第26話
夏が過ぎ、森の葉が色を変え始めても、リーネは長の言葉をときどき思い出した。
世界樹の根元へ行けば、妖精たちはいつものように飛び回っている。新しく生まれた者が先にいる者を追いかけ、疲れれば枝へ腰を下ろす。遠くから見れば、去年と何も変わらなかった。
けれど、一度気になると、これまで見過ごしていたことが目に入る。森の入口にある低木は、例年ならとっくに実を落とす頃なのに、まだ枝に青い実をつけていた。ほかの木では葉が先に色づき、足元の草は青さを残している。季節ごとに揃っていたはずの景色が、少しずつ足並みを乱していた。
「今年は、木によってずいぶん違うね」
リーネが言うと、隣を歩いていたレーアも低木へ目を向けた。
「雨の降り方もまちまちだったから、そのせいかもしれないわ。薬草を育てている人たちも、収穫の日を決めにくいと言っていたの」
「いつもより少し遅いだけ?」
「それならいいんだけれど。森の奥も見てきたんでしょう?」
「うん。ちょっと気になるところがあって」
レーアは歩く速さを緩めたが、詳しく問い詰めはしなかった。代わりに、次に薬草を摘みに来るときは一緒に歩こうと誘ってくれた。リーネは頷き、足元へ落ちていた実を一つ拾った。指で押すと、まだ硬い。
数日後、新しい妖精族の長が世界樹の根元でリーネを待っていた。
「今日は、向こうにも来てほしいの」
「向こう?」
「昔、傷ついていた根の方」
リーネは頷き、長のあとを歩き始めた。森の奥は足元の起伏が大きく、根が地面を盛り上げている。長はときどき空へ浮かび、低い枝を越えた先で待った。後ろからついてくる妖精たちもいたけれど、道の途中で花や虫を見つけると、それぞれ好きな方へ散っていった。
北西へ続く太い根の近くでは、古い傷が樹皮の色を変えていた。ニーズヘッグに食われた場所だ。長い年月で新しい組織が伸び、深く抉られていたところも、今は見た目にはずいぶん目立たなくなっている。
「前より、きれいになったね」
「うん。ここは少しずつよくなった」
長が根へ掌を当てた。リーネも隣にしゃがみ、指先を樹皮へ添える。以前は途中で細く途切れそうになっていた流れが、奥の方まで続いているのを感じた。まだ弱いところはあっても、かつての傷は時間をかけて癒えてきたのだ。
「……ここじゃないの?」
思わず漏れた問いに、長が顔を向けた。
「何が?」
「最近、世界樹の様子が少し違うって言ってたでしょう。昔の傷のせいなのかと思って」
長は根から手を離し、しばらく考えた。
「ここだけじゃないよ。反対の方も、もっと遠い方も、同じように待ってる」
「待ってる……?」
「うん。水が来るのも、次の水が来るのも。前より長く待つときがあるの」
リーネは根の上へ座り、耳を澄ませた。地面の下から低い響きが伝わってくる。幼い頃から聞いてきた音なのに、耳を傾ける時間が長くなるほど、次の響きまでの静けさが気になった。
グランデルでの戦いの前、世界樹は大きく傷ついていた。根が食われ、流れが奪われた場所には、痛ましいほどはっきりした痕跡があった。けれど今、指先の下には冷たい傷も、何かに抉られたような感触もない。
「長。ほかの妖精たちも気づいてる?」
「気づいてる子もいるよ。今日は元気だねって言う子もいるし、まだ眠たいって言う子もいる」
「そっか」
長はリーネを見て、少し首を傾げた。
「リーネ、心配?」
「うん。少しね」
「じゃあ、私もよく見ておく」
その言葉があまりに自然だったので、リーネは笑った。先代の長なら、世界樹のことは任せろと胸を張っただろうか。今の長は、自分の足元にある変化を一つずつ確かめている。違う命なのだと、こういうときにも思う。
森に冬が訪れると、リーネは剣の稽古をするために外へ出る日を少し減らした。冷たい空気の中で木々の手入れをする人々と歩き、レーアが集めた薬草の記録を一緒に確かめた。収穫の遅れは森の一か所だけではなく、離れた集落からも似た話が届いていた。
暖かな日が続いたと思えば、芽吹きを待つ枝はなかなか動かなかった。妖精たちは相変わらず歌い、笑い、眠る。春を迎える森の色も消えはしない。ただ、花を待つ間が少し長い。そんな小さなことが、いくつも重なった。
ある朝、リーネが窓を開けると、庭先の若木に小さな芽がついていた。何日も硬いままだった先端が、ようやく柔らかく膨らんでいる。下の枝では、遅れていた芽がまだ閉じていた。
「リーネ、外へ出るの?」
朝食の支度をしていたレーアが声をかけた。リーネは窓を閉めずに振り返る。
「世界樹へ。それから、兄様にも頼みたいことがあるんだ」
「何を?」
「森の外でも、似たような話がないか聞いてもらいたいの。採れるものが遅くなったとか、春の花が咲きそびれたとか、そういう小さな話でもいいから」
「……分かったわ。兄上なら、届いている報告を確かめられると思う」
レーアは頷いた。リーネは窓の外をもう一度見た。枝の先には朝露が光り、蕾は風に小さく揺れている。春が来なくなったわけではない。それでも、待っているだけでは見落としてしまうものがある気がした。
その日の昼過ぎ、リーネが世界樹から戻ると、入口でフェルナンドが待っていた。手にした封筒を見て、頼んだ報告がもう届いたのかと思ったが、兄の表情はどこか違っていた。
「リーネ。お前宛ての手紙だ」
「もう調べてくれたの?」
「いや。各地の冒険者ギルドを経由して届いたものだそうだ」
差し出された封筒には、途中の支部でつけられた印が幾つか重なっていた。遠い西の方から運ばれてきたらしい。リーネは裏返して差出人を見て、思わず指を止めた。
シロ。
懐かしい名前だった。クロが探していた子を見つけたと聞いて以来、シロとアカも会いに行っただろうかと、何度も考えた。元気にしているならそれでいいと思っていたけれど、こうして名前を見るだけで、旅の途中に交わした声が蘇ってくる。
「誰からだ?」
「昔の仲間だよ。……ちょっと、久しぶりで」
リーネは封筒を胸元へ寄せた。世界樹の枝を渡る風が、白銀の髪を揺らしていく。中に何が書かれているのか、まだ知らない。
それでも、懐かしいあの子が今、自分に何かを伝えようとしている。そのことが嬉しくて、リーネは封を切る前に一度だけ笑った。




