第21話
エライザに言われたとおり、わたしたちは裏口で靴の泥を落とし、手を洗った。旅の荷物はひとまず部屋へ置くつもりだったけれど、ミナトがなかなか袖を離してくれない。結局、アカが荷物を運ぶ間、わたしはミナトと一緒に厨房の入り口で待っていた。
「シロ、ほんとに怪我してない?」
「うん。ほら、手も足もちゃんと動くよ」
「よかったぁ」
ミナトはわたしの手を両手で包み、指先を一つずつ確かめた。そんなに心配してくれていたのかと思うと、胸のあたりがくすぐったくなる。足元ではクロが尻尾を揺らしながら見上げていて、わたしが笑うと、何でもないような顔で目を細めた。
店にはまだ二組ほどお客さんが残っていた。エライザはわたしたちに温かい茶を用意すると、いつもの調子で厨房に戻っていく。メルも皿を運びながら何度かこちらを振り返り、そのたびに嬉しそうに笑った。
「ご飯は、もう少し待っておくれ。せっかく帰ってきたんだ、みんなで食べようじゃないか」
「うん。わたしたちも片づけを手伝うよ」
「今日くらい座ってな。長い道を歩いてきたんだろう?」
エライザにそう言われると、素直に頷くしかなかった。しばらくして戻ってきたアカも隣へ座り、差し出された茶を両手で包む。杯の温かさにほっとしたのか、小さく息を吐いていた。
最後のお客さんを見送り、戸を閉めると、メルが食卓に皿を並べ始めた。エライザは鍋を火にかけ直し、焼きたてのパンを籠に盛る。わたしとアカも椅子を運んだり、杯を並べたりしたけれど、その間じゅうミナトは二人の間を行ったり来たりしていた。
「ミナト、そんなに動き回ったら、また転ぶよ」
「だって、シロもアカもいるんだもん!」
「ふふ。嬉しいんだよね」
メルが笑いながら声をかけると、ミナトは照れくさそうに頷いた。アカはその頭を撫でようとして、今度は自分の席へ座らされる。クロはミナトの椅子のそばに落ち着き、食卓を見上げていた。
湯気の立つ煮込みが運ばれてきた。肉と豆、柔らかく煮えた根菜が深い皿にたっぷり入っている。香草の匂いを吸い込んだ途端、アカが目を輝かせた。
「これ! アカ、旅の途中で何回も食べたくなったやつ!」
「そんなに恋しかったのかい」
「うん! ほかのお店のご飯もおいしかったけど、エライザの味が一番好き!」
「ははっ。嬉しいことを言ってくれるねえ。さあ、冷めないうちに食べな」
みんなで手を合わせ、匙を取った。肉を口へ運ぶと、柔らかくほどけたところから温かな汁が広がった。野菜の甘さも、あとに残る香草の香りも覚えていたとおりで、気づけばわたしまで目を閉じていた。
「……やっぱり、おいしい」
「でしょ!」
なぜかアカが得意そうに答え、みんなが笑った。エライザは「作ったのはあたしだよ」と言いながらも、嬉しそうにパンを切り分けている。
食事が進むと、ミナトがさっそく旅の話を聞きたがった。どんな山だったのか。どのくらい大きな魔獣だったのか。どこで寝たのか。質問が次々に出てくるので、わたしとアカは交代で答えた。
「山の上はね、こっちよりずっと風が冷たかったんだよ」
「雪があった?」
「雪はなかったけど、朝は水が冷たくてね」
「アカ、手を洗ったらびっくりしちゃった!」
アカが両手を振ってみせると、ミナトは声を立てて笑った。魔獣の話になると少し真剣な顔になったけれど、峠道を通れるようになって喜んだ商人たちの話をすると、ほっとしたように頷いた。
「シロとアカが行って、よかったんだね」
「うん。無事に道が使えるようになって、わたしたちも嬉しかったよ」
「でも、もうお仕事終わったんでしょ?」
「うん。明日、ギルドに報告したら終わりだよ」
それを聞くと、ミナトはようやく安心したようだった。メルが小さく「よかったね」と言い、ミナトの杯へ水を足してくれた。
「あっ、そうだ!」
アカが急に立ち上がった。エライザに座るよう言われると、「すぐ戻る!」と答えて部屋へ駆けていく。しばらくして戻ってきたその手には、小さな布包みが握られていた。
「ミナト、お土産!」
「ぼくに?」
「うん。山の近くの町で見つけたの!」
包みを開くと、掌に収まるほどの木彫りの鳥が現れた。羽根には細かな線が刻まれ、翼を広げた形をしている。ミナトは目を丸くし、アカの手の上でそれをじっと見つめた。
「……凧みたい!」
「そうでしょ! ミナトの凧を思い出したんだ」
「触っていい?」
「もちろん!」
そっと受け取った鳥を、ミナトは灯りの下へ持ち上げた。翼の模様を指でなぞり、今度はメルに見せる。メルも嬉しそうに覗き込み、「上手に彫ってあるね」と微笑んだ。
「これ、ぼくの部屋に飾っていい?」
「いいよ。ミナトへのお土産だもん」
「ありがとう、アカ!」
ミナトは立ち上がってアカに抱きついた。アカも嬉しそうに腕を回す。木彫りの鳥が二人の間で押し潰されそうになり、メルが慌てて受け取ったので、また笑いが起きた。
やがてミナトは、今度は食卓の端に置いていた紙を持ってきた。出発の日に見せてくれた、丸がいくつも並んだ紙だった。初めの方の丸は丁寧に塗られていたけれど、途中から少しはみ出したものが増え、最後には紙の端へ新しい丸がいくつも描き足されている。
「これね、毎朝つけたんだよ。こっちはメルが丸を増やしてくれたの」
「数え切れなくなっちゃったからね」
メルが少し照れたように笑う。ミナトは最後の丸を指差した。まだ白いままだった。
「今日の分は、シロとアカが帰ってきたら塗ろうと思って、残してたの」
「そうだったんだ」
わたしが答えると、ミナトは短い筆を持ってきた。紙を卓の上へ広げ、一番端の丸をゆっくり塗っていく。少しはみ出したけれど、最後まで塗り終えると、満足そうに顔を上げた。
「これで、おしまい!」
その声に、胸の奥が温かくなった。旅先では、どれだけ歩けば家へ着くのかを数えていた。ここではミナトが、わたしたちの帰る日を数えてくれていたのだ。
「明日からは、またみんなで朝ご飯が食べられるね」
「うん!」
メルの言葉に、ミナトが力いっぱい頷いた。エライザは空になった皿へ煮込みを少し足し、アカに「まだ食べられるかい」と尋ねている。アカがすぐに手を上げたので、エライザは呆れたように笑った。
そんなやり取りを眺めていたミナトが、ふいに口を開いた。
「ねえ、お母さん」
「何だい?」
「ぼくね、シロとアカが帰ってきて、すっごく嬉しい」
「ああ。そうだねえ」
ミナトは木彫りの鳥を胸の前に持ったまま、わたしたちの顔を順番に見た。エライザ、メル、アカ、わたし。それから、椅子のそばにいるクロにも目を向ける。
「お母さんとメルと、クロとシロとアカと……ずっと、こうやって楽しく暮らしたいな」
何かをねだるときの声ではなかった。みんなが揃っているのを確かめながら、思ったことをそのまま口にしたような、柔らかな声だった。
エライザは匙を置き、ミナトの髪をくしゃりと撫でた。
「そうだね。明日も早いから、まずはしっかり食べて、しっかり寝なくちゃね」
「うん!」
「それから、シロとアカも休ませておやり。まだ旅の疲れが残ってるだろうから」
「分かった。明日、いっぱい遊ぼうね!」
アカが嬉しそうに約束し、メルは二人のやり取りを笑って見ていた。クロが短く鳴くと、ミナトは「クロも一緒だよ」と言って、その背中へ手を伸ばした。
わたしは返事をするのが少し遅れた。ミナトの言葉が嬉しくて、うまく声にならなかったからだ。いつかまた遠くへ仕事に出る日もあるだろうし、毎日が今日みたいに賑やかなわけでもない。それでも、帰ってきたら一緒にご飯を食べたい。その気持ちを、こんなに小さな子が同じように抱いてくれている。
「……うん。明日も、一緒に遊ぼうね」
わたしがそう言うと、ミナトは満面の笑みを浮かべた。
食事のあと、みんなで皿を運んだ。アカはおかわりした分まできれいに食べ、メルに「明日の朝もお腹が空くのかな」と聞かれて、胸を張って頷いていた。エライザは笑いながら鍋に蓋をし、ミナトは木彫りの鳥を両手で包んで、クロと一緒に部屋へ戻っていく。
しばらくして、奥から「ここに飾る!」というミナトの声が聞こえた。メルが返事をして、そのあとに小さな笑い声が続く。
わたしは洗い終えた最後の皿を棚へ戻し、厨房を振り返った。エライザとアカが、明日の朝は何を食べようかと相談している。アカの返事があまりに欲張りなので、エライザはまた声を上げて笑った。
旅先で何度も思い浮かべた声が、今はすぐそばで聞こえる。
明日の朝も、きっと賑やかになる。




