第29話
運搬車を降りてから、リーネは坑道の管理を任されているドワーフと一緒に、北へ続く道を歩いた。壁にはところどころ新しい補強材が入り、分岐には行き先を示す札が掛けられている。以前ここを通ったときは、何が待っているかも分からず、武器を手放せなかった。今は足元に敷かれた石の上を、二人分の靴音が静かに進んでいく。
途中、横道を塞ぐ頑丈な扉があった。厚い金具には封印の印が刻まれ、その先からは物音一つ聞こえない。リーネが目を向けると、案内役のドワーフは歩く速さを緩めた。
「旧施設へ通じていた区画です。中の設備は今も封じたままでして。ここから先の通路だけ、点検を続けています」
「……そう。ありがとう。ちゃんと見ていてくれてるんだね」
扉の向こうには、竜たちが鎖で繋がれていた場所がある。金属を打つ音に身をすくませていた幼い竜と、その前に伏せていたシロの白い背中が、ふと脳裏に浮かんだ。リーネは足を止めず、案内役の後を追った。
やがて冷たい風が頬に触れ、前方の岩肌に明るい光が差し込んできた。出口は以前よりも整えられていたが、そこから見える景色には見覚えがあった。高い峰に囲まれた広い谷。岩棚が幾重にも重なり、遠くの絶壁には竜が休めそうな大きな窪みが並んでいる。
「ここからは竜たちの土地です。こちらの通行許可だけでは、巣の奥まではご案内できません」
「うん。あとは自分で行くよ」
「巣へは連絡を入れてありますが、見張りの全員に伝わっているかどうか……どうかお気をつけて」
「分かった。道を通してくれてありがとう」
リーネが礼を言うと、ドワーフは頭を下げて坑道へ戻っていった。背後で扉が閉まる音を聞き、リーネは改めて谷を見渡した。岩の割れ目には丈の短い草が生え、日当たりのよい場所では小さな花が風に揺れている。空を横切る翼の影も見えた。
昔、アオと一緒にこの谷を訪れたときは、竜の巣そのものが大きな騒ぎの中にあった。今は遠くの岩棚で何頭もの竜が休み、幼いらしい小柄な竜が二頭、互いを追いかけるように飛んでいる。あのころとは違う穏やかな時間が、ここにも流れているのだろう。
そう思って歩き出した矢先、頭上を大きな影が横切った。
風が叩きつけられ、砂が石の上を走る。リーネが顔を上げると、灰色の竜が岩棚から飛び降りてくるところだった。少し離れた場所にも二頭が着地し、尾を地面へ垂らしたままこちらを見据えている。
「止まれ」
最初の竜が低い声で告げた。リーネはその場に足を止め、両手を身体の脇へ下ろした。腰にはいつもの剣があるが、柄に触れるつもりはなかった。
「こんにちは。あたしはリーネ。アオに会いに来たんだけど、ここを通してもらえるかな」
「アオ……? 王に何の用だ」
「昔の仲間なんだ。久しぶりに顔を見たくてね。それと、ちょっと聞きたいことがあるの」
灰色の竜の眼差しが鋭くなった。隣に降りた竜が翼を半ば広げ、リーネの背後へ回り込む。気づけば谷の上からも翼音が近づいていて、岩棚の縁に新たな影が現れていた。
「王を呼び捨てにするのか」
「巣の外から来た者が、勝手に昔の仲間を名乗っているぞ」
「しかも北の坑道からだ。あそこを使って、前に何が起きたか忘れたのか」
声が重なるにつれ、周囲の竜たちが一歩ずつ距離を詰めてきた。鋭い爪が石を擦り、硬い鱗同士の触れ合う音が響く。リーネの頭上では、広げられた翼が陽を遮った。
見渡せば、若そうな竜が多かった。成竜ほどの大きさを持つ者もいるが、その顔には見覚えがない。長い年月が流れたのだから、知らない顔が増えていて当然だ。けれど今、その若い竜たちの何頭かは、明らかにこちらを追い払うつもりでいる。
「待って。あたしは争いに来たんじゃないよ」
「なら、剣を置け」
「抜くつもりはない。でも、ここで手放すわけにもいかないでしょ」
リーネは声を荒らげなかった。剣の位置を確かめながら、前に立つ灰色の竜から目を離さない。相手が飛びかかれば避けられる距離だったが、狭まった囲みの中で動けば、ほかの竜まで刺激しかねなかった。
「ドワーフ王国の許可をもらって、管理されている道から来たんだ。あっちでアルメイダにも会ってる。アオに、来客がいるって伝えてもらえない?」
「ドワーフの許可など、ここでは関係ない」
「そうだね。だから、あたしは今ここで頼んでるんだけど」
言葉は届いているはずなのに、返事はなかなか噛み合わなかった。灰色の竜の後ろで、若い赤い竜が喉を鳴らす。吐息に熱が混じり、足元の乾いた草が揺れた。
「人の形をした奴らを、簡単に入れていいものか」
「……分かるよ。そう思う理由は」
「何が分かる!」
赤い竜が前へ出た。翼の端が岩に当たり、細かい石が落ちてくる。リーネは半歩だけ足を引き、落石を避けた。剣を抜けば、目の前の一頭を退かせることはできるだろう。けれど、そんなことをしてアオに会っても、昔のように笑って話せるとは思えなかった。
「頼むよ。せめて、アオに確かめてくれないかな」
「王は忙しい。どこの誰とも知れん者のために――」
「その人は、どこの誰か分からない人じゃない!」
別の声が割って入った。
谷の奥から、力強い羽音が近づいてくる。竜たちが一斉に振り返り、岩棚の上へ視線を向けた。そこから一頭の竜が降り立ち、赤い竜とリーネの間へ身体を入れた。
周囲の竜ほど大きくはない。それでも翼は立派に伸び、着地した脚はしっかりと岩を捉えていた。落ち着いた動きで翼を畳むと、その竜はまずリーネを見て、次に囲んでいる仲間たちを見回した。
「道を空けて。剣を抜いてもいない相手を、これだけで囲んでどうするんだ」
「だが、北の坑道から――」
「聞こえてた。だから、僕が来たんだ」
その声を聞きながら、リーネは目の前の竜を見つめていた。何十年も前に見た姿とは、体の大きさも翼の張りもまるで違う。それでも、こちらを向いた瞳の色に覚えがあった。
金色の瞳。
視線が首元へ下りる。鱗の重なりの間に、古い傷の跡が細く残っていた。あの地下施設で喉を塞いでいた、黒い金具の位置だった。
「……もしかして、あんた」
竜が振り向いた。金色の目がわずかに細くなり、長い首がリーネの方へ傾く。
「覚えていてくれた?」
「もちろん。……大きくなったねえ」
思わず漏れた言葉に、竜は少し照れたように首を引いた。
あの頃は、立とうとしても脚に力が入らなかった。金具を外すたびに身体を震わせ、喉が自由になってようやく細い声を上げた。シロが銀色の身体を寄せている間だけ、少し安心したように目を閉じていた。
その竜が、今は自分の翼で飛び、仲間たちの前に立っている。
「……知り合いなのか?」
灰色の竜が戸惑った声を出した。若い竜はリーネの方へ一度だけ顔を向け、それからはっきりと頷いた。
「昔、僕らが地下に閉じ込められていたとき、助けに来てくれた人だよ。首の金具も、翼の枠も、みんなで一本ずつ外してくれた。この人も、その中にいた」
「地下の……?」
「僕はあのとき、声も出せなかった。だから、ちゃんとお礼も言えなかったんだ」
赤い竜の喉から漏れていた熱い息が収まった。周囲の竜たちも、互いの顔を見合わせている。若い竜は翼をわずかに広げ、リーネの前に立ったまま続けた。
「王も知ってる。僕が間違えるはずないよ。あのとき、僕の首の金具を外してくれた人なんだから」
リーネは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。あのときは、目の前の金具を一つでも早く外すことに必死だった。幼い竜が誰の顔を見ていたかまで気にする余裕はなかったのに、こうして覚えていてくれたのだ。
灰色の竜が大きな頭を下げた。
「……失礼しました。何も知らず、無礼なことを」
「俺も、脅すような真似をして悪かった」
赤い竜も翼を畳み、低く頭を下げる。ほかの竜たちが左右へ退くと、遮られていた陽の光が再び足元へ落ちた。
「いいよ。ここを守ろうとしたんでしょ。……ちょっと怖かったけどね」
「リーネが?」
金色の目をした竜が驚いたように聞き返した。リーネは肩をすくめる。
「そりゃあ、こんなにたくさんの竜に囲まれたらね。でも、みんな元気そうでよかった」
そのとき、谷の奥からひときわ大きな翼音が響いた。
「……おい。何の騒ぎだ?」
低い声とともに、青い巨体が上空から降りてきた。翼が風を押し下げ、岩棚の砂が一斉に舞い上がる。竜たちが自然に道を開くと、その真ん中に降り立った青い竜は、囲みの跡を見て露骨に顔をしかめた。
「また何か揉めたのか。少し目を離すと、すぐこれだ」
「王、申し訳ありません。北の坑道から来た者がいて……」
「だからって、みんなで取り囲む必要があるか?」
呆れたように息を吐き、青い竜がこちらを向いた。
リーネはその瞳を見上げ、思わず頬を緩めた。昔と変わらない、不機嫌そうに見えてどこか面倒見のいい顔だった。
「……アオ」
「ん? ……リーネ?」
青い竜の目が大きく開いた。さっきまで若い竜たちへ向けていた呆れ顔が消え、驚いたように首が伸びる。
「お前、何でここにいるんだ?」
「久しぶりに会いに来たんだよ。……なんだか、賑やかなお迎えだったけどね」
リーネが笑うと、アオはもう一度周りの竜たちを見渡し、深々と息を吐いた。
「……まったく。よりによって、お前を囲んでたのか」
金色の目をした竜が、申し訳なさそうに首を下げた。その隣で、リーネはこらえきれずに笑った。冷たい山の風の中に、ようやく懐かしい声が戻ってきていた。




