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第15話

 エライザの家で暮らし始めて、ひと月ほどが過ぎた。


 朝は仕込みの物音で目を覚まし、昼は店の賑わいの中で過ごす。ギルドの仕事がある日は二人で出かけ、戻ってくると、アカが真っ先に厨房の匂いを確かめに行く。そんな毎日に慣れてきた頃、夕方から強い雨が降った。


 厚い雲の下で通りは早々に暗くなり、軒先を打つ雨の音が客たちの声をかき消していた。いつもなら夕食時まで混み合う店も、その日は早く席が空いた。エライザは窓の掛け金を確かめ、メルに奥の戸を閉めるよう声をかけた。


「今日はもう店じまいにするよ。こんな雨じゃ、誰も出歩かないだろうからね」

「お鍋、まだ少し残ってるね」

「明日の分には回せないよ。みんなで食べてしまおうか」


 メルが嬉しそうに頷く。アカもその言葉を聞きつけたらしく、拭いていた卓から顔を上げた。


「アカ、もう一杯食べていい?」

「さっきご飯を食べたばかりだろう。まず仕事を終わらせな!」

「はーい!」


 エライザの声が響き、店に小さな笑いが起こった。わたしは椅子を卓の下へ戻しながら、厨房に残った灯りを眺めた。料理の匂いがする家に帰れることにも、誰かに仕事を言いつけられることにも、少しずつ慣れてきていた。


 最後の卓を拭き終えたところで、戸を叩く音がした。


 雨に紛れて聞き取りにくかったけれど、間を置いてもう一度、今度は少し強く鳴った。エライザが厨房から顔を出す。


「おや、こんな時間に。シロ、悪いけど見てきてくれるかい」

「うん」


 戸を開けると、冷たい風と細かな雨粒が吹き込んできた。軒の下に立っていたのは、外套を頭から被った女性だった。その後ろに、小さな女の子がしがみついている。二人とも裾から水が滴り、女の子の頬は寒さで赤くなっていた。


「あの……もう、閉まっていますか」

「ちょうど片づけていたところです。どうしました?」

「雨宿りをさせていただけないでしょうか。宿まで行こうと思ったんですけど、娘が寒がってしまって」


 女性は申し訳なさそうに頭を下げた。女の子は母親の服を握ったまま、こちらを見上げている。わたしが中へ招こうとしたとき、背後からエライザの声がした。


「話はあとだよ。そんなところに立ってないで、早く入りな!」


 エライザはもう大きな布を抱えていた。入口の床が濡れるのも構わず、女の子の肩へそっと掛ける。


「メル、乾いた布をもう一枚! アカ、奥の椅子をこっちへ寄せておくれ。シロは戸を閉めて、そこにある桶を出してくれるかい」


 言われたとおりに動いているうちに、二人は窓から離れた席へ座っていた。女の子の濡れた靴は桶のそばに揃えられ、メルが手の冷たさを確かめながら布で包んでいる。アカは空いた椅子をもう一つ運び、母親の前に置いた。


「すみません。お店を閉めるところだったのに……」

「閉めるのはいつでもできるさ。それより、何か温かいものを食べたかい?」

「いえ。あの、お湯を少しいただけるだけで十分です」

「十分かどうかは、食べてから決めな」


 エライザはそう言うと厨房へ引き返し、残してあった煮込みを火にかけ直した。蓋を開けると、肉と野菜の匂いが湯気と一緒に立ち上った。少しして、深い皿が二つ、焼いてあったパンとともに卓へ運ばれてきた。


 女の子は皿を見つめていたけれど、すぐには手をつけなかった。隣の母親の顔を見上げ、小さな声で何かを尋ねている。


「どうしたんだい。熱いから、ゆっくり食べるんだよ」

「……お母さんも、食べていいの?」

「もちろん。二人分あるだろう?」


 エライザが答えると、女の子は安心したように匙を取った。ふうふうと息を吹きかけてから口に運び、目を丸くする。女性も一口飲み、強張っていた肩をようやく下ろした。


 わたしは厨房へ戻り、エライザが使った鍋を洗う準備をした。すぐそばでは、メルが濡れた布を新しいものと取り替えている。アカは女の子の靴を火から離れた場所へ置き直すと、戻ってきて小声で言った。


「シロ、あったかくなったみたいだね」

「うん。よかった」


 アカの視線を追うと、女の子が頬を膨らませながらパンを食べていた。さっきまで震えていた指は、もうしっかりと匙を握っている。


 食事が終わる頃、雨脚は少し弱まっていた。女性は卓に小さな硬貨を並べ、申し訳なさそうにエライザを呼んだ。


「本当に助かりました。これだけしか持ち合わせがなくて……足りない分は、あとで必ず」

「そんなもの、しまっておきな。あんたたち、これから宿に泊まるんだろう?」

「でも、お料理までいただいてしまって」

「今夜は鍋に残っていた分を出しただけさ。明日も歩くなら、宿代を減らしちゃいけないよ」


 エライザは硬貨を女性の掌へ戻した。女の子が隣でまた頭を下げようとすると、その頭を軽く撫でて止める。


「ほら、お嬢ちゃん。お礼はもう聞いたよ。お腹いっぱいになったかい?」

「うん。すごく、おいしかった!」

「ならよかった。今度は風邪をひかないようにね」


 女性は何度も礼を言った。わたしが二人を宿まで送ると申し出ると、エライザは少し考えてから頷き、戸口に置いてあった雨除けの布を渡してくれた。


「道が滑るから、足元を見てやっておくれ。シロも濡れたまま戻ってくるんじゃないよ」

「うん。行ってくるね」


 通りへ出ると、雨は細い糸のようになっていた。女の子は母親と手をつなぎ、ときどき後ろを振り返って食堂の灯りを見ていた。近くの宿まで案内して別れたあと、わたしは急ぎ足で家へ戻った。


 戻ると、食堂の戸はまだ開いていた。エライザは入口の濡れた床を拭きながら、わたしの顔を見るなり眉を上げた。


「ほら、見てごらん。肩が濡れてるじゃないか」

「これくらい、すぐ乾くよ」

「乾く前に冷えるだろう。さっさと着替えておいで」


 返事をして階段へ向かうと、奥からミナトの声が聞こえた。雨の音が大きくなって眠れなかったらしく、メルに抱かれたままこちらを見ている。足元ではクロが静かに尻尾を揺らしていた。


「シロ、雨の中にいたの?」

「うん。お客さんを送ってきたんだ」

「寒くなかった?」

「少しだけね。でも、もう平気だよ」


 ミナトはほっとしたように頷いた。エライザが「ミナトは先に休んでおいで」と声をかけると、メルは弟の肩に布を掛け直し、クロを伴って奥へ戻っていった。


 着替えて店へ降りると、エライザが一人で帳簿を開いていた。傍らには空になった鍋と、湯気の立つ二つの杯がある。わたしに気づくと、片方を押し出してきた。


「座って飲みな。身体が温まるよ」

「ありがとう。……さっきの人たち、安心したみたいだった」

「そうかい。よかったねえ」


 わたしは杯を両手で包んだ。甘くない温かな茶が、歩いてきた身体にゆっくり染みていく。エライザは帳簿にいくつか数字を書き足すと、頁の端を押さえて閉じた。


「お代、受け取らなくてよかったの?」

「毎晩ああしてたら、うちだって立ち行かなくなるさ。今日はたまたま料理が残ってたし、あの子も冷えきってた。それだけだよ」


 エライザは軽く肩をすくめた。あれほど迷いなく料理を出したのに、帳簿のことも、明日の仕入れのことも、きちんと考えている。


「昔はうちの両親が、ここの厨房に立ってたんだ。あたしはその横で、忙しそうに皿を運んでた。今じゃ、メルが同じことをしてるんだから、おかしなもんだね」


 エライザは厨房の方を見て、少し笑った。店の外では、軒から落ちる雫が規則正しく石を打っている。


「食べさせる人が増えれば、その分働かなきゃならない。でも、腹を空かせた子供が目の前にいたら、まず温かいものを出してやりたくなるんだよ。困った性分だねえ」

「……わたしは、そういうエライザが好きだよ」

「何だい、急に。そんなこと言っても、おかわりは増えないよ」


 笑いながら言われ、わたしも笑ってしまった。エライザは杯を持ち上げ、もう一口飲んでから立ち上がる。


「さあ、寝る前に鍋を片づけるよ。シロ、手を貸してくれるかい?」

「うん、もちろん」


 二人で厨房に入ると、まだ竈のそばにほのかな温もりが残っていた。エライザは鍋の底を確かめ、明日の仕込みに使う道具を手際よく並べ直していく。わたしも隣で洗い終えた皿を拭き、一枚ずつ棚へ戻した。


 さっきの女の子が、湯気の向こうで見せた顔を思い出した。


 ここで暮らすようになる前、わたしたちもエライザの料理に夢中になって、ずいぶん無茶なお願いをした。あのときは厳しく叱られたけれど、今なら少し分かる気がする。誰かを迎え入れることも、明日の食事を用意することも、エライザにとっては同じくらい大事な仕事なのだ。


「シロ、そっちはもういいよ。残りはあたしがやるから」

「もう少しだけ手伝わせて」

「まったく。あんたも頑固だねえ」


 呆れたような声のあとで、エライザが笑った。わたしは濡れた皿をもう一枚受け取り、布巾で縁を拭いた。


 雨は、いつの間にかやんでいた。


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