第23話
クロの後について食堂へ戻ると、エライザが開店前の最後の仕込みをしていた。メルは入口の窓を拭き、ミナトとアカは卓の上に水差しを並べている。朝の賑やかさがそのまま仕事の音へ変わっていくのを、シロはいつものように眺めた。
「シロ、裏の鉢はどうだったんだい?」
「ちゃんと新しい葉が出てたよ。ミナト、すごく喜んでた」
「そうかい。なら、今日はいい日になりそうだねえ」
エライザは笑って、鍋の蓋を持ち上げた。立ち上る湯気に香草の匂いが混じり、アカがすぐさま顔を向ける。ミナトに袖を引かれて仕事へ戻されると、厨房からまた笑い声が上がった。
シロも残っていた椅子を揃え、メルと一緒に入口の戸を開けた。最初の客が入ってきたのは、それから間もなくのことだった。常連らしい男が朝の挨拶をして窓際へ座り、エライザがよく通る声で注文を聞く。
何も変わらない。今朝も、これまでの朝と同じように店が動き始めた。
けれどシロには、胸の奥に収まった《勇者》の名が、どうしても気にかかった。水差しを運ぶ手を止めるほどではない。誰かに見られて分かるものでもない。それだけに、考えるのをやめようとしても、ふとした拍子に思い出してしまう。
クロは、厨房と客席の間をゆっくり歩いていた。ミナトに呼ばれれば近寄り、頭を撫でられると目を細める。シロはその姿を見つめてから、空いた水差しを棚へ戻した。
「エライザ、少し部屋へ戻ってもいい? あとでギルドに出かける前に、確かめたいものがあるんだ」
「いいよ。こっちはまだ忙しくないからね」
シロは礼を言い、階段へ向かった。途中で一度振り返ると、クロがこちらを見ていた。目が合ったところで小さく手招きをすると、黒猫は何も言わず、軽い足取りで後についてきた。
部屋へ入って扉を閉める。階下から食器の音や人の話し声がかすかに聞こえるものの、ここなら普通の声で話しても届かないだろう。シロが寝台の端に腰かけると、クロは窓辺へ跳び乗った。
「何だ。私に用か?」
「うん。……ちょっと、相談したいことがあって」
「珍しいな。朝からそんな顔をしていると思ったが」
シロは思わず自分の頬に触れた。アカにも静かだと言われたことを思い出す。隠しているつもりだったのに、二人には分かってしまうらしい。
「今朝、目が覚めたらね……わたし、《勇者》になってたの」
クロの尻尾が止まった。
窓の外で荷車の車輪が石畳を鳴らして通り過ぎる。その音が遠ざかっても、クロはすぐには口を開かなかった。金色の瞳がシロを見据えている。
「……今、何と言った?」
「《勇者》。そういう力が、わたしの中にあるの。昨日まではなかったのに、今朝になって突然」
「誰かに与えられたのか?」
「分からない。声も聞かなかったし、誰かに会った覚えもない。ただ、目が覚めたら、そうなってた」
クロは窓辺から床へ降り、シロの足元まで来た。小さな身体を見下ろすと、いつもなら頼もしく感じる金色の目が、今はひどく真剣だった。
「身体はどうだ。妙な痛みや、勝手に動こうとするような感覚はないか」
「うん。身体はいつもどおりだよ。でも、《勇者》だってことだけは、はっきり分かる」
「そうか……」
クロは短く答え、床へ腰を下ろした。前脚を揃えているのに、尻尾の先だけが落ち着きなく動いている。
シロは膝の上で指を組んだ。勇者という名を聞いて、クロが何を思い出すのか。かつて魔王だった頃のことも、湊が最後の戦いで倒れた日のことも、二人は知っている。
「ねえ、クロ。《勇者》が選ばれたってことは、どこかに《魔王》がいるんだよね?」
「……そう考えるのが自然だな」
「でも、どこにもそんな話はないよ。ギルドにも、遠くの国から来る商人たちにも、変わったことは聞いてない」
「世界の端から端まで、すべての知らせが届くわけではあるまい」
「うん。それは分かってる。でも……」
言葉が続かなかった。今朝、窓から見た穏やかな町並みが浮かぶ。大きな騒ぎなど何もないのに、自分だけが知らない戦いの入口に立たされている気がした。
「怖いのか」
クロに尋ねられ、シロは少し考えてから頷いた。
「怖いよ。どこかで誰かが困ってるなら助けたい。でも、何が起きてるのかも分からないまま、また大事なものを失うのは嫌なの」
クロは目を伏せた。シロの言葉を急かさず、しばらく黙っている。階下から、アカが何かを落としかけてエライザに叱られる声が聞こえた。次いでミナトの笑い声が上がり、シロの口元もわずかに緩んだ。
「……あいつも、そうだったな」
クロがぽつりと言った。
「湊?」
「ああ。目の前で誰かが困っていれば放っておけん。そうして、抱えきれぬものまで背負おうとする」
「わたし、そんなつもりじゃ……」
「分かっておる。だから先に言っておく。お前まで一人で何もかも引き受けるな」
少しだけ強い声だった。シロは返事をする前に、床へしゃがみ込んだ。クロと目の高さを近づけると、その小さな背中に手を添える。
「うん。だから、最初にクロへ話しに来たんだよ」
「……ならいい」
クロはそれきり横を向いた。けれど、背中に触れたシロの手を避けようとはしなかった。
長いあいだ、クロは湊を探し続けてきた。ようやく出会えたミナトとこの家で暮らし始めてから、まだほんの数年しか経っていない。クロがその時間をどれほど大事に思っているか、シロには痛いほど分かった。
「クロは、昔《魔王》だったでしょう。何か、手がかりになりそうなことはない?」
「私が知るのは、私の身に起きたことだけだ。《魔王》も《勇者》も、望めばその役目から逃れられるようなものではなかった。だが、お前に何が起きたのかを、ここで言い当てることはできん」
「……そっか」
「ただ、相手が見えんからといって、待ち続けることもあるまい。何かが起きているなら、どこかに跡は残る」
その言い方がいかにもクロらしくて、シロは小さく笑った。分からないことを無理に言い切らず、それでも次に何をするかは考えている。昔、湊と旅をしていた頃も、こうして何度も助けられた。
「まず、ギルドで最近の報告を聞いてみるよ。遠くの町で何か起きていないか、今なら確かめられるから」
「ああ。派手な噂ばかり探すなよ。小さな変化ほど、見過ごされやすいものだ」
「うん。それから、リーネにも相談したい。わたしよりずっと多くの場所に知り合いがいるし」
「よかろう。あやつなら、お前の話も聞いてくれる」
クロはようやく尻尾を落ち着かせた。シロも立ち上がりかけたが、ふと気になって、もう一度腰を下ろす。
「クロも、何か気づいたら教えてね」
「言われるまでもない。私はここにおる。お前たちが帰ってくれば、いつでも話は聞ける」
その答えに、シロは安堵した。クロが家を離れずにいることを、今は心強く思う。ミナトが遊びから帰ってくるこの家には、いつだってクロがいるのだ。
「アカには話したのか?」
「まだ。今朝は、うまく言い出せなくて」
「ふん。あやつは、お前が黙っていてもいずれ気づくぞ。隠し事をするのに向いた相手ではない」
「そうだね。あとで、ちゃんと話すよ」
シロが笑うと、クロもわずかに目を細めた。扉の向こうから、階段を上がる軽い足音が聞こえてきたのは、そのときだった。
「シロー? まだお部屋にいる?」
アカの声だった。続いて、戸を叩く音がする。
「ギルドに行くなら、アカも行きたい! エライザが、お昼までなら大丈夫だって!」
「うん、今行くよ!」
シロが返事をすると、クロは何事もなかったように扉の方へ歩いた。開けてやると、廊下にはアカが立っていた。
「あ、クロもいたんだ!」
「にゃあ」
「ミナト、さっきからクロを探してたよ!」
クロは尻尾を立て、アカの足元をすり抜けて階段を下りていった。すぐに階下でミナトが名前を呼び、短い鳴き声がそれに応える。
シロはしばらく、その音を聞いていた。
「シロ、どうしたの?」
「ううん。アカ、今日のギルド、一緒に来てくれる?」
「もちろん! シロと一緒がいい!」
「ありがとう。……歩きながら、少し話したいこともあるんだ」
「お話? なあに?」
「外へ出たら話すね」
アカは不思議そうに首を傾げたが、すぐに頷いた。支度をしようと先に廊下を歩き始める背中を、シロは追いかける。
階下では、エライザが新しい客を迎えていた。香草の匂いが漂う食堂を抜け、二人で表へ出ると、明るい日差しが石畳を照らしている。
シロはアカと肩を並べ、ギルドへ続く通りを歩き出した。胸の奥にある《勇者》の名は消えていない。それでも、一人で抱えていた朝よりは、少しだけ足が軽かった。




