第20話
町を出て三日目の朝、アカが宿の食堂で匙を止めた。
「……シロ、エライザのスープが食べたい」
「まだ三日だよ」
「三日もだよ!」
アカは真剣な顔で言い、それから目の前の器を覗き込んだ。宿の朝食だっておいしかったし、作ってくれた人にもきちんと礼を言っていた。それでも、何かが違うらしい。
「これも好き。でも、エライザのはもっと野菜が甘いの。あと、パンをちぎって入れると、すっごくおいしい!」
「帰ったら、作ってもらおうね」
「うん。アカ、おかわりする!」
わたしは笑って、残ったパンを口に運んだ。旅の間、食べられるものを食べ、休める場所で休む。ずっとそうしてきたのに、今は一つの家の味を思い出すだけで、少し胸が苦しくなる。
町を離れる前、ミナトは丸をたくさん描いた紙を見せてくれた。朝が来るたび一つずつ印をつけるのだと言っていたけれど、今朝はもう三つ目を塗っただろうか。そう考えてから、わたしは慌てて首を振った。帰るまで、まだ長い。数えてばかりいたら、目の前の仕事に身が入らなくなってしまう。
依頼先へは、街道をいくつも越えて進んだ。途中で雨に降られ、ぬかるんだ坂では荷運びの人たちと一緒に車輪を押した。アカは見つけた店の料理を楽しみ、わたしは道を確かめて、次の日に必要なものを揃えた。見知らぬ土地を歩くのは好きだった。けれど夕暮れのたび、今日はあの食堂で何を作っているのかな、と考えるようになっていた。
十日あまりかけて山間の町へ着くと、現地のギルドマスターが討伐の経緯を説明してくれた。山道に大きな魔獣が居つき、荷車を襲うようになったのだという。何度か討伐隊を出したものの、岩場へ逃げ込まれると追いきれず、とうとう峠を越える道が使えなくなっていた。
「山へ入る者を止めているが、いつまでも続けるわけにはいかない。頼めるだろうか」
「まず、どこで見かけたのか教えてください。最後に入った人たちの話も聞きたいです」
わたしたちは負傷者の残した記録と山の見取り図を確かめ、翌朝、道を知る案内人とともに山へ入った。岩が多くなるところまで案内してもらい、そこから先は二人で進むことにした。人の足跡が途切れた先で、斜面に削られたような深い溝を見つける。大きな爪の跡だった。
「……近いね、シロ」
「うん。ここから先は気をつけよう」
風が谷を抜けるたび、乾いた土の匂いに獣の臭いが混じった。わたしは岩陰に荷物を置き、無銘を布で包み直した。鞘ごと手の届きにくい隙間へ収めてから、アカと顔を見合わせる。
「久しぶりに、あの姿で行こうか」
「うん! アカも、翼を広げたい!」
周囲に人の気配がないことをもう一度確かめ、わたしは静かに息を吐いた。身体を包む光の向こうで視線が低くなり、次の瞬間には四つの脚が岩を捉えていた。白い毛並みを風が撫で、耳には谷の奥の小さな物音まで届いてくる。
隣では、アカが赤い翼を広げていた。陽を受けた羽根がきらめき、軽く羽ばたくだけで足元の砂が舞う。アカは嬉しそうに翼を伸ばしてから、わたしの方へ顔を向けた。
「シロ、やっぱりこっちだと気持ちいいね!」
「うん。でも、遊ぶのは終わってからだよ」
「分かってる!」
アカがひと羽ばたきして谷の上へ上がる。わたしは岩を蹴り、斜面を駆けた。人の姿では越えにくい段差も、この脚なら迷わず進める。尾根に近づいたところで、アカの鳴き声が鋭く響いた。
谷底の岩陰から、黒褐色の巨体が起き上がった。盛り上がった背には厚い甲殻のようなものが重なり、頭を下げると太い角が岩に触れた。こちらに気づいた魔獣が、低い唸りを上げる。
次の瞬間、巨体が斜面を駆け上がってきた。
わたしは正面を避け、風を巻き起こして横へ跳ぶ。角が突き出した岩を砕き、石片が地面を跳ねた。魔獣が向きを変えるより早く、アカが頭上から火を放つ。炎は広がらず、背の一か所へ細く集まった。
硬い甲殻が赤く熱を帯び、魔獣が身をよじる。けれど、火が周りの草へ移ることはなかった。アカは高度を変えながら、逃げ道を塞ぐように炎の位置を移していく。
「シロ、右へ行くよ!」
「うん!」
魔獣がアカの火を嫌って首を振り、谷の壁へ身体を寄せた。わたしは風を足元へ纏い、崩れた岩をひと息に跳び越える。着地した先で雷を走らせると、青白い光が巨体の前脚を打った。魔獣は体勢を崩し、露わになった胸元をこちらへ向ける。
その一瞬を、アカは逃さなかった。
大きな翼がぴたりと止まったように見えた。赤い炎が一点に細く絞られ、息を呑む間もなく魔獣の胸へ突き刺さる。激しい熱気が吹き上がったが、炎はすぐに消えた。わたしも続けて雷を落とし、魔獣が倒れるまでその動きを見届けた。
地響きが収まると、谷に風の音だけが戻ってきた。
「……終わったね」
「うん。アカ、上からよく見てくれたね」
「シロだって、すっごく速かった!」
アカが岩の上へ降りてきた。赤い翼には傷一つない。わたしも身体を確かめてから、倒れた魔獣へ近づいた。もう動かないことを確かめ、周囲にほかの気配がないか耳を澄ます。
それから人の姿へ戻り、預けていた荷物と無銘を回収した。討伐の場所を示せるよう目印を残し、来た道を下る。案内人と落ち合う頃には、空が少しずつ茜色に染まり始めていた。
仕事はそれで終わりではなかった。ギルドへ状況を報告し、翌日は現地の人たちと山道の安全を確かめた。大きな魔獣が倒れたことを聞いた商人たちが礼を言いに来てくれて、アカは少し照れながら何度も頷いていた。峠道が再び使えると分かって、ようやくわたしたちも帰り支度を始めた。
帰路は、行きよりも長く感じた。
「シロ、あと何日?」
「このままなら、五日くらいかな」
「昨日は六日って言ってた!」
「一日歩いたからね」
「そっか! じゃあ、明日は四日だ!」
アカは嬉しそうに指を折った。宿で寝台に入ると、ミナトに渡す土産を取り出しては、また丁寧に包み直している。山間の町で見つけた、小さな木彫りの鳥だった。翼の模様が、ミナトとメルの作った凧によく似ている。
わたしは買いそびれたものがないか考えてから、ふと思い出した。家へ帰れば、必要なものはまた一緒に探せる。帰り道で何もかも揃えておく必要はないのだった。
「シロ、どうしたの?」
「ううん。早く帰りたいなと思って」
「アカも!」
アカは笑い、木彫りの鳥をしまうと寝具に潜り込んだ。しばらくして隣から静かな寝息が聞こえ始めても、わたしは少しの間、暗い天井を眺めていた。
昔は旅が終わると、次はどこへ行こうかと考えた。帰る場所がなかったわけではないけれど、わたし自身がそこに落ち着いて暮らすことは、あまり想像していなかった。今は、目を閉じると食堂の戸口が浮かぶ。エライザの声も、メルが笑う顔も、ミナトが駆け寄ってくる足音も、すぐ近くにあるみたいだった。
町の屋根が見えたのは、出発からほぼひと月が過ぎた日の夕方だった。見覚えのある道標を越えると、アカが待ちきれずに歩幅を広げた。わたしも追いかける。依頼の報告は町のギルドへ届けることになっているけれど、今日は先に帰宅してよいと伝えられていた。
通りを曲がると、食堂の窓から灯りが漏れていた。
扉の前で立ち止まると、中から食器の触れ合う音が聞こえた。いつもどおりの夕食の時間だ。アカがこちらを見上げる。旅立つ前より、少しだけ目が潤んでいるように見えた。
「……シロ、帰ってきたね」
「うん。ただいまって言おうか」
二人で扉を開けた。
「ただいま!」
アカの声が店に響いた。厨房からエライザが顔を出し、持っていた布巾を置く。メルも振り向き、口元に手を当てた。
「おやまあ! あんたたち、帰ってきたのかい!」
「シロ! アカ!」
その声の向こうで、奥の戸が勢いよく開いた。
「……シロ? アカ?」
ミナトだった。わたしたちの顔を見たまま少し動かず、それから床を蹴って走ってくる。足元からクロも現れたけれど、ミナトの方がずっと速かった。
「おかえりっ!」
抱きついてきた身体を受け止めると、細い腕がわたしの腰をぎゅっと締めつけた。アカも横から腕を回し、三人とも笑ったり、少し泣きそうになったりしていた。
「待ってた! ぼく、ずっと待ってたんだよ!」
「うん。遅くなってごめんね」
「ううん! 帰ってきたから、いい!」
ミナトは顔を上げ、今度はアカにも抱きついた。アカが何度も名前を呼んでいるうちに、メルが近づいてきて、わたしたちの肩へ順番に手を置く。
「二人とも、けがはない? 途中で出してくれたお便り、ちゃんと届いたよ」
「うん。二人とも元気だよ。心配かけたね」
「……よかった」
メルはそれだけ言って、安心したように笑った。エライザもそばまで来たが、すぐには何も言わず、わたしとアカを頭から足まで見ている。
「帰ってきたなら、まず靴の泥を落としておいで。……それから、手を洗って座りな。温かいものを出してやるから」
「うん。ありがとう、エライザ」
「アカ、お腹ぺこぺこ!」
「知ってるよ。あんたが帰ってきたら、まずそう言うと思ってたさ」
エライザが笑う。ミナトも笑い、メルが厨房へ戻って皿を二枚増やし始めた。クロはわたしの足元へ来て、片脚にそっと身体を擦りつける。わたしがしゃがんで背中を撫でると、金色の目が一度だけ細くなった。
ミナトはまだ離れがたいらしく、わたしの袖を握っていた。
「ねえ、シロ。丸、全部つけたんだよ。でも、足りなくなっちゃって、横にも描いたの」
「そっか。毎日つけてくれたんだね」
「うん。お母さんとメルとクロもいたけど……シロとアカがいないと、なんか、おうちが広かった」
ミナトは少し恥ずかしそうに笑った。あの子が毎朝どんな顔で丸をつけていたのか、わたしは知らない。ただ、今ここで握られている袖の温かさに、待っていてくれた時間の長さが伝わってきた。
「……わたしたちも、帰りたかったよ」
「ほんと?」
「うん。ずっとね」
答えると、ミナトがまたぎゅっと抱きついた。アカも負けじと腕を広げ、クロは少し離れたところから三人を見上げている。厨房からは煮込みの匂いが漂い、メルが皿を並べる音が聞こえた。
わたしはミナトの背を撫でながら、ようやく分かった気がした。旅先では、どこへだって歩いていける。森を抜け、山を越え、知らない空を見上げることもできる。そんな自由が、わたしは今も好きだ。
けれど、帰ってきたときに名前を呼んでくれる人がいる。その声を聞きたくて歩く道が、わたしにはできたのだった。




