第27話
封筒を開くと、折り畳まれた便箋が二枚入っていた。見覚えのない、けれど丁寧な字だった。リーネは廊下の窓辺へ寄り、差し込む午後の光の下で読み始めた。
最初に書かれていたのは、シロとアカが元気に暮らしているという知らせだった。クロとも会えたこと。今は小さな食堂で世話になっていて、毎日おいしい食事を食べていること。そこで暮らすミナトという子供が、二人の帰り道を地図に描いてくれたことまで書いてある。
「……ふふ。何やってるんだか」
あの二人が食べ物につられて住む場所を決める姿は、想像するだけでおかしかった。クロまで一緒に暮らしているのなら、きっと退屈はしないだろう。リーネは笑いながら次の行へ目を移し、そこで指を止めた。
『今朝、目が覚めたら、わたしに《勇者》の力が宿っていたの』
何度か読み直しても、文字は変わらなかった。続く便箋には、身体に変わったところはないこと、クロとアカにも相談したこと、ギルドで各地の知らせを調べてもらっていることが綴られている。けれど、《魔王》が現れたという話は今のところ聞こえてこないという。
リーネは便箋を膝の上へ下ろした。窓の外では、枝を伝って降りてきた小鳥が、水を飲もうと浅い鉢へ嘴を寄せている。遠くの回廊からは、誰かの穏やかな話し声も聞こえてきた。
《勇者》。その名を最後に聞いたのは、いつだっただろう。遠い昔の戦いを思い出すと、今でも剣を握る手に重さが残る。シロが自分から望んだものではないことだけは、手紙の言葉から伝わってきた。
「リーネ?」
声をかけられて振り返ると、フェルナンドがまだそこにいた。手紙を受け取った妹が急に黙り込んだので、気になったらしい。
「兄様。……父上にも、少し時間をもらえるかな」
「何かあったのか?」
「うん。姉様と兄様にも聞いてほしいんだ。世界樹のことと、関係があるかもしれない」
兄はそれ以上尋ねず、頷いた。リーネは便箋をもう一度畳み、封筒へ戻す。さっきまで懐かしい顔を思い浮かべていた手紙が、掌の中で急に重く感じられた。
翌朝、王宮の奥の小さな部屋に、国王とフェルナンド、レーアが集まった。窓からは世界樹の根が這う庭が見え、卓の上にはレーアが集めた薬草の記録と、森の各所から届いた報告が置かれている。リーネは空いている席に腰を下ろし、昨日受け取った手紙を取り出した。
「西の方にいるシロから届いたんだ」
「クロさんを訪ねていった、あの銀狼の子ね」
「うん。今はアカと一緒に、クロのいる家で暮らしてるみたい」
レーアが安心したように微笑む。リーネは二人の近況を手短に伝えてから、手紙を卓の中央へ置いた。
「そのシロが、《勇者》になったんだって」
フェルナンドが顔を上げた。レーアも、手元の記録へ伸ばしかけていた指を止める。国王だけは動かず、リーネの次の言葉を待っていた。
「目を覚ましたとき、突然そうなったらしい。本人にも理由は分からないって。向こうのギルドには、今のところ《魔王》に関わる知らせもないそうだよ」
「……シロ本人が、そう書いているのだな」
「うん。あの子が、こんなことで冗談を言うとは思えない」
国王は手紙を手に取り、ゆっくり目を通した。フェルナンドは隣から覗き込まず、父が読み終えるのを待っている。部屋には、庭から聞こえてくる葉擦れの音が続いていた。
「かつての戦いでも、《勇者》の名は軽いものではなかった」
手紙を置いた国王が言った。
「だが、今この国の民へ警戒を呼びかければ、何が起きているのかを問われる。答えを持たぬまま、不安だけを広げることになるな」
「はい。まずは届いている報告を確かめます。国外からの知らせも、通常の連絡の中で拾えるはずです」
フェルナンドが答え、机の端に控えていた紙へ何かを書き留めた。レーアは薬草の記録を一枚広げる。
「こちらも、森の外から似た報告が少しずつ来ています。芽吹きが遅い、収穫の時期が読みにくい……。今すぐ暮らしに困るほどではありませんけれど」
「北西の根の傷とは、様子が違うんだ」
リーネは、長と一緒に触れた根の感触を思い出した。以前の傷はゆっくり癒えている。それなのに、離れた場所の木々も、世界樹の響きも、以前より次の動きを待つようになっていた。
「長も気にしてる。世界樹の根を辿ってみても、一か所だけがおかしいわけじゃないみたい。あたし、森の外を見に行こうと思う」
「外へ?」
レーアがリーネを見る。
「うん。昔、旅した国々をもう一度回ってみたい。森で起きていることが、ほかの土地でも起きているのか、自分の目で見たいんだ」
フェルナンドが腕を組んだ。
「シロの《勇者》の件も、調べるつもりか」
「もちろん。会って話したいし、あの子が困ってるなら力になりたい。でも、先に調べておけることもあるでしょ。二つの話を持って、各地の知り合いを訪ねてみるよ」
リーネが答えると、国王はしばらく窓の外を見ていた。遠くで妖精たちの小さな羽音が重なり、日差しが根の表面をゆっくり移っていく。
「最初はどこへ向かう」
「ドワーフ国。アルメイダに会ってくる」
思い浮かんだのは、槌を振るう大きな背中だった。王宮にいるより工房にいる方が似合う、あの豪快な友人。地面の下を流れるものや、鉱石が育つ場所についてなら、エルフとは違う話を聞かせてくれるかもしれない。
「それに、アルメイダなら何か見つけても遠慮なく言ってくれるよ。あたしの勘違いだったら、きっと笑い飛ばすだろうしね」
「それは想像できるわ」
レーアが小さく笑った。フェルナンドも口元を緩めたが、すぐに表情を引き締める。
「旅先で得たことは、こちらにも知らせてくれ。森の記録と比べたい」
「うん。ギルドを使って便りを出すよ」
国王は頷き、手紙をリーネへ返した。
「行っておいで。お前は、外を歩いてきたからこそ気づけることがあるのだろう。こちらは森を見守る」
「……ありがとう、父上」
「ただし、無理はするな。何かあれば帰ってくればいい」
その言葉が意外に優しくて、リーネは少しだけ目を瞬いた。それから昔と変わらない笑顔を作る。
「分かってるよ。今度は帰る場所、ちゃんとあるからね」
話が終わると、リーネは部屋へ戻り、シロへの返事を書いた。久しぶりの手紙が嬉しかったこと。クロと再会できたと聞いて安心したこと。《勇者》の知らせには驚いたけれど、一人で抱え込まないでほしいこと。書いているうちに伝えたいことが増え、便箋は思ったより早く埋まってしまった。
『あたしも世界樹の様子が気になって、これから少し旅に出るよ。最初はアルメイダに会いにドワーフ国へ行くつもり。何か分かったら、また知らせるね。シロも、アカと一緒に元気でいて。いつか会って、ゆっくり話そう』
最後に自分の名前を書き、封筒を閉じた。宛先には、シロの手紙に記された西の町の冒険者ギルドを指定する。クロへの伝言も一行付け加えたが、考え直して消した。また会ったときに、直接言えばいい。
その日のうちに町のギルドへ持ち込むと、受付の者は途中の支部を経由するため日数がかかると説明した。リーネは構わないと答えて封筒を託し、引き換えの控えを荷袋へしまった。すぐには届かなくても、あの二人はきっと待っていてくれるだろう。
出発までの二日間は、思った以上に忙しかった。フェルナンドから道の状況を聞き、レーアがまとめた森の記録を写し取り、剣の手入れも済ませる。かつては思い立てばすぐ森を飛び出していたのに、今は挨拶しておきたい相手も、確かめておきたいものも多かった。
夕食の席では、母と姉たちにも旅立つことを告げた。姉たちから次々に行き先を尋ねられ、リーネが答えきれずにいると、母が笑って話を遮ってくれた。食事を終えて席を立とうとすると、今度は母に呼び止められ、旅装の襟を整えられた。
「今度は、帰ってきたら旅の話を聞かせてね」
「うん。きっと、いっぱいあると思う」
そう答えると、母は微笑んでリーネの額に触れた。外の世界へ向かうのが楽しみなのは昔と同じでも、送り出してくれる人たちの顔を一つずつ思い出せることが、今は嬉しかった。
出発前日の朝、リーネはオウルの墓を訪ねた。墓前に供えられた花をそっと整え、しゃがんで目を閉じる。かつて久しぶりに王宮へ戻ったとき、穏やかに笑って頭を撫でてくれた兄の姿が浮かんだ。あの手の温かさも、まだ覚えている。
「また旅に出るよ。世界樹のこと、もう少し見てくるね」
返事のない墓前で、リーネはしばらく風の音を聞いていた。やがて立ち上がると、墓に向かって小さく手を振り、歩き出した。
出発前日の夕方、リーネは世界樹の根元を訪ねた。新しい妖精族の長は、以前二人で眺めた芽のそばにいた。あのとき硬く閉じていた葉は、今では小さく開いている。長はリーネに気づくと、根の上からふわりと浮かび上がった。
「リーネ、また来たの?」
「うん。明日から、ちょっと遠くへ行くんだ」
「遠くって、森の外?」
「そう。世界樹のこと、もっと知りたくて」
長はリーネの顔を見てから、足元の芽へ目を戻した。
「この子は、やっと葉っぱを開いたよ」
「うん。きれいだね」
「ほかの子たちも、ちゃんと育ってほしいな」
長は小さな掌を根へ当てた。リーネも隣にしゃがみ、長いこと慣れ親しんだ樹皮に触れる。低い響きは確かに続いていたが、次の響きまでの間には、やはり少し静けさがあった。
「森のこと、お願いね」
「うん。リーネも、帰ってきたら外の話を聞かせて」
「いっぱい持って帰るよ。面白い話もね」
長は嬉しそうに笑った。周りの妖精たちも集まってきて、誰かがリーネの髪を引っ張り、別の者は荷袋の中を覗こうとする。リーネが困った顔で追い払うと、皆が小さな声で笑いながら散っていった。
翌朝、森の出口へ続く道では、レーアとフェルナンドが待っていた。レーアは食べ物と薬草の包みを差し出し、リーネの荷袋が膨らみすぎないように中身を入れ替えてくれる。フェルナンドは道中で通る町を記した紙を渡し、途中のギルドで使える紹介状も用意していた。
「……あたし、一人で旅できるんだけど」
「知ってるわ。でも、姉が支度を手伝ってはいけないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「では、ちゃんと受け取って」
レーアが微笑むと、リーネは降参して荷袋を閉じた。フェルナンドも横で笑い、剣の柄が引っかかっていないか確かめる。
「父上には、今朝も挨拶してきたんだろう」
「うん。『気をつけて行け』って。兄様と同じこと言ってた」
「心配するのは当然だ。たまには知らせを寄越せよ」
「はいはい。ちゃんと書くよ」
リーネが軽く手を振ると、レーアが一歩近づいてきた。数百年ぶりに帰ってきたあの日と同じように、姉の腕がそっと背中へ回る。リーネも抱き返すと、慣れ親しんだ草木の匂いがした。
「行ってらっしゃい、リーネ」
「うん。行ってくる」
フェルナンドとも短く抱き合い、リーネは二人に背を向けた。森の木々の間を抜けると、陽に温められた街道が先へ伸びている。遠くへ出るのは久しぶりだったが、懐かしい道を踏む足は自然と軽くなった。
アルメイダは、今も工房で槌を振っているだろうか。あの大きな声を聞いたら、まず何と言ってやろう。そんなことを考えていると、まだ会ってもいないのに笑みがこぼれた。
リーネは一度だけ振り返った。世界樹の梢は森の向こうに高くそびえ、朝の光を受けて静かに揺れている。レーアとフェルナンドの姿は、もう木々に隠れて見えなかった。
帰る道は、ちゃんと覚えている。
リーネは荷袋を背負い直し、ドワーフ国へ続く街道を歩き始めた。




