第2話
「うん、今行く!」
返事をすると、扉の向こうから足音が近づいてきた。
「入っていい?」
「いいよ」
扉が開き、赤い髪の女の子がひょいと顔を覗かせた。アカだ。片方の髪が大きく跳ねているのに、本人は気づいていないらしい。
「シロ、もう着替えた?」
「今から。アカこそ、その髪どうしたの?」
「髪?」
アカは頭に手をやり、跳ねたところを探した。見当違いの場所ばかり撫でるので、思わず笑ってしまう。
「こっち。動かないでね」
指で何度か梳いてみたけれど、寝癖はなかなか直らなかった。アカはくすぐったそうに肩をすくめ、最後には「もういいよ、お腹すいた!」とわたしの手から逃げてしまった。こういうところは、昔から少しも変わらない。
わたしが服を着替える間、アカは窓辺へ行き、通りを眺めていた。短い銀白の髪を整えて振り返ると、今度はじっと顔を見つめられる。
「シロ、なんか静かだね」
「そうかな」
「うん。まだ眠い?」
胸の奥に、あの名前が浮かんだ。
《勇者》。
眠っている間に与えられた力は、今も確かにそこにある。いつもならアカに真っ先に話していただろう。けれど、何から説明すればいいのか分からず、わたしは少しだけ笑った。
「考え事をしてたの。ほら、行こう。朝ご飯が冷めちゃう」
「それは大変!」
アカが慌てて手を差し出す。その手を握り、一緒に廊下へ出た。
階段を降りるにつれて、肉を煮込む匂いが濃くなっていく。香草の爽やかさと焼きたてのパンの香りも混じっていて、さっきまで落ち着かなかったお腹が急に空いてきた。
ここは、一階が食堂になっている家だ。店が開く前の朝は、家族みんなで食卓を囲む。そんな暮らしにも、すっかり慣れていた。
「おや、やっと来たね!」
厨房からエライザが顔を出した。大きな鍋をかき混ぜながら、わたしたちを見るなり笑う。
「シロ、そこの皿を並べてくれるかい。アカは……あんた、また寝癖がついてるよ!」
「シロにも言われた!」
「言われたなら直しておいで!」
エライザの笑い声が厨房に響いた。アカが頭を押さえていると、奥からメルが布を持ってやってくる。
「アカちゃん、こっちへおいで。少し濡らすと直るよ」
「メル、お願い!」
メルはアカを椅子へ座らせ、跳ねた髪を丁寧に整え始めた。アカがじっとしていられずに動くたび、メルとアカの間に小さな笑い声が生まれる。
わたしは食器棚から皿を取り、いつもの席に一枚ずつ置いていった。全員の場所を、考えなくても覚えている。並べ終わる頃、足元をぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「シロ、これも!」
ミナトが木の匙を抱えていた。わたしのそばへ来ると、落とさないように両手で差し出してくれる。
「ありがとう、ミナト。助かるよ」
「ぼく、全部持ってきたんだ!」
「うん。上手に運べたね」
褒められて嬉しかったのか、ミナトは得意そうに胸を張った。次に何か思いついたように顔を寄せてくる。
「ねえ、シロ。ご飯のあと、見てほしいものがあるんだ」
「なあに?」
「まだ内緒!」
言ってから自分で笑い、ミナトは小さな声で付け加えた。
「裏の鉢植えなんだけどね。昨日より葉っぱが大きくなった気がするの」
「それ、もう教えてくれてるよ」
「あっ、ほんとだ!」
ミナトと笑い合っていると、足元にふわりと柔らかなものが触れた。黒い猫が、長い尻尾を立てて歩いてきた。クロだ。金色の目を細め、ミナトの足に頬を擦りつけている。
「クロも見たい?」
「にゃあ」
「じゃあ、あとで一緒に行こう!」
ミナトはしゃがみ込み、クロの頭を撫でた。クロは気持ちよさそうに目を閉じている。ずっと前からそうしてきたみたいに、ミナトとクロは当たり前の顔で寄り添っていた。その姿を見ると、いつも少しだけ胸が温かくなる。
「さあ、できたよ。みんな座って!」
エライザが湯気の上がる鍋を運んできた。メルが手際よくスープをよそい、アカは髪を直してもらったばかりの頭を揺らしながら、自分の席へ急いでいる。
「アカちゃん、走らないでね」
「はーい!」
言われてすぐに歩幅を小さくするところが、なんともアカらしい。
食卓には、肉と根菜のスープ、焼きたてのパン、小皿に盛られた野菜が並んだ。クロの皿も、ミナトの椅子のそばに置かれている。
「それじゃ、いただこうか」
「いただきます!」
みんなの声が重なった。
スープを一口飲むと、ほろほろに煮えた肉の旨味が広がった。根菜は甘く、あとから香草の匂いがふわりと鼻へ抜けていく。朝の冷たい空気で少し冷えていた身体が、ゆっくり温まった。
「おいしい……」
「そうだろう? 朝からじっくり煮込んだからね」
エライザが嬉しそうに笑った。向かいの席では、アカが大きなパンを両手で持って目を輝かせている。
「これ、アカの?」
「うん。アカちゃん、昨日から楽しみにしてたでしょう」
メルが言うと、アカはぱっと顔を上げた。
「ありがとう、メル!」
アカが勢いよくかじりつくと、パンの欠片が口元についた。ミナトがそれを見つけて笑い、アカも笑い返す。メルがそっと布を差し出し、エライザはミナトとアカの皿に野菜を足していた。
何も特別なことのない朝だった。それなのに、わたしには少し不思議な光景に思える。
旅をしていた頃は、朝になれば荷物をまとめ、次の目的地へ歩き出していた。今は、目を覚ますと誰かが呼びに来てくれて、こうして一緒に食事をしている。昨日もそうだったし、明日もきっとそうだと思っていた。
目の前では、ミナトがアカにパンの欠片を見せて笑っている。クロは椅子の下で静かに食事を続け、メルとエライザは昼の仕込みについて話していた。わたしはもう一口、温かいスープを飲んだ。
《勇者》という名前が頭から離れない。それでも、この食卓の時間まで手放したくはなかった。
「シロ、忘れないでね」
ミナトがわたしの袖を引いた。
「何を?」
「鉢植え! ご飯のあと、見てくれる?」
「もちろん。約束するよ」
そう答えると、ミナトは安心したように頷き、残っていたスープを飲み始めた。
窓から差し込む朝日が、食卓を柔らかく照らしている。あとで見せてもらう、小さな葉っぱ。そんな約束が、今は何より嬉しかった。




