第1話
目が覚めたとき、《勇者》になっていた。
最初は、まだ夢を見ているのかと思った。目を閉じて、もう一度開いてみる。けれど、見慣れた部屋の天井も、窓から差し込む薄い朝の光も、何ひとつ変わらなかった。
変わってしまったのは、わたしの方だった。
《勇者》。
その名前が、頭の中にはっきりと浮かんでいる。誰かに教えられたわけじゃない。声が聞こえたわけでもない。ただ、昨日まで持っていなかったものが、わたしの中にある。それが《勇者》という力なのだと、なぜか分かってしまう。
「……どうして?」
思わず声が漏れた。身体を起こして胸に手を当ててみる。心臓はいつもどおりに動いているし、痛いところもない。手足を動かしてみても、特別な変化は感じられなかった。
それなのに、確かに何かが違う。目には見えないけれど、今までなかったものが、そこに収まっている。知らないはずの名前を、ずっと前から知っていたような不思議な感覚だった。
こんなことは初めてだった。長い年月を生きて、いろいろな場所へ行った。たくさんの魔物と戦ったし、知らなかった魔術や不思議な力にも触れてきた。それでも、眠っている間にこんなものを与えられたことはない。
どうして今になって《勇者》なんだろう。勇者がどんな存在なのかは知っている。昔、湊と一緒に旅をしていた頃に聞いた。世界に大きな歪みが生まれたとき、《魔王》が現れる。そして、その《魔王》を止めるために《勇者》が選ばれる。
あの戦いが終わったあとにも、勇者には魔王を倒すだけではない役目があると教わった。そのときのことを思い出して、胸が少し苦しくなった。
湊は《勇者》じゃなかった。それでも《魔王》を倒した。そして、本当なら勇者が受け止めるはずだったものまで、全部引き受けてしまった。
あの日、石の床に倒れた湊の姿を、今でもはっきり覚えている。何度名前を呼んでも返事がなくて、もう二度と目を開けてくれないんじゃないかと思った。あれから、どれほど長い時間が過ぎただろう。
もう泣いてばかりの小さな子供じゃない。自分で考えて、自分の足で歩いて、困っている人を助けられるようにもなった。それでも、あの日のことを忘れたわけじゃない。
「……湊」
小さく名前を呼んでみた。昔は、分からないことがあると、すぐに湊のところへ行っていた。湊だって何でも知っていたわけじゃないし、時々とんでもない無茶をして、みんなを心配させていた。
でも、一緒に考えてくれた。困っているときには話を聞いてくれたし、怖いときにはそばにいてくれた。
今なら、あの頃の湊の気持ちも少しは分かる。大切な誰かを守りたいと思う気持ちも、守れなかったときの苦しさも。
だからこそ、気になる。どうしてわたしが《勇者》になったの? 勇者になることを望んだ覚えはない。世界にはわたしよりずっと強い人も、賢い人もいる。何十年も旅をしてきたけれど、まだ知らないことだってたくさんある。
それなのに、どうして選ばれたんだろう。それに、もっと気になることがある。《勇者》が選ばれたということは、どこかに《魔王》がいるはずだ。
その考えに辿り着いた瞬間、背中が冷たくなった。わたしは寝台から降り、窓へ近づいた。カーテンを少し開くと、まだ人通りの少ない町が見えた。朝露に濡れた屋根が淡く光り、石畳の道を一台の荷車がゆっくり進んでいる。
窓を開ければ、ひんやりした風が頬を撫でた。どこかで鳥が鳴いている。遠くからは店の戸を開ける音が聞こえ、焼きたてのパンの匂いが風に乗って流れてきた。
いつもと同じ朝だった。昨日も、その前の日も、こんなふうに一日が始まった。町では人々が普段どおりに暮らしている。ギルドへ行けば冒険者たちが依頼を選び、商人たちは荷物を運び、子供たちは通りで遊んでいる。
最近、大きな災いが起きたという知らせも聞いていない。もちろん、遠くの国で何が起きているのか、すべて知っているわけではない。世界は広い。長い間旅をしてきたけれど、まだ行ったことのない場所だってある。
どこかで《魔王》が生まれていても、不思議ではないのかもしれない。でも、それならどうして何も聞こえてこないんだろう。
かつての《魔王》は、多くの人を苦しめた。国を巻き込み、たくさんの命を奪い、世界そのものを危険にさらした。そんな存在が、また現れたというの? もしそうなら、今この瞬間にも、どこかで誰かが助けを求めているのかもしれない。
そう思うと、じっとしていられなくなった。けれど、どこへ行けばいいんだろう。窓の外に広がる景色は穏やかで、危険な魔力も、争いの音も感じられない。少なくとも、この町には普段と違う様子は見当たらなかった。
それが、かえって怖かった。敵が目の前にいるなら、戦うことができる。困っている人がいれば、助けに行ける。でも、相手がどこにいるのかさえ分からない。何を守ればいいのかも、何が起きようとしているのかも見えてこない。
わたしは窓枠に手を置いたまま、長く息を吐いた。昔なら、怖くなって誰かのところへ駆け込んでいたかもしれない。今だって、怖くないわけじゃない。
ただ、長い旅の中で覚えたことがある。一人で全部を背負わなくてもいい。分からないことは誰かに聞けばいいし、困ったときには助けてもらってもいい。湊が最後に教えてくれたことを、もう忘れたくなかった。
だから、まずは誰かに相談しよう。きっと一緒に考えてくれる人がいる。そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
窓の向こうでは朝日が昇り、屋根の上に残っていた夜の影を少しずつ消していく。通りを歩く人も増え始め、町がゆっくりと目を覚ましていた。
今の暮らしが好きだった。長い旅の果てに、ようやく見つけた帰る場所。温かいご飯を食べて、笑って、明日も同じように過ごしたいと思える毎日。昔は、こんな日が来るなんて考えたこともなかった。
だから、失いたくない。誰かに命じられなくても、大切なものは自分で守りたい。その気持ちは、昨日までと何も変わっていない。
なのに、世界は突然、わたしを《勇者》に選んだ。いったい何が起きているんだろう。
わたしはもう一度、胸元へ手を当てた。そこには、やはり《勇者》という力があった。消えてほしいと思ったわけじゃない。けれど、何も知らないまま受け入れるには、あまりにも大きなものだった。
どうして、わたしなの? どうして、今なの? そして――。
「……《魔王》は、どこにいるの?」
誰に聞かせるでもなく呟いた、そのときだった。コンコン、と扉を叩く軽い音がした。
「おはようシロ! 朝ご飯の時間だよ!」
聞き慣れた、明るく弾む声。アカの声だった。




