第22話
ミナトが「ずっとみんなと楽しく暮らしたい」と言った翌朝も、食堂はいつもどおり賑やかだった。エライザがパンを焼き、メルが皿を並べ、アカは焼けるのを待ちきれずに厨房を覗いて叱られる。ミナトはクロを連れて裏庭へ出て、鉢植えに新しい葉がないか確かめていた。
あんなに嬉しそうに話していたのに、ミナトは昨日の言葉を改めて口にしたりはしなかった。きっと、本人にとっては特別な約束ではなく、今の暮らしが好きだという、それだけのことだったのだろう。
わたしも、その朝はほかのことを考えていた。旅の荷物を片づけ、ギルドへ討伐の報告を済ませたら、しばらくは近場の仕事を選ぼう。今度の休みには、ミナトが教えてくれた高台へみんなで行くのもいい。そんなことを考えながら、焼きたてのパンを籠へ移すメルを手伝った。
季節は、ゆっくりと夏へ向かっていった。
昼の日差しが強くなると、裏庭の鉢植えは朝のうちに水をやるようになった。ミナトとアカは毎日、どちらの葉が大きくなったか比べている。メルが細い木の棒に目印をつけてくれたおかげで、前の日と同じところを測れるようになった。
「こっち、昨日と同じだよ」
「アカのも! お水、足りないのかな?」
「土はまだ湿ってるよ。もう少し待ってみようか」
メルに言われ、アカは水差しを戻した。以前ならすぐに別のことへ飛びついていたのに、今は葉を裏返して虫がついていないか確かめたり、鉢の向きを変えたりしている。そんな様子を見ていると、アカにも新しく好きなことが増えたんだなと思った。
待っていた葉は、数日してようやく開いた。ミナトが真っ先に見つけ、わたしを呼びに来たので、みんなで裏庭へ出た。まだ小さな葉だったけれど、陽に透かすと薄い緑の筋がきれいに見えた。
「ほら、ちゃんと出てきた!」
「うん。待った甲斐があったね」
ミナトは満足そうに頷き、棒の印を少しだけ上へ書き直した。
夏の終わりが近づく頃には、食堂に届く野菜にも少し変化があった。いつも野菜を運んでくれる人が、籠の中を覗き込みながら首を傾げていたのを覚えている。
「今年は根菜がなかなか太らなくてね。もう少し待てば、いつもの大きさになると思うんだが」
「なら、急がず育てな。こっちはあるもので作るさ」
エライザはそう答え、その日の煮込みには細かく刻んだ葉物を多めに入れた。アカはいつもと少し違う味に気づいて、おかわりを頼むときに何を入れたのか尋ねていた。エライザが教えると、翌日にはメルと二人で香草の匂いを嗅ぎ比べている。
季節が変われば、畑の出来も変わる。昔から、よくあることだった。だからそのときも、わたしはそれ以上気に留めなかった。
秋には、町の通りに乾いた葉が舞うようになった。朝の空気は少し冷たくなり、食堂では温かな煮込みを頼むお客さんが増えた。エライザは仕入れに出るたび、その週に手に入った野菜に合わせて献立を考えていた。
ある日の昼下がり、メルが裏庭から小さな鉢を持ってきた。夏の間に伸びた枝の先に蕾がついている。ミナトが大事にしている鉢だった。
「もうすぐ咲きそうなの。窓辺なら、お店からも見えるでしょう?」
「わあ、楽しみ!」
アカが両手を叩き、ミナトは鉢を置く場所を一生懸命選んだ。日が当たりすぎないようメルが少し位置を直すと、ミナトは椅子に座って蕾を眺め始めた。
それから何日も、蕾は同じ形のままだった。
「まだかなあ」
「もう少しだと思うんだけどね」
メルも不思議そうに首を傾げていたけれど、無理に花びらを開こうとはしなかった。ミナトも、毎朝ひと目見るだけで満足するようになった。やがてある朝、閉じていた先がほんの少し緩んだ。それだけで、食卓に新しい話題が一つ増えた。
そんなふうに、店の中ではいつも何かを待っていた。新しい葉が出るのを。蕾が開くのを。畑から次の野菜が届くのを。
待つことに慣れたのか、ミナトは以前ほど「まだ?」と聞かなくなった。その代わり、小さな変化を見つけるのが前よりずっと上手になった。
ある日、裏庭の敷石につまずいたミナトが、ぺたりと尻もちをついた。アカが慌てて駆け寄り、わたしも手を伸ばしたけれど、ミナトはきょとんとした顔で座っているだけだった。
「痛くない?」
「うん。びっくりしただけ!」
立ち上がって服についた砂を払い、またアカと遊び始めた。あとでエライザが膝を確かめても、赤くなったところさえ見つからなかった。
「まったく、走るなら足元を見な。……でも、あんたは本当に丈夫になったねえ」
「ぼく、強くなった?」
「そうかもしれないね。背も伸びたし、食べる量も増えたもの」
メルが笑いながら答えた。エライザもミナトの髪を撫で、ふと思い出したように言った。
「そういえば、もうずいぶん熱も出してないね。小さい頃は、熱を出して寝込んだこともあったのに」
「うん。風邪をひくと、よくわたしの手を握ってたよね」
「覚えてない!」
ミナトが頬を膨らませると、メルが「そうだった?」と笑った。エライザはそれ以上何も言わず、泥のついた服を洗うようにとミナトを促した。
わたしも、元気でいてくれるのが嬉しかった。毎日のように走り回って、たくさん食べて、夜には眠くなる。目の前のミナトは、少しずつ大きくなっている。そんな当たり前のことが、ひときわありがたく感じられた。
冬が来ると、裏庭の鉢は風の当たりにくいところへ移された。寒い朝にはミナトの吐く息が白くなり、メルは水をやる前に土へ触れて、冷たさを確かめていた。
食堂では火を絶やさないようにしていたけれど、エライザは朝の仕込みを始める時刻を少し早めた。パン生地が思うようにふくらまない日があり、焼き上がりを待つアカが、何度も厨房を覗き込むからだ。
「まだ焼けない?」
「まだだよ。今日は生地がのんびりしてるんだ」
「アカのお腹は、もう準備できてるのに!」
「知ってるよ。あんたのお腹はいつだって早起きだねえ」
エライザが笑い、アカも笑った。少し遅れて焼き上がったパンは、いつもと変わらず香ばしかった。エライザはそのうち、生地を温かい場所へ置くようになり、アカも待つ間に皿を並べることを覚えた。
寒い季節が過ぎ、日差しが柔らかくなっても、鉢植えはすぐには賑やかにならなかった。メルは古い葉を取り除き、ミナトは土をこぼさないように新しい鉢へ植え替える。アカは空になった鉢を洗い、乾かして棚へ戻した。
「春になったのに、まだ眠いのかな」
ミナトが小さな芽を覗き込むと、メルは隣にしゃがんだ。
「そうかもしれないね。でも、ほら。ここ、少し緑色になってるよ」
「あ、本当だ!」
ミナトは嬉しそうにわたしを呼んだ。近づいてみると、確かに茎の先には柔らかな色が覗いていた。去年のようにすぐ大きくならなくても、ミナトはもう急かさなかった。
その日、エライザは久しぶりに庭で摘んだ香草を少しだけ夕食に使った。量は多くなかったけれど、アカは匂いを嗅いですぐに気づき、ミナトは自分が育てた葉だと分かると何度も嬉しそうに皿を覗き込んでいた。
食事が終わり、ミナトが眠そうに目をこする頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。メルが弟を連れて奥へ戻り、クロもその後をついていく。エライザは明日の仕込みを確かめ、わたしとアカは洗った皿を棚へしまった。
「シロ、明日の朝も鉢植え見る?」
奥の戸口から、ミナトが顔を覗かせた。眠そうな目をしているのに、それだけは忘れたくなかったらしい。
「うん。一緒に見ようね」
「約束だよ!」
ミナトは満足そうに笑い、今度こそメルと部屋へ戻っていった。
わたしは最後の皿をしまい、アカと二人で階段を上がった。明日は近くのギルドへ寄ろうと思っていたけれど、急ぐ仕事はない。朝食のあとで鉢植えを見て、それから出かければいい。
「シロ、明日のパンは何かな?」
「さっきまでご飯を食べてたのに、もう朝ご飯の話?」
「だって、楽しみなんだもん!」
アカが笑い、わたしも笑った。部屋へ戻ると、窓から夜の涼しい風が入ってきていた。わたしは荷物を置き、明日の服を畳んでから寝具へ入った。
明日も、みんなで朝を迎える。
それを疑う理由は、何もなかった。




