第16話
あの雨の夜から数日が過ぎ、朝の通りには乾いた風が吹いていた。店の前に出した看板を拭いていると、戸口の向こうでメルが小さな袋を開けたり閉めたりしているのが見えた。
「メル、何か探してるの?」
「ううん。ちゃんとあるか確かめてたの」
メルは袋の口を広げ、掌に数枚の硬貨を載せて見せてくれた。数えるたびに一枚ずつ指で押さえているのに、最後になると首を傾げて、また最初から数え直している。
「今日ね、お母さんが、お昼までは好きにしていいって言ってくれたの。だから市場へ行こうと思って」
「買いたいものがあるんだ?」
「うん。……でも、まだ迷ってるの」
メルは笑って袋を結び、すぐにほどけてしまった紐を結び直した。いつもなら誰より先に食堂の片づけを始めるのに、今朝は何度も表通りの方を気にしている。何を買うつもりなのか聞こうとしたところで、厨房からエライザが顔を出した。
「メル、まだいたのかい。市場へ行くなら早くお行き。いい品は先に売れちまうよ」
「でも、洗ったお皿がまだ……」
「それくらい、あたしがやるさ。今日は店のことを気にしない約束だろう?」
エライザが手をひらひら振る。メルは少し困った顔をして、それから嬉しそうに頷いた。
「シロも、よかったら一緒に行かない?」
「うん。今日は急ぎの依頼もないし、ぜひ」
「アカも行く!」
いつの間にか背後にいたアカが手を上げた。厨房へ戻りかけていたエライザが振り返り、「お菓子ばかり見てないで、メルの買い物に付き合うんだよ」と釘を刺す。アカは元気よく返事をしたけれど、その目はもう通りの方へ向いていた。
ミナトも一緒に行きたがったものの、今日はエライザとパン生地を丸める約束をしていたらしい。どちらにするか真剣に悩んだ末、「あとで何を買ったか見せてね」とメルに頼んで、厨房へ戻っていった。クロはその足元についていき、わたしたちの出発を見送るように一度だけ尻尾を揺らした。
市場は朝から賑わっていた。野菜を積んだ荷車の横で籠が売られ、少し先では染め物や布を並べた店が軒を連ねている。干した香草と焼き菓子の匂いが風に混じり、アカは何度も立ち止まりそうになった。
「メル、何のお店に行くの?」
「布を売っているところ。前にね、きれいな髪紐を見つけたの」
「髪紐?」
「うん。まだ残ってるといいな」
メルはそう言って少し歩くのを速めた。普段の穏やかな足取りとは違い、楽しみにしていた気持ちがそのまま足へ出ているみたいだった。
目当ての店には、色とりどりの布が並んでいた。棚の上には細い髪紐や小さな飾りが籠ごとに分けられ、日の当たるところでは糸の光沢が柔らかく輝いている。メルは一つの籠の前で足を止め、淡い青色の紐をそっと持ち上げた。
「これなんだけど……」
「わあ、きれい!」
アカが覗き込むと、メルは嬉しそうに頷いた。細い紐の端に同じ色の糸で小さな花が縫い込まれている。派手ではないけれど、近くで見ると花びらが一枚ずつ分かる丁寧な作りだった。
「ずっと気になってたの。でも、お店の帰りに寄ったときは、見てるだけで帰っちゃって」
「今日なら買えるんじゃない?」
「うん。お金は足りると思うんだけど……」
メルは紐を籠へ戻し、隣にある緑色のものを手に取った。
「こっちはミナトが好きそう。アカちゃんには赤いのが似合うよね。お母さんには、もう少し落ち着いた色がいいかな」
「メルは青いのが好きなんでしょ?」
「うん、好きだよ」
答えながら、メルの目はまた青い紐へ戻っていた。誰かへの贈り物を選ぶのも楽しいのだろう。けれど、今日は自分のために出かけてきたはずだった。
「ねえ、メル。まずは自分のを選ばない?」
「……そうだね」
メルは笑って青い紐を手に取った。けれど今度は、少し離れた籠に目を留める。
「あれも、かわいいなあ」
そこには、薄い黄色の紐があった。青いものより少し短く、端の花も形が違っている。メルは二つを並べ、右を見たり左を見たりしている。思ったより本気で迷っているらしく、わたしとアカはしばらく黙って待った。
「シロなら、どっちにする?」
「わたし? そうだなあ……メルが最初に見つけたのは、青い方なんだよね」
「うん。でも、黄色いのも素敵で」
「じゃあ、両方合わせてみようか」
店の人に頼むと、小さな鏡を貸してくれた。メルは髪に青い紐を当て、少し首を傾げる。アカが鏡の後ろから覗き込み、今度は黄色い方を持って並べてみせた。
「青いのは、なんだか静かな感じ!」
「黄色いのは?」
「お日様みたい!」
アカの言い方に、メルがくすくす笑った。鏡の中でもその頬が緩み、いつも店で見せる穏やかな笑顔とは少し違って見えた。どちらが似合うか決められず、とうとう店の人まで一緒になって考え始める。
何度も合わせてから、メルは青い紐を選んだ。握っていた硬貨を数え直し、店の人へ丁寧に渡す。包みを受け取ったときには、さっきより少し頬が赤くなっていた。
「買っちゃった」
「うん。よかったね」
「……なんだか、どきどきする」
大きな買い物ではなかった。それでも、メルが袋を胸元へ抱える姿を見ていると、何日も楽しみにしていたものをようやく手にできたのだと分かった。
そのあと、アカに引っ張られて焼き菓子の店へ寄った。小さな菓子を三つ買い、屋根の影になった腰掛けへ並んで座る。アカがひと口食べて目を輝かせると、メルも真似をしてかじり、口元についた粉を見て笑った。
「メルって、今日はいつもより楽しそうだね」
「そうかな?」
「うん。お店にいるときも笑ってるけど、今日はいっぱい迷ってた」
わたしが言うと、メルは少し考えた。
「普段は、何を作るかとか、ミナトの明日の服とか、決めることがあるでしょう。でも、自分の好きな色を選ぶのって、案外難しいね」
「楽しくなかった?」
「ううん。とっても楽しかった」
そう答えた顔を見て、わたしも嬉しくなった。メルは家では頼りになるお姉さんで、食堂ではお客さんに愛される看板娘だ。けれど、こうして並んで菓子を食べていると、少し年の離れた友達のようにも思える。
帰り道、メルは髪紐の包みを何度も確かめていた。途中で焼き菓子の残りを入れた袋を持ち替えた拍子に、包みが見当たらなくなって立ち止まる。三人で足元を探し始めたところで、アカが「あった!」とメルの腕を指差した。
「あら……ずっと持ってた」
「メル、忘れんぼ!」
「ふふ。今日はちょっと、浮かれてるのかな」
メルは恥ずかしそうに笑いながら、今度こそ包みを袋へしまった。その手つきまで嬉しそうで、アカもわたしもまた笑ってしまった。
食堂に戻ると、ミナトが真っ先に駆け寄ってきた。小麦粉のついた手をエライザに拭いてもらい、メルの前で背伸びをする。
「メル、何買ったの?」
「ふふ、見てくれる?」
メルは包みを開き、青い髪紐をそっと広げた。ミナトはしばらく見つめてから、「お花がついてる!」と目を丸くする。
「そう。自分で選んだの」
「メルにつけてみて!」
ミナトにせがまれ、メルは髪をまとめて紐を結んだ。上手く結べずにやり直していると、エライザが後ろから手を貸してくれる。
「おや、いい色じゃないか。あんた、こういうのが欲しかったのかい」
「うん。ずっと見てたんだけど、今日は買ってみたの」
「そうかい。よかったねえ」
エライザは結び目を整えると、肩越しに娘の顔を覗き込んだ。いつものように大げさなことは言わなかったけれど、その声は優しかった。
「似合うよ、メル」
「……ありがとう、お母さん」
ミナトが嬉しそうに手を叩き、アカも隣で何度も頷いた。クロは窓際の椅子からその様子を眺めていたけれど、ミナトに呼ばれると床へ降りてきて、メルの足元をひと回りした。
「クロも似合うって!」
「そうだったら嬉しいな」
メルはしゃがんでクロの背中を撫で、それから立ち上がった。夕方の仕込みが始まるまで、まだ少し時間がある。エライザは娘をもう一度眺めると、笑って厨房へ戻っていった。
メルは青い紐を外さなかった。
わたしたちが買ってきた焼き菓子を小皿に分ける間も、ミナトと今日の市場の話をする間も、細い花飾りが動くたびに小さく揺れていた。メルはそれに気づくたび、そっと指先で触れて、少し照れくさそうに笑った。
わたしは、その笑顔をもう少し見ていたくなった。




