第12話
この町に着いてから、半月ほどが過ぎた。わたしたちは宿に泊まりながら、近くの街道や村で受けられる依頼をこなし、夕方になるとエライザの食堂へ通った。顔を覚えてくれたお客さんが声をかけてくれることも増えたけれど、アカは相変わらず、料理が運ばれてくるたびに初めて食べるような顔で喜んでいた。
その日は、食堂がお休みだった。前の晩にメルから誘われて、わたしたちは昼前に町外れの草地へ向かっていた。ミナトが手作りの凧を揚げるのだという。ギルドの仕事も入っていなかったので、アカは朝からずっと楽しみにしていた。
「凧って、どのくらい高く上がるのかな?」
「風がよければ、ずいぶん高く上がるよ」
「シロの頭よりも?」
「それは、もちろん」
「じゃあ、あの木よりも?」
アカが道の脇の木を指差した。わたしが頷くと、今度は空を見上げて、雲よりも高くなるかと聞いてくる。
「そこまで長い糸は、ないと思うな」
「そっかあ」
残念そうに言いながらも、すぐに笑顔に戻る。アカの肩にかけた袋には、今朝宿の主人から分けてもらった水筒が入っている。自分の分だけでなく、わたしの分まで持とうとしたので、片方はわたしが引き受けた。
草地へ着くと、メルが布を広げ、その上に弁当の包みを並べていた。エライザは近くで腰に手を当て、ミナトが持っている凧を眺めている。足元にはクロがいて、草の匂いを嗅ぎながら歩いていた。
「シロ! アカ!」
ミナトが凧を抱えて駆け寄ってきた。細い木の骨に薄い布が張られ、先には長い尻尾がついている。布には丸い目と大きな翼が描かれていた。
「見て! メルと作ったんだ!」
「わあ、鳥だ!」
「うん! これ、飛ぶんだよ」
ミナトは誇らしそうに凧を掲げた。アカが身をかがめて翼を覗き込むと、尻尾の付け根に少し曲がった縫い目が見えた。メルが直そうとしたらしいけれど、ミナトは自分でやると言って譲らなかったそうだ。
「そこは、ぼくが縫ったんだ」
「すごい! アカ、針を使うの苦手だよ」
「ぼくも。三回、指にくっついちゃった」
「刺しちゃった、でしょう?」
メルが笑いながら訂正すると、ミナトは少し考えてから頷いた。エライザが「指を見せてごらん」と言うと、ミナトは両手を広げてみせる。小さな指にはもう傷も見えず、母親はそれを確かめてから凧を受け取った。
「ほら、先に風を見ておいで。勢いだけで走っても上がらないよ」
「うん!」
ミナトは草の上に立ち、頬へ当たる風を確かめるように顔を上げた。乾いた草が西から東へゆっくり倒れ、少し離れた木の葉も同じ方へ揺れている。
「シロ、今なら飛ぶ?」
「うん。ちょうどいい風だと思うよ」
エライザが凧を持ち、ミナトが糸巻きを握った。メルとアカは邪魔にならないように脇へ寄り、わたしも少し離れて見守る。
「いいかい、走るよ。せーの!」
ミナトが駆け出し、エライザが凧から手を離した。布の翼は一度ふわりと浮いたけれど、すぐに横へ傾いて草の上へ落ちた。ミナトは糸巻きを抱えたまま立ち止まり、後ろを振り返る。
「あれ?」
「慌てない、慌てない。もう一回さ」
エライザが凧を拾い上げ、草を払った。ミナトは頷いて走り出したけれど、今度は糸が足元に絡みそうになり、凧が上がる前に止まってしまった。
「むずかしい……」
口を尖らせたミナトのところへ、アカが駆け寄った。
「アカが持つよ! ミナトは走って!」
「ほんと?」
「うん!」
アカはエライザから凧を受け取り、高く掲げた。けれど、ミナトが走り出すのと同時に自分も駆け出してしまう。二人は同じ速さで草地を横切り、凧はアカの手の中でばたばたと翼を鳴らした。
「アカ、離してあげて!」
「あっ!」
慌てて手を放すと、凧は二人の後ろへ落ちた。ミナトがきょとんとした顔で振り向き、アカと顔を見合わせる。どちらからともなく笑い始めたので、わたしもメルもつられてしまった。
「もう、二人とも。凧まで一緒に走ったら飛べないよ」
メルが笑いながら言った。エライザは凧の骨に傷がないことを確かめると、今度はわたしへ差し出した。
「シロ、ちょっと持ってやってくれるかい。あたしは見てる方に回ろう」
「うん、いいよ」
ミナトは糸を巻き直し、わたしの前へ戻ってきた。額に汗が浮かんでいたので、メルが布で拭いてやる。クロは草の上に座り、忙しなく走り回るわたしたちを静かに見ていた。
凧を持ち上げると、薄い布が指先で小さく震えた。風の流れはよく分かる。少し術を使えば、凧を高く持ち上げるのは難しくないだろう。けれど、ミナトはもう一度自分で走りたそうにしていた。
「ミナト、今度は風上にあるあの木の方まで走ってみようか。わたしが合図したら、まっすぐね」
「うん!」
風が強くなったところで、わたしは凧を掲げた。布の翼がふくらむ。ミナトがこちらを振り返るのを待って、頷いてみせた。
「今だよ!」
小さな靴が地面を蹴った。わたしが手を離すと、凧は一度沈みかけたものの、次の風を受けてゆっくり持ち上がっていった。ミナトが走るのをやめると、糸はぴんと張り、凧が青空の中で揺れた。
「……上がった!」
ミナトの声が弾けた。
「お母さん! メル! 見て!」
「見てるよ! 上手じゃないか!」
「ミナト、糸を離さないでね!」
アカは飛び跳ねながら両手を振っていた。ミナトは糸巻きを握りしめ、ときどき強く引かれそうになりながらも、顔を上げたまま動かなかった。
凧は風に乗って少しずつ高くなった。描かれた鳥の翼はもう細くしか見えない。頭上を横切る本物の鳥が、しばらくそのそばを飛んでから遠ざかっていった。
「シロ、飛んでるよ!」
「うん。ちゃんと飛んでるね」
ミナトは何度も頷いた。やがて腕が疲れてくると、エライザが後ろからそっと糸巻きを支えてやった。メルも隣に並び、アカは凧の影を追いかけて草の上を走る。
わたしはその少し後ろに立っていた。凧を見上げるミナトの頬は赤く、笑うたびに目が細くなる。あの日、食堂で初めて会ったときには知らなかった顔だった。
しばらくして凧を下ろすと、みんなで弁当を囲んだ。エライザの作った薄焼きの肉と野菜をパンに挟んだもので、外で食べると香草の香りがいつもよりはっきりした。アカは一口食べるなり目を輝かせ、エライザに「もっとあるよ」と言われて嬉しそうに手を伸ばした。
「シロ、また一緒に来ようね」
ミナトがパンを持ったまま言った。横ではメルが口元についた汁を拭こうとしていて、ミナトは照れくさそうに顔をそむける。
「うん。また凧を揚げよう」
「次はもっと高く!」
「アカも持つ! 今度はちゃんと離すよ!」
その言葉にみんなが笑った。クロは敷物の端で前脚を揃え、ミナトが声をかけると短く鳴いた。
帰り支度を始める頃には、陽が少し傾いていた。メルとアカが敷物を畳み、ミナトは凧を胸に抱えて先に道へ出る。エライザは片づけの終わった籠を持ち上げながら、わたしを呼び止めた。
「シロ。あんたたち、まだ宿暮らしなんだろう?」
「うん。今も同じ宿に泊まってるよ」
「そうかい」
エライザは少し先を歩く子供たちを見た。ミナトが何か言うたびにアカが振り向き、メルは二人が道の端へ寄りすぎないよう声をかけている。
「あんたとアカが来てから、あの子ら、ずいぶん楽しそうでね」
いつものよく通る声が、今は少しだけ穏やかだった。わたしが返事を探していると、エライザは籠を持ち直して続けた。
「明日、仕事が済んだら店が閉まる頃に来な。住み込みの話、今度はちゃんと聞こうじゃないか」
思わず足が止まり、持ちかけた籠の縁をそっと握り直した。
「……いいの?」
「話を聞くって言ったんだよ。まだ決めたわけじゃないからね」
エライザはそう言って笑った。わたしも慌てて頷き、籠の片側に手を添えた。
「ありがとう。明日、アカと一緒に行くね」
「はいよ。ほら、みんなに置いていかれるよ」
振り向くと、道の先でアカが手を振っていた。ミナトは凧を頭の上へ持ち上げ、もう一度飛ばすつもりなのか、風の向きを確かめている。
わたしはエライザと並んで、アカたちが待つ道を歩いていった。ミナトの腕の中では、鳥の形をした凧の尻尾が風に揺れていた。




