第25話
世界樹の森に、遅い朝霧が残っていた。
木々の間を歩くリーネの肩へ、湿った葉先から雫が落ちる。上を見上げると、幾重にも枝が重なり、その向こうに世界樹の白い幹が覗いていた。森へ戻ってから、もう数えきれないほどこの道を歩いている。それでも、ここへ来るたびに少しだけ足が軽くなった。
少し前まで、森の外れの広場では若いエルフたちが木剣を振っていた。通りかかったリーネが足運びを一つ直すと、皆が妙に真剣な顔になり、次々にもう一度見てほしいと言い始めたのだ。結局、朝の稽古に付き合ってから森へ向かった。
昔は剣を握って森を出るたび、レーアに心配され、フェルナンドに呆れられた。今は帰ってくれば誰かが稽古に誘い、夕食の席では知らない間に増えた親戚の話が出る。長い年月で暮らしの形は変わったけれど、リーネはそんな日々を案外気に入っていた。
「リーネ、今日は早いのね」
木立の向こうからレーアが現れた。腕には小さな籠を提げていて、中には朝摘んだらしい葉が重ねてある。
「姉様こそ。もう仕事?」
「薬草を分けてもらいに来たの。頼んでいたものが、今朝ようやく揃ったそうだから」
「じゃあ、あたしも持つよ」
「あなたは世界樹へ行くのでしょう。顔に書いてあるわ」
レーアに笑われ、リーネは肩をすくめた。昔から姉には、言い出す前に気づかれてしまうことが多い。
グランデルでクロと別れたあと、リーネはこの森へ帰ってきた。姉と兄に迎えられ、新しく生まれた妖精族の長に会い、湊の帰ってこない旅の話をした。それから長い時間が流れた。エルフ国を離れて剣を振るうこともあったが、旅を終えれば、いつの間にかこの道へ戻るようになっていた。
何年かに一度、クロが訪ねてきた。森の入口で黒い姿を見つけると、リーネはいつも厨房へ向かい、温かな食事を用意した。クロは食べ終えてから旅先の話をしたり、何も話さず眠ってしまったりした。次はどこへ行くのかと聞いても、決まっていないと答えることが多かった。
ただ一度も、もう探すのをやめるとは言わなかった。
「また、クロのことを考えていたの?」
「……そんなに分かりやすい?」
「昔からよ」
レーアは籠を持ち直した。
「見つかったと聞いたときのあなた、しばらく同じ手紙ばかり読んでいたもの」
「嬉しかったんだよ。あいつ、本当に何十年も歩き続けたんだから」
「ええ。よかったわね」
リーネは頷いた。クロが探していた子と出会い、今はその家で暮らしている。ギルドを通じて届いた知らせは短かったけれど、それだけで十分だった。いつか訪ねていきたい気持ちはある。それでも、クロがようやく見つけた暮らしを、遠くからの客で慌ただしくしたくはなかった。
「さて、あたしはちょっと長の顔を見てくる」
「ええ。お昼には戻ってきて。フェルナンド兄様も一緒に食べると言っていたから」
「分かった。兄様に、あたしの分まで食べないでって伝えといて」
「そんなことをするのは、あなたでしょう?」
言い返そうとしたときには、レーアはもう笑いながら歩き出していた。
世界樹の根元に近づくにつれて、森の音が変わった。風が梢の高いところを渡り、地面近くでは小さな羽音が重なっている。妖精たちが枝から枝へ行き交い、リーネを見つけると何人かが手を振った。中には、彼女が前に訪れたときにはまだ生まれていなかった者もいる。
長は太い根の上に座り、足元の小さな芽を眺めていた。リーネが声をかけると顔を上げ、淡い光の中で微笑む。
「おかえりなさい、リーネ」
「ただいま。今日は何を見てるの?」
「これ。少し前から、ここにいるの」
長が指差したのは、根の隙間から顔を出した草の芽だった。柔らかな二枚の葉は、どちらもまだ開ききっていない。
「見たところ、元気そうだけど」
「うん。元気だよ。でも、開くところを見たくて待っていたら、朝になっちゃった」
「ずっとここにいたの?」
「途中で眠ったよ」
あっけらかんと答えるものだから、リーネは吹き出してしまった。先代の長なら、もう少しもったいぶった言い方をしたかもしれない。目の前にいるこの長は、遠い昔のことを時折知っているのに、いま見つけた小さな芽にも本気で夢中になる。
最初に会った日のことを、リーネは今も覚えている。新しい長はリーネを見上げ、「もう一人は?」と聞いた。世界樹が覚えていた景色の中に、湊の姿があったのだろう。その言葉が胸に刺さったのも、もう遠い昔になった。
「リーネも待つ?」
「いいよ。少しだけね」
二人で根に腰を下ろすと、樹皮から微かな温もりが伝わってきた。昔、傷ついた北西の根を確かめに来たとき、場所によっては氷のように冷たかった。それが長い時間をかけて和らぎ、森にはまた鳥も虫も戻ってきた。
長は根に両手を置き、じっと耳を澄ませている。リーネも真似をして手を当てた。幹の奥から伝わる低い響きは、遠くで水車が回っているようにも感じられた。いつも聞く音だ。けれど、次の響きが来るまで、今日は少し間が空いた気がした。
「ねえ、長。世界樹は元気?」
「元気だよ」
長はすぐに答えた。それから、掌を離さずに少し首を傾げる。
「……でも、今日はゆっくりしてる」
「世界樹が?」
「うん。春から夏になると、もっと忙しいときもあるのに」
リーネは頭上を見上げた。若葉は陽を受けて透け、風に揺れている。足元の草も、空を横切る鳥も、何も変わらずそこにあった。
「雨が少なかったからかな」
「どうだろう」
長はそれきり答えず、また芽へ目を戻した。リーネも隣でしばらく待ったけれど、二枚の葉はとうとう開かなかった。
昼が近づき、森の道を戻ると、エルフ国の建物の間から食事の匂いが漂ってきた。長い時間を生きる人々が暮らす国でも、昼になれば誰かが食事を作り、子供たちは遊びから戻る。リーネがそうした当たり前の景色を好きになったのは、長い旅を終えてからかもしれなかった。
食卓ではフェルナンドが先に座っていた。リーネを見ると、何も言わずに自分の横の椅子を引く。
「遅かったな」
「世界樹のところにいたんだよ」
「長に捕まったか」
「芽が開くのを一緒に待ってた」
「……お前も相変わらずだな」
呆れた顔をしながら、兄はリーネの皿へ料理を取り分けてくれた。レーアが笑い、リーネは「ありがとう」と言って匙を取る。窓から入る風には、昼の陽に温められた木の匂いが混じっていた。
その日の午後、リーネはもう一度だけ世界樹を見上げた。
森の葉は変わらず揺れている。長の言った「ゆっくり」という言葉だけが、なぜか耳に残っていた。




