第14話
あの夜から三日後、食堂を訪ねたわたしたちに、エライザが声をかけてくれた。
「ギルドで話を聞いてきたよ。シロはずいぶん真面目に仕事をしてるんだってね」
「……確認できたの?」
「ああ。あんたが話してくれたこととも食い違いはなかった。それで、二人ともまだここに住みたいのかい?」
「うん!」
アカがわたしより先に頷いた。エライザはその勢いに笑いながらも、今度はわたしの返事を待っている。
「わたしも、お願いします」
「よし。だったら、宿の片づけが済んだら荷物を持っておいで。ただし、話した約束は忘れるんじゃないよ」
「うん。ありがとう、エライザ!」
嬉しくて何度も頭を下げるわたしの隣で、アカはもう荷物の数を数え始めていた。旅の途中で増えたものは少ない。けれど、あの食堂に持っていくのだと思うと、鞄に入った一つ一つが急に大切なものに思えた。
宿へ戻る道で、アカは何度も同じことを聞いた。
「ねえシロ、今日からあそこで寝るの?」
「うん。荷物を運んだらね」
「じゃあ、朝起きてもエライザがいる?」
「いると思うよ。きっと朝ご飯の準備をしてる」
「……すごい!」
何がそんなにすごいのか分からなくて笑ってしまったけれど、気持ちはよく分かった。夜にあの店を出るとき、いつも名残惜しそうだったのはわたしも同じだから。
宿の主人に礼を言い、部屋に置いていた荷物をまとめた。アカは畳んだ服を袋へ押し込もうとして、途中で引っかかってしまう。わたしが一緒に畳み直すと、今度はきれいに収まった。
「これで全部かな」
「うん! シロ、無銘もある?」
「ちゃんと持ってるよ」
腰の鞘を軽く叩いてみせると、アカは満足そうに頷いた。長い旅を共にした短剣も、着替えも、使い慣れた水筒も、これからは毎晩同じ場所へ戻ってくる。そう考えると、まだ慣れない気持ちがした。
宿の扉を出ると、午後の陽が通りを照らしていた。歩き始めてすぐ、アカがわたしの手を握ってくる。空いている方の手で袋を抱え直しながら、二人でいつもの道を進んだ。
食堂の前に着いたとき、ちょうどメルが戸口を掃いていた。わたしたちの荷物を見るなり、箒を立てかけて駆け寄ってくる。
「シロ、アカ! 来たんだね!」
「うん。今日からよろしくね」
「こちらこそ。お母さん、二人が来たよ!」
厨房から顔を出したエライザは、わたしたちを見ると大きく頷いた。
「おいで。荷物を先に置こうか。メル、案内してやっておくれ」
「はーい!」
メルのあとについて店の奥へ進む。何度も通っている食堂なのに、今日は少し違って見えた。いつもは客席へ向かっていた足が、その先へ進んでいくからだろう。
案内された部屋には、二人分の寝具が用意されていた。窓から入る風に、干したばかりの布の匂いが混じっている。寝具の端には、洗いたてらしい枕布がきちんと畳んで置かれていた。
「昨日、お母さんと一緒にお掃除したの。狭かったら言ってね」
「そんなことないよ。すごくきれい。ありがとう、メル」
「アカ、ここで寝るの?」
「うん。二人で使ってね」
アカは荷物を下ろすと、さっそく寝具の間へ座り込んだ。両手で布を触っては、嬉しそうに顔を上げている。わたしも腰を下ろすと、敷物の下から床の硬さが伝わってきた。
旅の宿では、翌朝になればまた荷物をまとめる。どれほどよく眠れた部屋でも、出ていくときには何も残さない。けれど、ここでは鞄を片づけてもいいのだと思うと、何から手をつければいいのか少し迷った。
「服はこっちに置けるよ。足りなければ、あとで棚を空けるね」
メルが壁際を示してくれた。わたしがお礼を言っていると、廊下から小さな足音が近づいてきた。
「シロ! アカ!」
ミナトが戸口から顔を出し、その足元からクロがするりと入ってきた。
「メルが、今日からここに住むって言ってた!」
「うん。お世話になることになったんだ」
「じゃあ、夜になっても帰らないの?」
「ここで寝るんだよ」
ミナトはわたしとアカを見比べ、それから部屋の寝具に目を向けた。何か考えるように口を結んでいたけれど、急にぱっと笑う。
「じゃあ、明日の朝も会えるね!」
「うん。会えるよ」
「やった! アカ、朝ご飯、一緒に食べようね!」
「食べる! 絶対食べる!」
勢いのいい返事にミナトが笑い、メルも口元を押さえていた。クロは部屋の端まで歩いてきて、わたしの荷物を一度だけ嗅いだあと、何事もなかったようにミナトのそばへ戻った。
その仕草があまりにいつもどおりで、胸の奥が少し温かくなった。わたしが何を思ってここへ来たのか、クロはきっと分かっている。それでも今は、ミナトの隣で静かに尻尾を揺らしていた。
荷物を片づけ終える頃には、夕方の仕込みが始まっていた。店へ降りると、エライザが鍋を見ながら声をかけてくる。
「二人とも、今日はもう客じゃないからね。手が空いてるなら、そこの野菜を洗っておくれ」
「うん!」
「アカもやる!」
「慌てない。泥をちゃんと落としてから、メルに渡すんだよ」
教えられたとおりに桶へ水を張り、根菜を一つずつ洗った。アカは土の残りやすい窪みを見つけるたび、指先で丁寧にこすっている。仕事は特別なものではなかったけれど、エライザが時々こちらを見て「それでいいよ」と言ってくれるのが嬉しかった。
夕食時になると店はいつもどおり賑わい、わたしたちもできる範囲で手を貸した。皿を下げたり、空いた卓を拭いたりしているうちに、窓の外はすっかり暗くなる。最後のお客さんが帰ると、エライザは戸を閉め、店内に残った灯りを一つずつ落としていった。
「さあ、うちの夕飯にしようか。みんな、手を洗っておいで」
その声で、ミナトが奥から顔を出した。アカを見つけると、すぐ隣へ並びに来る。みんなで手を洗ってから食卓へ向かうと、そこには人数分の皿が並んでいた。
「シロはこっち。アカはミナトの隣でいいかい?」
「うん!」
「アカ、ミナトの隣がいい!」
席に着くと、メルがスープを運んできた。豆と野菜がたっぷり入っていて、湯気の向こうから香草の匂いがする。昼間に洗った根菜も、小さく切られて入っていた。
「アカ、これ洗った!」
「そうだよ。ちゃんと仕事してくれた野菜さ」
「じゃあ、いつもよりおいしいかも!」
「味見もしてないのに、よく言うねえ」
エライザは笑いながらパンを取り分けた。ミナトがアカの皿を覗き込んで、どちらの野菜が大きいか比べ始める。メルは二人にこぼさないよう声をかけ、足元ではクロが静かに座っていた。
わたしは匙を持ったまま、少しだけその光景を眺めた。今までも何度も、この店でエライザの料理を食べてきた。でも、客が帰ったあとの静かな食堂で、みんなが同じ卓を囲んでいるのは初めてだった。
「シロ、どうしたんだい。冷めるよ」
「あ……うん。いただきます」
ひと口飲むと、温かいスープが喉を通った。いつものエライザの味だったのに、今夜は不思議と、もう少しゆっくり食べていたくなった。
食事が終わると、ミナトは眠そうに目をこすり始めた。メルに促されて椅子を降り、クロを呼んで戸口へ向かう。けれど、その途中で思い出したように振り返った。
「シロ、アカ。おやすみ!」
「おやすみ、ミナト」
「おやすみ!」
ミナトは満足そうに頷き、クロと一緒に奥へ歩いていった。メルもあとを追いかけ、残ったわたしとアカは皿を運ぶ。エライザは洗い場に立ちながら、こちらへ目を向けた。
「明日は朝から忙しいよ。寝坊したら起こしに行くからね」
「うん。早く起きるよ」
「アカも!」
「頼んだよ。……それじゃ、二人とも、おやすみ」
部屋へ戻ると、窓の外は静かだった。遠くで戸を閉める音がして、やがてそれも聞こえなくなる。アカは寝具へ潜り込むと、なかなか眠ろうとせず、こちらを見ていた。
「シロ」
「なあに?」
「明日の朝も、ここにいるんだよね」
「うん。ここにいるよ」
「……よかった」
アカは小さく笑って、布を肩まで引き上げた。わたしも横になり、天井を見上げる。まだ見慣れない木目が、灯りの消えかけた部屋にぼんやり浮かんでいた。
しばらくすると、廊下の向こうからエライザとメルの声が聞こえた。明日の仕込みの相談をしているらしい。低い笑い声が一度だけ混じり、足音が遠ざかっていく。
宿に泊まっていた頃は、扉の向こうの声を聞いても、それが誰のものか分からないことが多かった。今は名前が分かる。明日になれば、また顔を合わせる人たちの声だった。
「おやすみ、アカ」
「おやすみ、シロ」
目を閉じると、洗いたての布から陽の匂いがした。
明日の朝は、荷物をまとめなくていい。
そう思った途端、肩の力がふっと抜けた。




