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第19話

 クロとゆっくり話したあの日から、またいくつかの朝が過ぎた。店を開ける前にはエライザとメルの声が聞こえ、ミナトは食卓に着くと、その日にしたいことを嬉しそうに話す。アカは相変わらず朝ご飯の献立を真っ先に気にしていて、わたしはそんなみんなを見ながら一日を始めていた。


 その日も、昼過ぎにギルドへ顔を出すまでは、いつもと変わらなかった。


「シロ、ちょうどよかった。ギルドマスターがお呼びよ」


 受付の女性に声をかけられ、わたしはアカと顔を見合わせた。今朝は新しい依頼を探しに来ただけで、呼び出されるような心当たりはない。案内された奥の部屋では、ギルドマスターが広げた書類に目を落としていた。


「急に呼んですまない。二人に頼みたい仕事がある」

「アカにも?」

「ああ。シロだけでなく、アカにも来てもらえればありがたい」


 ギルドマスターはそう言って、一通の依頼書を机へ置いた。隅には、遠方のギルドの印が押されている。


「指名の討伐依頼だ。向こうでは何度か人を出しているが、山あいに現れた魔獣を仕留めきれずにいる。近くを通る人や、荷を運ぶ者にも被害が出始めたそうだ」


 アカが身を乗り出した。わたしも依頼書を読んでみる。町からずいぶん離れた土地で、行き帰りだけでも日数がかかる。現地での調査と討伐、その後の確認まで含めると、簡単に終わる仕事ではなさそうだった。


「……長くかかるんだね」

「順調でも、戻るまでひと月ほどは見てほしい。もちろん、無理に受けてくれとは言わん。遠方への指名だからな」


 ギルドマスターはアカを一度見てから、わたしへ向き直った。


「契約の責任はシロに引き受けてもらう形になる。アカの同行は、二人でよく相談して決めてくれ」

「うん。分かった」


 依頼の内容そのものに迷いはなかった。困っている人たちがいて、自分たちの力が役に立つのなら、行きたいと思う。以前のわたしなら、きっとその場で頷いていただろう。


 けれど、ひと月。


 その長さを考えた途端、頭に浮かんだのは魔獣でも山道でもなく、食堂の窓から見える小さな鉢植えだった。毎朝のように成長を確かめているミナトの顔も、一緒に思い出した。


「今日、返事をしなくてもいい?」

「ああ。二、三日なら待てる。家でも話してきなさい」


 ギルドマスターは書類を閉じ、いつもより穏やかな声でそう言った。


 外へ出ると、アカがわたしの袖を引いた。通りには荷車が行き交い、焼き菓子を売る店の前で子供たちが順番を待っている。


「シロ、アカは行きたいよ」

「うん。わたしも、人が困ってるなら助けに行きたい」

「でも……ミナトたちに会えなくなるね」


 アカはそこまで言って、少しだけ唇を尖らせた。わたしはその手を取り、ゆっくり歩き始める。


「まずはみんなに話そう。急にいなくなったら心配するもの」

「そうだね。エライザ、怒るかな?」

「怒るかもしれないね」


 顔を見合わせると、二人とも笑ってしまった。それでも、帰り道はいつもより短く感じた。


 食堂へ戻った頃には、昼の客も引き始めていた。エライザは大きな鍋を洗っていて、メルは窓際の卓を拭いている。ミナトは奥で何やら紙に向かっていたが、わたしたちを見つけると、ぱっと顔を上げた。


「お帰り! 今日のお仕事、決まった?」

「うん。まだ相談してるところなんだ」

「相談?」


 ミナトは不思議そうに首を傾げた。アカが何か言いかけ、わたしを見る。わたしは頷いてから、厨房へ声をかけた。


「エライザ、少し話してもいい?」


 エライザは濡れた手を布で拭き、わたしたちの顔を順に見た。


「何だい、二人して改まって。……仕事のことかい?」

「うん。遠くの土地から、討伐の依頼が来たんだ」


 依頼書を広げると、エライザはわたしたちの話を黙って聞いてくれた。行き先までの距離、現地での仕事、戻るまでにかかる日数。途中で口を挟まず、最後まで聞いてから一つだけ尋ねた。


「ひと月、家を空けるのかい」

「うん。まだ受けるって決めたわけじゃないけど……」

「困ってる人がいるんだろう?」


 頷くと、エライザは小さく息を吐いた。


「だったら、あたしが行くなと言うのも違うね。でも、危ない仕事なんだ。帰る日が延びそうなら、出せるところから便りを寄越しておくれ。何も分からず待つのは、嫌なものだからね」


 その声を聞いて、以前エライザが話してくれた、亡くなった旦那さんのことを思い出した。わたしは軽々しく返事をしないように、言葉を選んだ。


「分かった。無茶をしないで、ちゃんと帰れるように動くよ」

「それから、アカ。シロに任せきりにしちゃ駄目だよ。自分でも危ないと思ったら、ちゃんと言うんだ」

「うん。アカも気をつける!」


 エライザは二人の返事を聞いてから、ようやく頷いた。メルも手を止め、少し寂しそうに笑っている。


「お洗濯、出発までに済ませておこうね。帰ってきたときの寝具も、きれいにしておくから」

「ありがとう、メル」


 そのとき、ミナトがわたしの服の裾を引いた。


「ねえ、ひと月って、どれくらい?」

「そうだなあ……朝が三十回くらい来る長さかな」

「三十回?」


 ミナトは指を折って数え始めた。両手の指を数え終わったところで、まだ足りないことに気づいたらしい。今度はメルの方を見る。


「そんなに、いないの?」

「うん。少し遠くへ行くからね」

「じゃあ、明日も、その次の日も会えない?」


 いつも遊びの約束をする声が、少し小さくなった。アカがしゃがんで目線を合わせる。


「帰ってきたら、いっぱい遊ぼう! アカ、ミナトにお土産も探すね」

「……うん」


 ミナトは頷いたけれど、すぐには笑わなかった。足元ではクロが、いつの間にかそのそばに来ている。ミナトがしゃがむと、クロは静かに頭を寄せた。


「クロは、いる?」

「にゃあ」

「そっか……」


 ミナトはクロの背中を何度か撫でた。それから立ち上がり、わたしとアカを交互に見た。


「ぼく、待ってるね」


 その言い方があまりに一生懸命だったので、胸の奥が少し痛んだ。


「うん。待っててね」


 翌朝、わたしたちは二人でギルドへ戻り、依頼を引き受けると伝えた。出発は二日後に決まった。必要なものを揃え、宿場までの道を確かめているうちに、その二日は思ったより早く過ぎていった。


 出発の朝、いつもより早い時間に食卓へ着くと、エライザが温かなスープとパンを用意してくれていた。メルは包みを二つ並べ、道中で食べられるようにと焼き菓子を入れてくれたという。アカは嬉しそうに礼を言いながら、すぐには食べず、袋の奥へ大事にしまった。


「いいかい、二人とも。仕事が終わったら、寄り道ばかりせずに帰っておいで」

「うん」

「分かった! でも、おいしいものを見つけたら、ちょっとだけ寄ってもいい?」

「まったく、あんたは……」


 エライザが笑うと、メルもつられて笑った。いつもの食卓だった。けれど、今日は食べ終えたらしばらくこの席へ戻れないのだと思うと、スープの温かさまで覚えておきたくなった。


 戸口で荷物を背負い直していると、ミナトが駆け寄ってきた。手には、例の地図を描いたときと同じ紙が一枚握られている。


「これ、見て」


 そこには、丸がいくつも並んでいた。一つ目だけが、少し濃く塗られている。


「今日が一つ目。明日になったら、次の丸に印をつけるの。全部つけたら、シロとアカが帰ってくるんでしょ?」


 わたしはしゃがんで、その紙を見た。端から端まで丸が並んでいるけれど、数を間違えたのか、最後の方には小さく付け足したものもある。ミナトは自分で考えて、帰りを待つ方法を見つけたのだ。


「うん。少し遅くなることがあるかもしれないけど、帰ってくるよ」

「分かった。じゃあ、最後までつける!」


 アカがミナトに抱きついた。ミナトはびっくりしてから、両手を回して抱き返した。エライザがその頭を撫で、メルは二人の荷物の紐を最後にもう一度確かめてくれる。


 クロは戸口の脇に座っていた。わたしと目が合うと、金色の瞳を細め、いつもどおり尻尾を一度だけ揺らした。


「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい! 気をつけてね!」


 ミナトが両手を振った。メルも手を振り、エライザは腕を組んだまま大きく頷いている。クロの短い鳴き声が、その声に重なった。


 アカと並んで通りへ出ると、朝の風が頬を撫でた。いつもなら新しい土地へ向かうだけで胸が弾んだものだけれど、今日は何度も後ろを振り返ってしまう。角を曲がる直前、まだ戸口に立っているミナトが見えた。


「シロ! アカ! またね!」


「うん。またね!」


 アカが大きく手を振る。わたしも手を上げ、見えなくなるまで振り返した。


 遠くへ行くのに、今度は帰り道まで分かっている。


 あの小さな地図に描かれた家へ、わたしたちはまた帰ってくるのだ。


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