第18話
ミナトからもらった地図は、部屋の棚に大切にしまってある。帰ってから三人で道を書き足したので、最初より少しだけ線が増えた。アカはパン屋を実物よりずっと大きく描き、ミナトとメルに笑われていた。
それから数日後、食堂の休みの日に、ようやくゆっくり話せる時間ができた。
エライザは仕入れ先の畑へ野菜を見に行くと言い、メルとミナトも一緒に出かけることになった。朝食のあと、ミナトはクロのいる窓辺へ行き、椅子の背に手をかけた。
「クロ、今日はお留守番?」
「にゃあ」
「じゃあ、帰ってきたらお話しするね!」
ミナトが手を振ると、クロは尻尾をゆっくり揺らした。エライザはわたしたちに戸締まりを頼み、メルは「お昼までには戻ると思うよ」と言って、弟の手を引いて出ていった。
扉が閉まると、家の中は驚くほど静かになった。いつもなら厨房で鍋の音がして、ミナトとアカの声がどこかから聞こえてくる。今日は通りの遠い足音と、窓際で揺れる布の音だけだった。
アカはしばらく扉を見つめてから、勢いよく振り返った。
「クロ!」
「……何だ。急に大声を出すな」
聞き慣れた低い声だった。
わたしは思わず笑ってしまった。クロがこの家で暮らす姿にはもう慣れていたけれど、こうして言葉を交わすのは久しぶりだ。アカは待ちきれなかったように駆け寄り、椅子の前へしゃがんだ。
「やっとお話しできた! クロ、元気だった?」
「見て分からんか」
「分かるけど、聞きたかったの!」
「なら元気だ。お前たちも、相変わらず騒がしいな」
アカが嬉しそうに笑う。わたしも椅子を引き寄せ、窓際に座った。クロはわたしたちを交互に見てから、ふんと小さく鼻を鳴らした。
「まったく。せっかく会いに来たというのに、最初にしたことが住み込みの直談判とはな。しかも理由が飯だそうじゃないか」
「だって、エライザのご飯、本当においしいんだもん!」
「否定はせん」
「クロも大好きでしょ?」
「……まあな」
その返事に、三人で笑った。昔はこんなふうに、食べ物のことで言い合いをすることも多かった。わたしが笑い終える頃、クロは前脚を揃え直し、窓の外へちらりと目を向けた。
「よく来たな、二人とも」
何気ない声だった。それなのに、胸の奥がじんとした。
「……うん。会いたかったよ、クロ」
「アカも! すっごく!」
「そうか」
クロはそれだけ言って、目を細めた。金色の瞳に朝日が映り、細い光が揺れている。
ずっと聞きたかったことがあった。けれど、あの日食堂でミナトと一緒にいるクロを見てから、どう尋ねればいいのか迷っていた。今なら聞ける気がした。
「クロ。……長かった?」
クロの耳がわずかに動いた。
「何がだ」
「ミナトを見つけるまで」
すぐには答えが返ってこなかった。クロは窓の外で揺れる枝を眺め、しばらくしてから口を開いた。
「長かったとも。あちこちで季節が変わるのを見た。前に通った町へ戻れば建物が変わり、知っていた者の子供が大きくなっていた。何度も同じ道を歩いたつもりでも、同じ景色にはならんものだ」
その声は、思っていたより穏やかだった。
「黒髪の子供がいると聞けば行った。似た名前の子がいると聞けば、そちらも確かめた。何も分からん土地では、子供たちが遊ぶ広場を眺めていた。違えば次へ行く。それだけだ」
「……ずっと?」
「ずっとだ。何十年もな」
アカが椅子の端に手を置いた。
「寂しくなかった?」
「寂しくないわけがあるか」
クロがあまりにあっさり言うので、アカは目を丸くした。
「私は元から一人でいる時間が長かった。だから慣れていると思っていた。だが、湊たちと旅をしたあとでは、静かな夜が前より静かに感じるようになった」
窓の向こうで小鳥が鳴いた。クロは耳をそちらへ向けたまま続ける。
「それでも、行く先で皆の話を聞けた。リーネのところへ寄れば飯を出してくれたし、コハクのところでは、起こすだけで随分怒られた。ルゥもカイルも、それぞれの暮らしを続けていた。……会うたびに、時間が過ぎたのだと分かったよ」
わたしは膝の上で両手を重ねた。わたしも旅先で、以前は幼かった子が大人になっていたことがある。久しぶりの再会を喜びながら、自分だけが同じ場所に取り残されているように感じた日もあった。
「クロ、途中で疲れなかった?」
「疲れたさ。雨に打たれて眠る夜もあれば、何も見つからずに町を出る朝もあった。だが、探すのをやめたら、あいつに会えんだろう」
「うん……」
「見つけると言ったからな。それに、探している間にも、あいつはどこかで生きている。そう思えば、次の町まで歩けた」
クロはそこで口を閉じた。わたしは何か言おうとしたけれど、言葉が見つからず、黙ってその横顔を見つめていた。
先に口を開いたのはアカだった。
「ねえ、見つけたとき、どうだった?」
「……妙な気分だった」
「妙?」
「それまで何度も期待して、何度も違った。だから、あの町でも、いつもどおり次へ行くつもりでいたんだ」
クロは前脚の先を見下ろした。
「広場で母親が子供を呼ぶ声が聞こえてな。『ミナト』と呼んだ。振り向いたら、黒髪の小さな子が返事をした。顔も声も、私の知る湊とは違ったのに……目が離せんかった」
そのときのことを思い出しているのか、クロの尻尾がゆっくりと揺れた。
「長いこと歩いてきたくせに、あの数歩がなかなか進まなかった。ようやく近くへ行ってみれば、今度は猫として見上げるしかない。情けない話だ」
「そんなことないよ」
思わず言うと、クロがこちらを向いた。
「クロは、自分で見つけたんだもん。ずっと諦めずに歩いて、ちゃんと会えたんだよ」
「……そうだな」
アカは嬉しそうに頷き、それから少し真面目な顔になった。
「ミナト、湊のこと覚えてないんだよね」
「ああ。知らんよ。私たちが何をしてきたかもな」
「それで、いいんだよね?」
クロは迷わず頷いた。
「あいつは毎朝、腹を空かせて起きる。メルに教わって字を書き、母親に叱られ、遊び疲れれば眠る。今のあいつには、その暮らしがある。私はそれを見ていられればいい」
ミナトの小さな地図が頭に浮かんだ。赤い布がなくなって道を間違え、それでも水の音を思い出して、最後には家の屋根を見つけた。わたしたちの帰る場所まで教えてくれた子。
「……わたしも、今のミナトが好き」
「アカも! もっといっぱい遊びたい!」
「なら、そうすればいい。昔のことを知らなくとも、友達にはなれる」
そう言って、クロはわたしたちを見上げた。
「お前たちは、どうだった。別れてから随分経っただろう」
わたしは少し考えてから、東の街道での話をした。困っている旅人がいれば仕事を引き受け、森の中で夜を明かし、時にはかつて湊と歩いた土地を訪ねたこと。短剣の稽古を続け、無銘に厳しく直されたことも話した。
「前より、うまく剣を使えるようになったと思う」
「ほう。無銘に聞かせてやりたいものだ」
「……まだ叱られそう」
「それは間違いない」
クロが即答するので、わたしは頬を膨らませた。アカが声を立てて笑い、今度は自分の旅のことを話し始める。火の谷へ帰ったときのこと、世界樹の近くで過ごした日々、知らない町の料理を食べ歩いたこと。熱の強さだけでなく、弱い火を保つのも上手になったのだと、両手を広げて教えてくれた。
「ほら、今は小さい火もちゃんと使えるんだよ!」
「ここで出すな。家を燃やしたらエライザに何と言われると思う」
「出さないよ! お話してるだけ!」
「ならいい」
また笑いが起きた。以前のように、誰か一人が何かを言えば、すぐに別の誰かが言い返す。話題はあちこちへ飛び、久しぶりに会えた仲間の名前もいくつも出た。わたしたちはそれぞれの道を歩いていたのに、話し始めると、あの旅の続きのようだった。
ふと、アカがクロへ手を伸ばした。
「ねえ、クロ。抱っこしてもいい?」
「断る」
「ええー!」
「お前は加減を忘れて抱きついてくるだろう」
「今日は優しくするよ!」
クロは呆れたように目を細めた。けれど、アカが両手を差し出すと、逃げずにその中へ収まった。赤い髪に頬を寄せられ、長い尻尾が一度だけ揺れる。
「……苦しい」
「えへへ。クロ、あったかい!」
「聞いているのか、お前は」
わたしも手を伸ばし、黒い背中をそっと撫でた。毛並みの感触は昔と変わらない。クロはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「……会えて、よかった」
アカの手が止まった。わたしも、撫でていた指を動かせなくなった。
「湊にも。お前たちにも」
いつものクロなら、そんなことを口にしたあとで何か余計な言葉を足すはずだった。けれど今日は、何も言わなかった。
「わたしもだよ」
「アカも……!」
アカの声は少し震えていた。クロは何も言わず、ただアカの腕の中にいた。窓の外では陽が高くなり、通りから荷車の音が聞こえ始めている。
しばらくして、遠くからミナトの笑い声がした。何かを見つけて嬉しくなったらしく、弾んだ声が近づいてくる。エライザのよく通る声と、メルの穏やかな返事も聞こえた。
「……帰ってきたね」
わたしが言うと、クロはアカの腕から軽やかに床へ降りた。前脚で顔を撫でると、口を閉じて澄ました顔で戸口を向いた。アカは名残惜しそうに手を下ろしたけれど、すぐに立ち上がって戸口へ向かった。
扉の向こうで、ミナトが元気よく声を上げる。
「ただいまー!」
クロはわたしたちを一度だけ見上げ、それから尻尾を立てて玄関へ歩いていった。
「にゃあ」
その声に、ミナトの嬉しそうな笑い声が重なった。わたしもアカと顔を見合わせ、迎えに行く。
長い話は、まだきっと尽きない。けれど、今は帰ってきた家族を迎えたかった。




