第13話
店の窓から漏れる灯りが、石畳の上に細長く伸びていた。昼間はあんなに賑やかな通りも、日が暮れると足音がよく響く。わたしとアカは、最後のお客さんが帰っていくのを少し離れたところで見届けてから、食堂の扉を開けた。
「こんばんは。昨日のお話で来ました」
「おや、時間どおりだね。ちょうど片づけが終わったところさ」
エライザは前掛けを外し、椅子の背に掛けた。いつもならすぐに料理を勧めてくれるのに、今夜は厨房へ戻らず、奥の卓を指している。メルもそこへ水の入った杯を並べていた。
「アカ、ちゃんとお話できるかな」
「できるよ。昨日、シロと練習したもん」
店に来る途中で、アカは何度も言うことを考えていた。食堂の料理がどれほどおいしいか。掃除も皿運びも覚えるつもりだということ。けれど練習するたびに話は長くなり、最後には今日の献立が何だったかという話になってしまった。
わたしも笑っていたけれど、胸の中は少し落ち着かなかった。昨日、エライザが立ち止まってまで声をかけてくれたことが、嬉しかったからだ。
「ほら、座りな。アカもね」
「はい!」
アカは勢いよく椅子を引き、音が大きかったことに気づいてそっと押し直した。エライザはその様子を見て口元を緩めたものの、向かいに座ると、まっすぐわたしの顔を見た。
「先に言っておくよ。あたしは二人のことを、ずいぶん気に入ってる。店も助けてもらったし、メルとミナトも喜んでる。だけどね、それと家に住まわせるのとは別の話さ」
「うん。分かってる」
「なら、いくつか聞かせてもらおうか。シロ、あんたはこの町に、いつまでいるつもりなんだい?」
わたしは少し考えた。西へ来たのはクロとミナトに会うためだった。会えた今、すぐに別の町へ移る理由はない。でも、冒険者の仕事があれば、遠くへ出なければならない日も来るだろう。
「しばらくは、この町を拠点にしたいと思ってる。仕事で離れることはあるけど、帰ってくる場所にできたら嬉しい」
「遠くの依頼を受けたら、アカも一緒に行くのかい?」
「うん。アカもシロと行くよ」
答えたアカを見ると、エライザの眉がわずかに寄った。
「そう簡単に言うもんじゃないよ。仕事に出るのは構わない。でも、帰りが遅れるなら知らせてほしいし、危ない依頼を無理に引き受けてほしくない。二人とも、あたしから見ればまだ子供なんだからね」
最後の言葉は、少しだけ強かった。エライザは自分の手元へ目を落とし、杯の縁を指でなぞった。
「……うちの人も、冒険者だったんだ」
店の前を誰かが歩いていき、その足音が戸の向こうで遠ざかった。
「仕事へ行ったきり、帰ってこなかった。だから、仕事だから仕方がない、って簡単には言いたくないのさ」
エライザはそれきり黙り、卓の上で手を組んだ。メルも、口を挟まなかった。
わたしは膝の上で手を握った。約束すれば、必ず無事に帰ってこられる。そんなことは、わたしにも言えない。けれど、心配する人を置いて出かける重さなら、少しは分かるつもりだった。
「危ないことがないとは言えない。でも、何も話さずに出かけたり、力を試すために無茶をしたりはしないよ。アカのことも、ちゃんと考えて仕事を選ぶ」
「……そうかい」
エライザはわたしの腰にある短剣へ一度目を向け、ゆっくり頷いた。
「身元の方は、ギルドで確認させてもらうよ。証を持ってるだけじゃ、普段どんな仕事をしてるかまでは分からないからね」
「うん。聞いてもらって大丈夫。わたしからもギルドへ話しておくね」
メルが杯へ水を足した。話が途切れたところで、アカが両手を膝に揃えて、背筋を伸ばす。
「アカも、ちゃんと働くよ。お皿も運べるようになったし、床も掃けるよ。あと、ミナトと遊ぶのも得意!」
「最後のは仕事じゃないだろう?」
「えっ、そうなの?」
エライザが吹き出し、メルも小さく笑った。アカは不思議そうな顔をしていたけれど、すぐに胸を張り直した。
「じゃあ、お仕事も遊ぶのも、どっちも頑張る!」
「まったく、欲張りな子だねえ」
笑いが収まると、メルが母親の方を向いた。
「お母さん、わたしは二人に来てもらえたら嬉しいな。アカちゃん、ミナトとよく遊んでくれるし、シロは困っているときに、何ができるか考えてから手伝ってくれるでしょう?」
「それは、あたしだって分かってるよ」
「うん。でも、お仕事をしているときだけじゃなくて、一緒にご飯を食べたり、お話したりするのも楽しいの」
メルはそこで少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「だから、お客さんとして来てくれるのも好きだけど……帰るとき、ちょっと寂しいなって」
アカがわたしの袖を握った。わたしも同じ気持ちだった。夕食が終わって宿へ戻る道では、いつも背後から聞こえてくる食堂の声を、もう少し聞いていたくなった。
「ねえ、シロ」
エライザが再びこちらを向いた。
「最初は、ご飯が毎日食べたいからって言ってたね。今も、それが一番の理由かい?」
アカは勢いよく頷きかけ、途中で止まった。わたしもすぐには答えられなかった。エライザの料理が好きなことは、初めて食べた夜から少しも変わっていない。
「うん。毎日食べたいよ。でも……」
隣でアカが続けた。
「アカ、ミナトともメルとも、もっと一緒にいたい。エライザがご飯作ってるところを見るのも好き。ここに来ると、明日も来たいって思うんだ」
わたしは頷いた。昼間の賑やかな声も、夕方に戸を閉める音も、食事のあとに交わす何でもない話も、いつの間にか大切になっていた。
「わたしも同じ。ここを、ただ泊まるための場所にはしたくない。みんなと一緒に暮らしたいんだ」
エライザはしばらく何も言わなかった。表通りでは荷車が一台通り過ぎ、車輪の音が遠ざかっていく。わたしは杯の水に揺れる灯りを見つめながら、返事を待った。
やがてエライザが、大きく息を吐いた。
「……メル。あんた、そんな顔でこっちを見るんじゃないよ」
「わたし、何も言ってないよ?」
「言わなくたって分かるさ」
エライザは笑って、それからわたしたちへ身を乗り出した。
「分かった。ギルドでの確認が済んで、問題がなければ、うちへおいで」
アカが椅子から立ち上がりかけたので、わたしは慌てて袖をつまんだ。
「ただし、約束があるよ。店の手伝いはできる範囲でいい。仕事へ出るときは行き先と戻る予定を伝えること。それから、家で困ったことがあったら黙って抱え込まないで、あたしに言うんだ」
「……うん!」
「アカも、ちゃんと言う!」
エライザは満足そうに頷いた。
「それと、悪いことをしたら叱るからね。お客さんだからって遠慮はしないよ」
「はい!」
「アカ、ちゃんと謝れるよ!」
「だったら結構」
メルが嬉しそうに笑った。わたしは何かお礼を言おうとしたけれど、なかなか言葉が出てこなかった。エライザはそんなわたしを見て、少し困ったように首を傾げる。
「何だい。さっきまであんなに一生懸命話してたのに」
「……ありがとう。すごく、嬉しい」
「まだ確認が残ってるよ。喜ぶのはそれが済んでからにしな」
そう言いながら、エライザの顔はもう笑っていた。
店を出ると、夜の風が頬を冷やした。アカはしばらく黙って歩いていたけれど、宿へ続く角を曲がったところで、とうとう声を上げた。
「シロ! 聞いた? 来てもいいんだって!」
「うん。ギルドの確認が済んだらね」
「分かってるよ! でも、嬉しい!」
アカが手を握ってきたので、わたしも強く握り返した。明日もまだ宿の部屋へ帰るし、荷物だってそのままだ。それなのに、振り返った先の食堂の灯りが、さっきまでとは少し違って見えた。
いつかあの扉を開けるとき、「ただいま」と言えるのかもしれない。
アカは隣で何度も、明日は何を食べようかと話していた。わたしはその声を聞きながら、灯りの残る通りをゆっくり歩いた。




