぱも育てるんだよ」
ミナトは鉢をじっと眺め、それから真剣な顔で頷いた。
「じゃあ、大きくなったらお母さんにあげる!」
「そりゃ楽しみだ。大事に育てておくれ」
エライザの大きな手が、ミナトの頭をくしゃりと撫でた。ミナトはくすぐったそうに笑い、その手から逃げるようにメルの後ろへ回る。
エライザは、両親から受け継いだこの食堂を切り盛りしている。朝早くから仕込みをして、店が開けば次々に来るお客さんを迎え、忙しい日には閉店後も厨房の片づけが続く。それでも、家族の話に耳を傾ける時間を忘れない。
冒険者だった夫を、依頼の途中で亡くしたことも聞いている。わたしとアカが外へ仕事に出るたび、危ない依頼なら必ず話しておくようにと言われるのは、そのせいもあるのかもしれない。
「さて、お店を開けるよ。メル、手が空いたら表を掃いてくれるかい?」
「うん、お母さん」
「シロとアカは今日はギルドかい?」
「あとで顔を出そうと思ってる。急ぎの依頼がなければ、お店も手伝うよ」
「助かるよ。でも、無茶はしないこと。それだけは約束だよ」
エライザの声は明るいままだったけれど、最後の言葉だけは少し低くなった。
「うん、約束する」
「アカも!」
エライザはわたしたちの顔を見て安心したように笑い、籠を抱えて厨房へ戻っていった。
ミナトも後を追いかけようとして、ふと思い出したように振り向いた。
「シロ、明日も葉っぱ見ようね!」
「うん。明日も見よう」
ミナトは頷くと、メルと一緒に店の中へ戻っていった。アカも手伝うと言って後を追い、裏口にはわたしとクロだけが残った。
クロは陽の当たる場所に座り、前脚を舐めていた。
今朝から胸の奥にある《勇者》の気配は、まだ消えていない。さっきまで笑っていた顔を思い浮かべると、胸がきゅっと縮んだ。
店の中から、ミナトの笑い声が聞こえた。すぐにアカの声も重なり、エライザがミナトとアカを呼んでいる。ここには、わたしが守りたいと思う暮らしがある。
クロは舐めていた前脚を下ろし、何事もなかったように裏口へ歩き始めた。わたしも鉢植えをもう一度見てから、そのあとを追う。
この家で、みんなと朝を迎えるようになるなんて。クロがミナトを見つけたと聞いて、ひとりでこの町を目指したあの日には、想像もしていなかった。




