第28話
エルフ国を離れてから、リーネは幾つもの町を通り過ぎた。森を抜ければ畑が広がり、川を越えれば石造りの家々が増えていく。道を尋ねれば宿の場所を教えてもらえたし、乗合馬車で隣り合わせた商人からは、近頃の市の様子を聞くこともできた。
旅そのものは順調だった。ただ、街道脇の果樹にはまだ青い実が多く、宿で出された山菜についても、今年は採れる時期が少しずれたのだと聞いた。店先の籠を覗いても、育ちの遅いものと、もう食べ頃を迎えたものが混じっている。リーネは気になったことだけ手帳へ書き留め、歩みを止めずに先を目指した。
山並みが近づくと、道を行く荷車の形が変わった。車輪が太くなり、積み荷には木材や鉱石が目立ち始める。やがて岩壁を切り開いた門が現れ、見覚えのある槌の紋章を見つけたとき、リーネは懐かしさに口元を緩めた。
ドワーフ王国だった。
門を抜けた先では、相変わらずあちこちから鉄を打つ音が聞こえた。昔よりも整えられた通路を進み、坑道を走る運搬車に揺られて中央大坑都へ向かう。途中で車両がすれ違うたびに鎖が鳴り、壁に掛けられた灯りが岩肌を照らした。通路の分岐はずいぶん増えていたが、冷たい石の匂いは記憶の中と変わらなかった。
中央大坑都へ着く頃には、リーネの耳にも工房の槌音が重なって届いていた。鍛冶師たちの仕事が一斉に始まる朝の響きだ。懐かしいと思うより早く、かつてアルメイダと歩いた石段や、湊たちと食べた濃い煮込みの味が浮かんだ。
王宮は、以前と同じく巨大な岩柱を削って造られていた。華美な飾りは少なく、入口の鉄扉には盾と槌を組み合わせた紋章が残っている。リーネが名を告げ、アルメイダに会いたいと伝えると、取次ぎの役人は驚いたように顔を上げた。
「白銀の剣聖リーネ様。お越しになるとは伺っておりませんでした」
「急に来たからね。アルメイダはいる?」
「はい。ですが、アルメイダ様はすでに王位を退かれております」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。アルメイダが年を重ねていることは分かっていたけれど、あの人が王の仕事を手放すところは、なかなか想像できなかった。
「今はどこにいるの?」
「王宮内に専用の鍛冶場を設けております。ほとんどの時間を、そちらでお過ごしです」
「……なんだ。結局、あんまり変わってないじゃない」
役人は困ったように笑い、案内を申し出てくれた。廊下を進むにつれて石壁が温かくなり、やがて金属を叩く澄んだ音が聞こえ始める。案内役が扉の前で立ち止まっても、その音は途切れなかった。
「作業中は、お声が届かないこともございます」
「大丈夫。慣れてるよ」
リーネは礼を言い、扉を開けた。
炉の熱が頬を撫でた。壁には火箸や槌が大きさごとに掛けられ、床には削り屑を受ける桶が並んでいる。金床の前には、太い腕を上げて槌を振るうドワーフがいた。編み込まれた髭には白いものが増え、以前より肩が少し丸くなったようにも見える。それでも鉄を打つ手は確かで、槌が落ちるたびに高い音が真っ直ぐ響いた。
リーネは声をかけずに待った。何度か槌が落ち、熱した鉄が炉へ戻される。ようやく男が顔を上げると、目を細めてこちらを見た。
「……リーネか?」
「久しぶり、アルメイダ」
「お前、来るなら先に知らせろ!」
「知らせたら、仕事を切り上げてくれた?」
「切り上げるわけがなかろう」
「ほらね」
アルメイダは大声で笑った。使っていた槌を置き、手袋を外すと、近づいてきたリーネの肩を力強く叩く。少し腰を曲げていても、その手の重さは昔と変わらない。
「元気そうじゃないか。森はどうだ」
「みんな元気だよ。レーア姉様もフェルナンド兄様も、父上も。長も相変わらず」
「そうか。……なら、まず座れ。顔を見せに来ただけではあるまい」
勧められた腰掛けには、使い込まれた革が張ってあった。アルメイダは炉の火を整え、水差しを二つの杯へ注ぐ。リーネが荷袋から手帳とシロの手紙を取り出すと、相手の顔つきも自然と引き締まった。
リーネは、世界樹の森で見てきたことを話した。葉の開くのが遅くなった草、なかなか実をつけない木、根に触れたときの妙に長い静けさ。北西の古い傷は少しずつ癒えているのに、森の違う場所でも似たことが起きている。アルメイダは途中で口を挟まず、手元の杯を置いて聞いていた。
「それで、もう一つ。シロから手紙が来たんだ」
「おお、シロか。アカも一緒か?」
「うん。二人ともクロを訪ねていってね。今は西の町の食堂で、クロと一緒に暮らしてるんだって」
「ほう、あの二人までか。クロが湊の生まれ変わりを見つけたという知らせは、儂にもギルドから届いたが……その後は知らなんだ」
アルメイダは髭を撫で、嬉しそうに笑った。クロが何十年も探し続けたことを、この人も知っている。見つかったと聞いて安堵したのは、リーネだけではなかったのだ。
「ミナトっていう、普通の男の子なんだって。お母さんとお姉さんがいて、食堂を営んでるの。シロとアカは、そこの料理もすっかり気に入ったみたい」
「ははっ、あいつららしい。クロも賑やかになったろうな。……それで、シロの手紙がどうした」
リーネは便箋を開き、《勇者》の力が突然シロに宿ったことを伝えた。アルメイダの太い指が髭から離れ、膝の上で止まる。
「《勇者》だと?」
「そう。シロ自身にも、理由は分からないって。《魔王》の噂も届いてないらしい」
「ふむ……」
低く唸ったきり、アルメイダはしばらく黙っていた。炉の中で炭が崩れ、赤い火が小さく揺れる。
「桐人と旅をした儂らが聞いて、平気な名じゃないな」
「うん。だから、あたしも各地を見に行こうと思ったんだ」
「世界樹の具合と、その話か。……この国でも、気になることはある」
アルメイダは隣の棚から、書きつけの束を引き抜いた。坑道の補修記録に混じり、地下の茸を育てる区画からの知らせが挟まれている。
「いつもなら収穫できる頃合いなのに、傘が開かんとさ。別の区画でも似たことを言うとる。水路の手入れは済んでおるし、育て方を変えたわけでもないそうだ」
「森の外でも、同じような話を聞いたよ」
「ああ。畑の方からも知らせが来ておる。だが、天候や土の具合で変わる年は昔からある。儂も最初は、そういうものだと思っとった」
リーネは書きつけを受け取り、日付と場所を確かめた。遠い世界樹の森と、岩に囲まれたドワーフ国。それぞれの暮らしの中で、似たような遅れが生まれている。そのことをアルメイダと話しているだけでも、ここへ来た意味があった。
「この国でも、ほかの場所の様子を調べてくれる?」
「当然だ。だが儂はもう王ではない。国として動くなら、今の王に話を通さんとな」
「分かってる。そっちもお願いできる?」
「儂が連れていく。あいつも、話を聞かん人間ではない」
アルメイダは立ち上がり、炉の方へ目を向けた。途中まで打っていた鉄が気になったらしい。リーネがそれに気づくと、先に口を開いた。
「火を落ち着かせてからでいいよ」
「当たり前だ。鍛冶は途中で投げ出すもんじゃない」
「相変わらずだねえ」
「王の仕事は譲れたが、こっちは譲れん」
言い切る声があまりに嬉しそうだったので、リーネは笑ってしまった。
その日の午後、リーネはアルメイダとともに現国王へ面会した。国王は二人を落ち着いた様子で迎え、世界樹の記録とシロの手紙に目を通した。何をどこまで調べられるか、各坑道や町から届く報告をどうまとめるか。話は自然と具体的な段取りへ移っていった。
「こちらでも、植物の生育や地下の水の様子を改めて確かめましょう。すでにある記録も見直します。エルフ国へは、まとまったところから順にお送りします」
「ありがとう。助かるよ」
「《勇者》の件については、当面こちらで預かります。各地から急を要する知らせがあれば、ギルドを通してあなた方へ届けましょう」
リーネは深く頷いた。アルメイダも隣で腕を組み、王の言葉を聞いている。話の終わりに、国王は担当者を呼び、エルフ国と情報を交換するための書状を整えるよう命じた。正式な返書には王の印が押され、リーネも控えを受け取った。
部屋を出ると、アルメイダは大きく息を吐いた。
「これで国の方はよかろう。儂は、しばらく鍛冶場へ戻る」
「えっ、もう?」
「お前はこれから、あちこちへ行くんだろう。儂まで連れていくつもりか?」
「……ちょっとは考えたよ」
「儂も、もう歳だしな。長旅は若いのに任せる」
そう言いながら、アルメイダはさっさと鍛冶場へ続く廊下へ足を向けていた。リーネはその背を眺め、思わず吹き出す。
「本当は、鍛冶をしてたいだけでしょ」
「何か悪いか?」
「悪くないよ。元気そうで安心した」
「ふん。帰る前に、もう一度顔を出せ」
「また何か作ってるところ、見せてくれる?」
「手を止めんでも文句を言わんならな」
リーネは肩をすくめた。昔と変わらない軽口が、石の廊下へ響いた。
それから数日、リーネは国の中を歩いて回った。工房街では若い鍛冶師たちが火花を散らし、運搬路では荷車が途切れず行き交っていた。以前は知らなかった新しい坑道も増え、通りの角には見覚えのない食堂ができている。鍛冶の仕事も、人々の暮らしも、長い年月の中で少しずつ形を変えていた。
地下の栽培区では、棚に並べられた茸の傘を見せてもらった。育て始めた日付を記した木札は、確かに去年の記録より早い時期のものだったのに、まだ小さな茸が多い。作業をしていたドワーフは、棚の間を回りながら首を傾げていた。
「手はかけてるんですがね。駄目になったわけじゃないんです。あと少し、あと少しって待ってるうちに、次の仕込みの日が来ちまう」
「待てば大きくなる?」
「今のところは。ただ、順番が揃わなくて困ります」
別の区画でも似た話を聞いた。リーネは作業の邪魔にならないように棚の間を歩き、何人かから教わったことを手帳へ書き留めた。どの場所でも人々は工夫を重ね、今日の仕事を続けている。町全体が沈んでいるわけではなかった。
滞在の最後の夕方、リーネはもう一度王宮の鍛冶場を訪ねた。扉の向こうから聞こえた槌音は、初日よりも少し軽かった。アルメイダは小ぶりの刃物を磨いていて、リーネを見ると、それを作業台へ置いた。
「もう行くのか」
「うん。いろいろありがとう。あたしも、ここで聞いたことを森へ知らせておくよ」
「そうしろ。こちらも何か分かれば送る」
リーネは荷袋を背負い直した。アルメイダは扉まで見送りに来て、そこでふと足を止める。
「で、次はどこだ」
「北の竜の巣。アオに会ってくるつもり」
「ああ。あいつも今は大勢の竜を束ねとるそうだな」
「どうしてるか、久しぶりに顔を見てくる。それに、空からなら見えることもあるかもしれないしね」
リーネはそこで、かつて通った地下の道を思い出した。竜たちを捕らえていた施設の奥から、北方の谷へ続いていた坑道だ。
「そういえば、竜の巣まで地下で繋がってたよね。あの道、埋めちゃった?」
「いや。危険な区画は封鎖しとるが、北方坑道そのものは監視を続けておる。竜の巣との連絡にも関わる道だからな。ただ、今どこまで安全に通れるかは確かめにゃならん」
「通れるなら、そっちから行きたいな」
「ならば管理の連中に聞いてやる。今の王にも許可を取らねばならんが、お前の行き先は伝えてある。無理に遠回りすることもなかろう」
「ありがとう。助かるよ」
アルメイダは頷いてから、思い出したように太い指を上げた。
「そうだ。アオに会ったら伝えてくれ。儂は元気に槌を振っとるとな」
「自分で手紙を書けばいいのに」
「鍛冶の方が忙しい」
リーネが笑うと、アルメイダも大きく笑った。別れ際に交わした握手は、昔ほど荒々しくはなかったけれど、指先には確かな力が残っていた。
翌朝、リーネは坑道を管理する者とともに、中央大坑都の奥へ向かう運搬車に乗った。北方へ抜ける道は点検され、今回は通行してよいとの返事が王宮から届いていた。立ち入りを制限された区画は係の案内に従って通ることになる。
岩壁の灯りが後ろへ流れ、遠くで響く槌音が少しずつ薄くなっていく。荷袋には、ドワーフ国で書き足した手帳と、王の印が入った書状が収まっていた。
かつて仲間たちと歩いた、北方へ続く地下の道。その先には、長いこと会っていない青い竜がいる。
リーネは揺れる車内で荷袋を抱え直し、思わず笑みを浮かべた。
アオは、どんな顔をするかな。




