第17話
昼の片づけがひと段落した頃、ミナトが一枚の紙を抱えてやってきた。
「シロ、アカ。今日はお仕事ある?」
「今日はもう終わったよ。どうしたの?」
「じゃあね、ぼくについてきてほしいんだ!」
ミナトは大事そうに紙を広げた。何度も折ったらしく、端には細かな皺がついている。太い線がくねくねと走り、四角や丸があちこちに描かれていた。隣から覗き込んだアカが、首を傾げる。
「これ、パン?」
「違うよ! 地図!」
「えっ、地図なの?」
「うん。ぼくが描いたんだよ」
そう言われて見直すと、一番大きな四角には屋根らしい三角が載っていた。その隣には、細い煙まで描かれている。
「これがうちの食堂?」
「そう! シロ、分かった?」
「うん。この丸いのは?」
「井戸! でもね、そこは通らないんだ。こっち!」
ミナトの指が紙の上を進み、曲がった線の先で止まった。終点には小さな星のような印がついている。
「ここに、二人を連れていきたいの。ぼくの好きな場所なんだ」
「アカも行く! そこに何があるの?」
「着いてからのお楽しみ!」
ミナトはにこにこして、地図を胸に抱き直した。どうやら、わたしたちを驚かせるつもりでいるらしい。
出かける前にエライザへ話すと、ミナトが紙を広げるより早く、その手元を覗いて笑った。
「おや、昨日から描いてたやつじゃないか。やっとできたのかい?」
「うん! シロとアカに見せるんだ」
「そうかい。なら、二人の言うことをちゃんと聞くんだよ。夕飯までには帰っておいで」
「はーい!」
メルはミナトの襟元を整え、水筒を持たせてくれた。クロはミナトが抱き上げようとすると、するりと腕を抜けて窓際の椅子へ戻ってしまった。
「クロ、今日はお留守番?」
「にゃあ」
「分かった。帰ったらお話しするね!」
ミナトはそう約束して戸を開けた。まだ陽は高く、石畳には建物の影が短く落ちている。わたしとアカが並んで後を追うと、ミナトは数歩先で振り返り、得意そうに地図を掲げた。
「まずは、こっち!」
歩き始めてすぐ、ミナトは道端の大きな石の前で立ち止まった。地面から丸く突き出した石で、通りを歩く人たちは誰も気に留めていない。
「ここ、雨の日に水がたまるんだよ。丸い池みたいになるの」
「へえ。だから地図にも丸があるんだね」
「うん! でも、今日はお水ないや」
ミナトは少し残念そうに石を見たあと、また歩き出した。次に教えてくれたのは、パン屋の裏を通る細い道だった。壁の向こうから甘い匂いが漂ってきて、アカがすぐに立ち止まる。
「シロ、おいしそう!」
「帰りに寄ってみる?」
「寄りたい!」
「今は探検だよ、アカ!」
ミナトが振り返って胸を張ったので、アカは慌てて追いついた。小さな案内人は、歩くたびに紙と目の前の道を見比べている。石段の数も、壁のひびの形も、ミナトには大事な目印らしかった。
ところが、三つ目の角で足が止まった。
「……あれ?」
ミナトが見上げたのは、通りに面した家の窓だった。紙にはそこに赤い布の絵が描かれている。でも、今日は窓が閉まっているだけで、布はどこにも見えなかった。
「昨日はここに、赤いのがあったのに……」
「洗濯物だったのかな」
「たぶん。でも、それがないと分かんない」
ミナトは地図をひっくり返し、また戻してみた。顔を上げて左右の道を見比べるけれど、どちらへ行きたいのか決められないようだった。
「アカ、こっちだと思う!」
「まだ分かんないよ!」
「でも、さっきあっちから来たでしょ?」
「アカは、ぼくの地図知らないもん!」
少し強い声が出た。アカが驚いて黙ると、ミナトもはっとした顔になった。
「……ごめん。ぼくが案内するって言ったのに、分かんなくなっちゃった」
紙の角が、ミナトの指の中でくしゃりと曲がった。わたしは隣へしゃがみ、折れたところをそっと伸ばす。
「ここまで来る道は、ちゃんと分かったよ。ミナトが教えてくれたもの」
「でも、次が分かんない」
「じゃあ、少し周りを見てみようか。赤い布のほかに、覚えているものはない?」
ミナトは顔を上げた。道の先を眺め、今来た方へも振り返る。しばらくすると、小さな声で「あ」と言った。
「あの先、お水の音がするところだった」
耳を澄ますと、家並みの向こうから細い水音が聞こえた。水路があるらしい。わたしが頷くと、ミナトは紙を握り直した。
「見に行ってもいい?」
「もちろん。一緒に確かめよう」
アカが隣へ並ぶと、ミナトはその袖をそっと引いた。
「さっき、大きな声出してごめんね」
「ううん! アカも勝手に決めちゃった」
「じゃあ、一緒に探そう」
「うん!」
二人が顔を見合わせて笑った。わたしは少し後ろからついていき、曲がり角で荷車が来ないかだけ気をつけていた。
水音を頼りに進むと、細い水路に架かった低い石橋へ出た。浅い流れの底には小石が透けて見え、橋の脇にはすり減った石段が続いている。
「あった! この橋だよ!」
ミナトが指差した先には、地図に描かれたのとよく似た三本の線があった。どうやら石段のことらしい。嬉しそうに一段ずつ上り、最後の段へ立ったところで、ミナトはわたしたちを振り返った。
「ここ! ここなんだ!」
石段の先は、町の屋根を見渡せる小さな高台になっていた。低い石壁の向こうに家々が重なり、その間から幾筋もの煙が上がっている。遠くで鳥が鳴き、風が乾いた草の穂を揺らしていた。
「わあ、きれい!」
アカが石壁へ駆け寄る。わたしも隣に立つと、ミナトが指を伸ばした。
「あそこ、ぼくのおうち!」
いくつもの屋根の間に、見慣れた食堂の屋根があった。厨房の煙突からは、細い白い煙が上がっている。
「メルと歩いてて、ここを見つけたんだ。遠くからでも、おうちが分かるの」
「本当だね。ここから見えるんだ」
「うん! お母さんがご飯を作ってると、煙が出るんだよ」
ミナトは満足そうに笑ったあと、もう一度地図を広げた。小さな星の印を指で押さえ、そこから大きく描いた食堂まで、線をゆっくりなぞる。
「ぼくね、シロとアカにも、この道を教えたかったの」
「どうして?」
「二人とも、遠くから来たんでしょ? だから、おうちがどこか、ちゃんと分かるように」
そう言って、ミナトは紙をわたしに差し出した。
「これ、あげる。まだちょっと間違ってるけど……帰ったら、直すね」
受け取った地図には、途中で引き直した線がいくつも重なっていた。赤い布の絵も、曲がり角に描かれた丸も、知らない人には何を示しているのか分からないかもしれない。でも、わたしにはさっき歩いた道の匂いや、水路の音まで思い浮かべられた。
「ありがとう、ミナト。大事にするよ」
「ほんと?」
「うん。わたしたちの帰る場所を描いてくれたんだもん」
ミナトは少し照れくさそうに鼻の頭をこすった。アカが横から地図を覗き込み、「アカが好きなパン屋さんも大きく描いて!」と言うと、ミナトは笑って頷いた。
「じゃあ、帰ったら三人で描こう!」
「やった!」
石段を下りる頃には、風が少し涼しくなっていた。今度はミナトが地図を見ずに先を歩く。赤い布のない窓の前でも迷わず、水音のする角を曲がっていく。
やがて食堂の看板が見えると、ミナトは嬉しそうに駆け出しかけ、わたしの顔を見て歩幅を緩めた。家の戸口ではエライザが仕込みの合間に外を覗き、戻ってきた三人に手を振っている。
「ただいま!」
「お帰り。ちゃんと案内できたかい?」
「うん! 途中で迷ったけど、見つけたよ!」
ミナトは自慢げに答え、店の中へ入っていった。アカもあとを追いながら、今日見た景色を早口で話し始める。
わたしは折り畳んだ地図を上着の内側へしまい、二人に続いた。厨房からは、いつもの煮込みの匂いが漂ってきていた。




