第八話 名を買う
門は、朝のうちから開いていた。
外の人垣は、先の道場の倍だ。
源治の店の若い衆が三人に増えて、笠を三つ伏せている。
内に入ると、床が長かった。
壁までの距離が、先の二つとまるで違う。
下がる場所がある。
追われれば、追われ続ける場所でもある。
門人は五十人を超えていた。
その列とは別に、上座の脇に三人が座っていた。
門人ではない。稽古着でもない。
一人は年嵩で、二人は若い。三人とも、袴の膝に手を置いて動かない。
そこだけ、音が無かった。
「東雲流、凛之助と申す」
上座から立ったのは、まだ若い男だった。
三十かそこら。師範ではない。
「師範代の、佐野と申す」
師範代。
格が下がった、と一瞬思って、すぐに考えを改めた。
五十人の道場が、師範代を出してきた。
出せる者を選んだということだ。
構えた。
中段。竹刀の先が、少し低い。
そして、動かない。
半歩、前に出た。
右肩を落とす。面を空ける。
来ない。
先の道場でも通じなかった手だ。ここでも通じない。
右足を深く置いた。引き足を捨てる置き方。
これは、通じた。
先の師範は、この置き方で釣れた。
佐野は、来なかった。
代わりに、半歩下がった。
背筋が冷えた。
知られている。
一昨日の判は、五十四口が掛けを打った判だ。
見た者が五十人以上いて、そのうち何人が剣を知っている。
その何人かが、この道場に話をした。
──外して待つ剣だ。誘いに乗るな。
先に売れたのは、私の名ではなく、私の手の内だった。
佐野は、もう半歩下がった。
長い床だ。下がる場所は、いくらでもある。
木戸銭を出した三十人が、外で待っている。
待たせたまま終わらない勝負は、負けと同じだ。
もう一度、誘ってみた。
今度は本当に隙を作った。餌ではなく、実際に打たれる隙を。
小手を、半寸だけ前に出す。
打てば当たる。当てれば、その腕は伸びきる。
伸びきったところを取るつもりだった。
佐野は、竹刀の先をわずかに動かしただけだった。
動かして、それ以上は来ない。
見えている。
隙が本物であることまで見えていて、それでも来ない。
来なくても勝てると判じているからだ。
長い床。五十人の門人。外の見物。
待っていれば、焦れるのはこちらだ。
道場の面目は削れない。私が動かなければ、削れるのは私の名だけだ。
三度目に、半歩詰めた。
詰めた分だけ、佐野が下がる。
四度目。また下がる。
五度目で、背中に壁が来た。
佐野の背中ではない。私の背中だ。
下がり続けているように見えて、この人は円を描いていた。
長い床を使って、私を壁際まで回した。
先の道場では、私が壁を背にしたのは押された結果だった。
今日は、歩かされた結果だ。
行くしかない。
私の剣ではない方から、行くしかない。
踏み込んだ。
面。
十八年で一番多く打った打ちだ。体は覚えている。
だが、これは待つ剣ではない。当てにいく剣だ。
佐野の竹刀が、上がった。
擦り上げられる。
私がやってきたことを、そのままやられた。
崩れた線の下に、胴が空いた。
避けきれない。
腹の左に、竹刀が入った。
音は、聞こえなかった。
息が、途中で止まった。
腹の中のものが、上に押し上げられる感じがして、膝が落ちかけた。
吸おうとして、吸えない。
胸が動いているのに、空気が入ってこない。
こういう当たり方があるのは、知っていた。
知っているのと、自分の腹で受けるのは、別だった。
初めて、当てられた。
道場の空気が、変わるのが分かった。
門人の列が、揺れた。今度は嘲りではない。
外でも、声が上がっている。
佐野が、竹刀を引いた。
引いて、私を見た。
止まったのだ。
一本を取ったから。
打った側が先に解く。当てた者が勝ったと思うからだ。
十八年、私もそうしてきた。
打ったら、次を打て。
息が入らないまま、前へ出た。
引かれた竹刀は、まだ戻っていない。
戻る途中の腕は、支えが無い。
樫の木刀を、振らずに押し当てた。
小手。
一昨日と同じ手だ。振らないから、腹の力が要らない。
佐野の竹刀が落ちた。
落ちて、それでも佐野は下がろうとした。
下がるのも、解いたうちだ。
追った。
得物を失った相手を追うのは、道場ではやらない。
ここは道場だ。
だが、この判は道場の判ではない。
肩に、押し当てた。
佐野が膝をついた。
道場は、静かにならなかった。
門人の列から、はっきり声が出た。
「もう取っておるだろう」
「落としてから、なぜ追う」
答えなかった。
答えれば、私の剣が道場の剣でないことを、自分から言うことになる。
上座の脇で、音がした。
年嵩の男が、膝の上で一度だけ手を打っていた。
一度だけだ。誰も続かなかった。
腹が、そこでようやく痛み始めた。
✱ ✱ ✱
賭け金を受け取って、外へ出た。
人垣は、まだ散っていない。
若い衆が笠の銭を袋に移している。
腹を庇わずに歩くのに、思ったより力が要った。
「東雲流どの」
呼ばれた。
上座の脇にいた、年嵩の男だった。
若い二人は、少し離れて立っている。
「今のは、面白かった」
「……恐れ入ります」
「面白かった、と言うたのは褒め言葉ではない」
男は袖に手を入れたまま、私の腹のあたりを見た。
当てられたところだ。
「痛むか」
「いえ」
「そう答える稽古も、しておるようだな」
答えなかった。
「あの追い方は、道場では叱られる。人を斬る場では叱られん」
「……」
「どちらで習うた」
七日前なら、答えに詰まっていた。
今は、答えが用意してある。
「一人伝えゆえ」
男は笑わなかった。うなずきもしなかった。
「うちに来る気はないか」
来た。
源治の言った通りだ。断れば値が上がる。
断る文句も、道々考えてきた。
「浪々の身が性に合うておりますゆえ」
「銭の話はしておらん」
用意した文句が、そこで役に立たなくなった。
「歳は十五と聞いた。流派は聞かぬ名。師の名は言えぬ」
一つずつ、指を折るように並べられた。
「どこの家中でもない者が、京で剣を振っておる。今の京で、それがどういうことか分かるか」
分かる。
浪人が刀を差して歩く街で、素性の無い剣客は、いつでも都合よく使える名前だ。
辻斬りがあれば、そこに嵌めればいい。
「うちに入れば、名がつく。どこそこの家の者だと」
名。
私に一番無いものだった。
そして、受け取れば一番早く死ぬものでもあった。
家に入るなら、生国を書く。親の名を書く。歳を書く。
書いたものは、誰かが確かめに行く。
三日ももたない。
「有難きお話ですが」
声が、思ったより低く出た。
「名は、いただかぬことにしております」
男は、しばらく私を見ていた。
「……そうか」
袖から手を出して、若い二人の方へ歩き出す。
三歩ほど行って、止まった。
「名を要らぬと言う者は、二通りしかおらん」
振り向かずに言った。
「よほど大きな名を持っておるか、持っては困る名を隠しておるか」
人垣の音が、遠く聞こえた。
「また会おう」
✱ ✱ ✱
帳面の数字は、三両を超えていた。
木戸銭が四十一人。掛けが百口に近い。
私に賭けた口が、初めて半分を超えていた。
「三回もたんかったな」
源治が筆を置いた。
「もう、あんさんが勝つ思て掛ける者の方が多い。次から付きは薄うなる」
「……もっと強い相手を出す、ということですか」
「そうなる」
三両。
床下の包みと合わせれば、六両に届く。
二十五両の、四分の一だ。
四分の一まで来て、まだ一文も払っていない。
「今日、声を掛けられました」
「知っとる」
「断りました」
「それも知っとる」
源治は笑わなかった。
値が上がったはずだった。
上がったのに、この人が笑わない。
「何か」
「見せる相手を選ぶ、言うたやろ」
「はい」
「選べるんは、こっちが小さいうちだけや」
土間の紙の山に、扇子の先を向けた。
「あんさんの話は、明日には勝手に回る。うちが刷らんでも回る」
回れば、聞く者が増える。
聞く者が増えれば、見に来る者が増える。
見に来る者の中に、誰が混じっているかは、もう選べない。
「顎の線、今日は保ったか」
「……途中から、汗で」
「そやろな」
源治は帳面を閉じた。
「次の場は、しばらく決めん」
耳が、その言葉を二度通した。
「……しばらく、とは」
「決まってへん。ひと月か、ふた月か」
ひと月。
指を折るまでもなかった。
年季は十八の年に明ける。座敷に上がるのは、早ければ十六。
私は十五だ。二年も無い。
その二年から、ふた月を引く。
引いた分は、戻ってこない。
「……止めなければ、いけませんか」
「今、判を続けたらどうなる思う」
「勝ちます」
「そやろな。勝つ」
源治は筆立てを指で弾いた。
「勝つたびに、見に来る者が増える。増えた中に、あんさんを昼に見たことある者が一人おったら、それで仕舞いや」
島原の使いで歩く道。呉服屋。湯屋の前。青菜売りの婆。
七年分の顔を、この街に知られている。
判が大きくなるというのは、その七年分の中の誰かが見に来るということだ。
「顎に線を引いても、遠目までしか保たん。近間で見られたら、線が引いてあること自体が知れる」
「……では、ふた月で何が変わるんですか」
源治は答えなかった。
代わりに、奥の暖簾の方を見た。
暖簾は、動かなかった。
動かないのに、そこに人がいることは分かった。
「志乃と話し」




