第30話
アオはリーネを取り囲んでいた竜たちを見回すと、長い首をゆっくり横に振った。
「客が来たら知らせろと言っておいただろう。どうして俺が出てくるまで揉めてるんだ」
「申し訳ありません、王。北の坑道から来たものですから……」
「だからって、話くらい聞け。せっかくドワーフたちが連絡してくれたのに、これじゃ向こうにも申し訳が立たない」
灰色の竜がうなだれると、隣の赤い竜も気まずそうに翼を畳んだ。つい先ほどまであれほど大きく見えた竜たちが、今は叱られた子供のように目を伏せている。リーネは笑いを堪えながら、間に入ってくれた金色の瞳の竜へ目を向けた。
「助かったよ。ありがとう」
「ううん。僕こそ、もっと早く気づけばよかった。シロは元気?」
「元気だよ。今はアカと一緒に暮らしてる。きっと、あんたの姿を見たら驚くだろうね」
「会ってみたいな。昔は、シロの背中に隠れてばかりだったから」
照れくさそうに笑う竜の首元には、薄い傷痕が残っている。リーネはその傷を見つめ、あの地下施設で初めて会ったときの細い鳴き声を思い出した。もう、誰かに身体を支えてもらう必要はない。そのことが嬉しくて、リーネも微笑み返した。
「おい、リーネ。いつまでそこで立ち話してるんだ」
アオが呆れた声を上げた。振り返ると、青い巨体はすでに谷の奥へ向き直っている。
「せっかく久しぶりに来たんだ。落ち着いて話せるところへ行こう」
「はいはい。王様のお招きなら、喜んで」
「お前までそれを言うなよ……」
アオはまた大きく息を吐き、先に歩き始めた。周囲の竜たちが道を開けてくれる。リーネが通り過ぎると、灰色の竜は改めて頭を下げたので、気にしていないと手を振っておいた。
案内されたのは、谷を見下ろす広い岩棚だった。奥には雨風をしのげる深い窪みがあり、入口の近くには人が使える大きさの卓や椅子も置かれている。外から来た者と話すために用意したのだろうか。リーネが珍しそうに眺めていると、アオの身体が淡い光に包まれた。
次に光が収まったとき、そこには見慣れた人の姿のアオが立っていた。竜のときとは違って目線の高さが近くなり、表情もよく分かる。もっとも、困ったように眉を寄せる癖は、昔とちっとも変わっていなかった。
「こっちの方が話しやすいだろ」
「そうだね。……なんだか懐かしいな」
「俺もだ。まさか、あんな迎え方をするとは思わなかったけどな」
「若い子たちも、巣を守ろうとしてたんだよ。最後にはちゃんと謝ってくれたし」
「分かってるさ。だが、守りたいなら相手の話も聞かなきゃな」
アオは椅子を引き、リーネにも座るよう勧めた。竜たちのいる岩棚からはときおり翼の音が響くが、ここは不思議と静かだった。遠くの峰に白い雲がかかり、その影がゆっくり谷を移動している。
「それで、久しぶりだな。エルフ国はどうだ?」
「みんな元気だよ。レーア姉様もフェルナンド兄様も、父上も。世界樹の森も、昔の傷はずいぶんよくなった」
「そうか。それはよかった。新しい長も元気か?」
「元気すぎるくらい。芽が開くのを待って、そのまま寝ちゃうような子だよ」
「ははっ。そいつは会ってみたいな」
アオの笑い声が岩壁に柔らかく返ってきた。リーネは腰の荷袋を足元へ置き、椅子の背にもたれた。遠い昔、同じように野営の火を囲みながら話したことがある。あの頃は、今こうして二人で近況を語り合う日が来るなんて、考えてもいなかった。
「アルメイダにも会ってきたよ」
「あいつも元気か?」
「王様はもう辞めちゃったんだって。今は王宮の鍛冶場にこもってる」
「……ああ、想像できる」
「『儂ももう歳だしな』って、旅にはついてこなかった」
「絶対、鍛冶をしてたいだけだろ」
「やっぱりそう思う?」
二人で笑った。アオはアルメイダからの伝言を聞くと、苦笑しながら頷いた。
「俺も一度、顔を出したいところだが……こっちも簡単には空けられなくてな。王ってのは、思ったよりやることが多い」
「みたいだね。さっきも大変そうだった」
「見るなよ、ああいうところばかり。普段はちゃんとやってるんだぞ」
そう言いながら、アオは窓のない岩棚の向こうを見た。谷のあちこちには見張りに立つ竜もいれば、若い竜に飛び方を教えている者もいる。かつて巣を離れて旅をしていたアオが、今はその中心にいるのだと思うと、リーネは少し感慨深かった。
「そうだ。クロのこと、聞いた?」
「ああ。ギルドから知らせが来た。あいつ、とうとう見つけたんだな」
「うん。ミナトっていう、まだ小さな男の子だって。今はお母さんとお姉さんと、食堂で暮らしてるんだよ」
「クロが食堂に?」
「それだけじゃないんだ。シロとアカも会いに行って、今はみんなで一緒に住んでるんだって」
アオは一瞬黙り、それから腹を抱えて笑い出した。
「はははっ! そうか、あいつらもか! で、クロは相変わらず威張ってるのか?」
「そこは分からないけど、家では普通の黒猫として暮らしてるみたい」
「……あのクロが?」
「そう。ミナトの家族には、にゃあって鳴いてるんだって」
アオは目を丸くしたまま、しばらく何も言わなかった。やがて笑いを噛み殺すように口元を押さえ、何度か頷く。
「……そうか。あいつも、やっと落ち着けたのかもしれないな」
「うん。あたしも、そう思う」
クロが何十年も探し続けた道の終わりに、賑やかな食卓がある。そこには昔の湊を知らない家族がいて、クロは自分からその暮らしの中へ入ったのだ。リーネは、いつかその家を訪ねたとき、黒猫がどんな顔で迎えてくれるのか想像して、少し笑った。
だが、続けて話さなければならないことがあった。
「実はね、シロから手紙が来たの。……今度の旅も、それがきっかけなんだ」
リーネが荷袋から便箋を取り出すと、アオの表情が変わった。シロに突然《勇者》の力が宿ったこと、本人にも理由が分からないこと、今のところ《魔王》の知らせはないことを伝える。アオは一度も遮らずに聞き、最後に便箋へ目を落とした。
「……《勇者》か。シロに」
「うん。あの子も戸惑ってるみたい」
「だろうな。あいつは強くなったが、そんな役目まで欲しがる奴じゃない」
「クロとアカにはもう話したって。だから、一人じゃないのが救いかな」
アオは頷いたが、すぐには次の言葉を口にしなかった。かつて湊たちと歩いた最後の旅を、思い出しているのかもしれない。リーネにもあの戦いは、長い時間が経ってなお簡単に振り返れるものではなかった。
「……それで、もう一つ。世界樹の様子が少し違うんだ」
リーネは手帳を開き、森で見てきたことを話した。根に触れたときの響き、芽吹きの遅れ、離れた集落から届いた収穫の話。ドワーフ国でも地下の茸がなかなか育たず、アルメイダと現国王が詳しい記録を集めると約束してくれたことも伝えた。
アオは話を聞きながら、ときおり谷の方へ目を向けていた。
「そういえば、こっちでも似た話は出てるな」
「本当?」
「ああ。岩棚の下の草が、今年はいつまでも短いってな。餌を探しに遠くまで飛ぶ連中も、いつもの場所に実が少ないと言っていた。俺は山の天気のせいだと思ってたんだが」
「ほかの場所でも、聞いてみてもらえる?」
「もちろん。ここは遠くまで飛ぶ奴が多いからな。見てきた土地の話を集めてみるよ」
アオは卓の上へ手帳を寄せ、幾つかの地名と時期を尋ねた。リーネが答えると、今度は自分の覚えている谷の様子を教えてくれる。白い峰の雪が消える頃、風向きが変わる頃、谷の草が伸び始める頃。竜たちは毎年それを見ながら暮らしているらしい。
「《勇者》の話も、長老たちには伝えておく。外から何か知らせが来たら、まず俺のところへ集める。こっちで分かったことは、ドワーフ国を通してエルフ国へ送ればいいな」
「うん。アルメイダたちも協力してくれる。あたしも旅先から便りを出すよ」
「シロにも知らせてやろう。あいつが全部を一人で調べる必要はない」
その言葉に、リーネはほっと息をついた。アルメイダもアオも、昔と同じように手を貸してくれる。遠く離れていても、誰かが見たものを持ち寄ることはできるのだ。
話しているうちに、谷を渡る光が少しずつ橙色に変わっていた。アオが外を見て立ち上がる。
「さて、そろそろ飯だな。今日はお前が来たから、皆も張り切ってるみたいだぞ」
「……え?」
「宴をやるらしい。竜が大勢で集まって食うなんて、そうしょっちゅうあることじゃないんだがな」
「もしかして、あたしのため?」
「半分はな。残りの半分は、さっきの連中が謝りたいんだと」
リーネは思わず吹き出した。アオは呆れたように笑い、岩棚を下りる道を先に歩いた。
夕暮れの谷では、広い岩場に竜たちが集まり始めていた。運ばれてきた大きな獲物の肉が火で炙られ、香ばしい匂いが冷たい空気に混じる。別の場所では木の実や山菜も並べられていて、人の姿のリーネが食べやすいよう、小さく切り分けた料理まで用意されていた。
「ずいぶん本格的だね」
「誰が言い出したんだか。……まあ、せっかくだ。食っていけ」
さっきの灰色の竜が近づいてきて、少し気まずそうに頭を下げた。
「先ほどは失礼しました。昔、仲間たちを助けてくださった方とも知らず……」
「大丈夫だよ。あんたたちの気持ちも分かったから」
「それでも、あの迎え方はよくありませんでした。今日はどうか、楽しんでください」
灰色の竜の後ろから、赤い竜も顔を出して頷いた。リーネが差し出された料理を受け取ると、周りの竜たちが安心したように喉を鳴らす。大きな尾が岩を叩き、低い笑い声が重なった。
金色の瞳の竜もやってきた。昼間は毅然としていたのに、宴の席ではどこか楽しそうで、リーネの隣に腰を下ろすと、あの地下施設のことをぽつぽつと話し始めた。
「僕、あのあと飛べるようになるまで、何度も失敗したんだ。岩から落ちそうになって、みんなを驚かせたこともある」
「そうだったんだ」
「でもね、今は小さい子たちに飛び方を教えてる。シロに会えたら、ちゃんと見せたいな」
「きっと喜ぶよ。あの子、あんたのこと心配してたから」
竜は嬉しそうに目を細めた。隣ではアオが、別の竜から何か言われて顔をしかめている。王になっても、仲間たちにからかわれることはあるらしい。リーネが笑いかけると、アオは「お前も笑うな」と言い返してきた。
夜が深まるにつれて、谷には大きな笑い声と羽ばたきの音が響いた。竜たちは昔の飛行競争の話や、山を越えた先で見つけた景色の話を次々に聞かせてくれた。リーネも湊たちと旅した頃の失敗談を話し、アオがあわてて止めに入るたび、周りはますます賑やかになった。
炎の向こうで、竜たちの鱗が赤く輝いている。かつて閉ざされた谷を守るために爪を研いでいた者たちが、今は外から来た旅人を囲んで笑っていた。リーネは手元の杯を温めながら、その光景を静かに眺めた。
翌朝、リーネは荷袋を背負い、アオに礼を言うため岩棚へ向かった。谷には朝霧が残り、遠くでは若い竜たちが翼を広げている。見送りに来た金色の瞳の竜へ手を振ると、向こうも大きく翼を動かして応えた。
「それで、次はどこへ行くんだ?」
「アルカディア。あそこなら、いろんな土地の記録が集まるでしょ。調べたいこともあるし、昔の知り合いの様子も気になるから」
「そうか。……なら、乗せていってやる」
「えっ、いいの?」
「しばらく留守にするくらいなら問題ない。向こうの様子も見ておきたいしな」
アオが人型を解くと、淡い光の中から青い翼が広がった。朝の風を受けた鱗がきらめき、岩場に大きな影が落ちる。アオは翼を一度動かし、リーネの前へ身体を低くした。
「ほら。乗れよ」
「ふふ。なんだか、懐かしいね」
「何がだ」
「昔のドラゴン便みたい。もう終わっちゃったけどさ」
「……お前まで、その名前を持ち出すのか」
アオは露骨に顔をしかめた。リーネが笑いながら背中へ登ると、金色の瞳の竜も、近くで見送っていた竜たちも、つられたように喉を鳴らした。
「笑うなよ、お前ら!」
「はいはい。よろしくね、アオ」
「まったく……。しっかり掴まってろよ」
翼が大きく広がり、冷たい風がリーネの髪を後ろへ流した。岩棚が足元から離れ、さっきまでいた竜たちの姿が少しずつ小さくなる。リーネは一度だけ振り返り、手を振った。
遠い山の向こうには、アルカディアへ続く空がある。
アオの翼が朝の光を受け、二人は南へ向けて飛び立った。




