第七話 止まらぬ相手
暁の七つ。まだ暗い。
水を汲む前に、河原まで出た。
志乃はもう来ていた。手ぶらだった。
「木刀は」
「持ってません。見世を出るときに、持って歩けませんから」
「そや。それでええ」
志乃は河原の石を一つ拾って、私の足元に置いた。
「その上に立ち」
言われた通りに乗った。丸い石だ。足の裏が座らない。
「構え」
中段に構える。得物は無いので、手だけで。
「そのまま、半歩出てみ」
出た瞬間に、石が回った。
膝から崩れて、片手を突く。掌の傷が石に当たって、息が止まった。
「道場の床は、平らか」
「……平らです」
「往来は」
答えなかった。
一昨日、自分の汗を踏んで一足泳いだ。
あれは平らな床の上での話だ。
「もう一遍。今度は、崩れんように立て」
十遍やって、七遍落ちた。
落ちるたびに、志乃は何も言わない。
十一遍目で、ようやく足の指が石を掴む感じが分かった。
「よし。降り」
降りると、地面が広く感じた。
「次。後ろ向け」
「……後ろ」
「河を見とけ」
言われた通りに背を向けた。
水の音がする。まだ暗くて、水面は見えない。
「うちが行く。来たら振り向き」
足音を待った。
砂利の上だ。歩けば必ず鳴る。
鳴らなかった。
首の後ろに、手が置かれた。
「今、死んだ」
振り向くと、志乃は一歩下がったところに立っていた。
「……足音が」
「砂利は、踏まんと歩ける。石と石の間に足を置くんや」
見世の廊下と同じだ。
軋む板を避けて歩く。十五年やってきた。
同じことを、人にされる側になっただけだ。
「もう一つ、やる」
志乃は河原の枯枝を二本拾って、一本を私に投げた。
細い。振れば折れる太さだ。
「打ってこい」
「……本気で、ですか」
「当たらん。安心し」
半歩詰めて、面に落とした。
志乃は避けなかった。枝で受けもしない。
肩を落として、内へ入ってきた。
打ちは、確かに当たった。
肩に当たって、枝が折れた。
そのまま、腹に枝の先が入っていた。
「……当てました」
「当てたな。それで、うちは止まったか」
止まっていない。
道場なら一本だ。旗が上がって、二人とも動きを解く。
解くのは、当てた側が先だ。当てた者が勝ったと思うからだ。
先の道場でも、そうだった。
打った後に止まって、突きをもらった。
あれは相手が悪かったのではない。
私が、止まる方の稽古を十八年してきたのだ。
「もう一遍」
今度は、打った後に下がった。
下がったところに、志乃の枝が来ていた。
「下がるんも、解いたうちや」
「……では、どうすれば」
「打ったら、次を打て。それだけや」
簡単なことだった。
簡単なのに、体が十八年逆をやっている。
「道場には、後ろが無い」
志乃は袖を直しながら言った。
「正面から来る。一人ずつ来る。当たったら止まる。負けたら降りる」
「……はい」
「あんたの剣は、その四つが全部あることを当てにしとる」
言い返せなかった。
相手が動いてはじめて成り立つ剣だ。
動いてくれること自体が、約束の上に乗っている。
「約束を守らん相手は、どうしたらいいんですか」
志乃は、初めて少しだけ笑った。
「逃げ」
「……」
「それが一つ目や。覚えとき」
東の空が白み始めていた。
水を汲む刻だ。
✱ ✱ ✱
「次は、堀川や」
源治が渡した紙には、道場の名の下に、もう一行あった。
見慣れない書き方だ。名前ではない。
「これは」
「見せる相手や」
前に言っていた、一番値のつくところ。
「どこかのお屋敷の、人を集めとる方や。名は書かん」
「……人を集める」
「近頃、京は物騒やろ。人が要る家がある」
刀を持てる人間を、金で雇う家。
そういう話は、青菜売りの婆でも知っている。
「食い詰めた浪人が、月に何人も雇われとる」
源治は筆を置いた。
「けどな。数は足りても、腕は足りん」
「腕を、どうやって見るんですか」
「見られへん。それが困っとるとこや」
雇う側は、目の前の男が強いかどうかを判じられない。
判じられないから、道場の名で買う。どこそこの門下だ、免許持ちだ、と。
「そこへ、道場を四つ潰した十五の小僧を見せる」
「……まだ二つです」
「三日後で三つや。四つ目は、その後でええ」
私を、売るんですか、と言いかけた。
言う前に、勘定が先に立った。
「見せて、何になるんですか」
「あんさんの値が、道場の名より高うなる」
源治は扇子を開かなかった。
「そうなったら、掛けの判が変わる。町の見物やない。銭を持っとる家が掛ける」
雇われるつもりは無い。
雇われれば、身元が要る。身元が要れば、そこで終わる。
だが、雇いたいと思わせるところまでは要る。
欲しがられて、断る。
断り続けるほど、値は上がる。
「……断っても、いいんですか」
「断ってくれんと困る。うちの銭づるが消える」
初めて、この人と利が揃った気がした。
揃っている間だけの話だ、とも思った。
「いつです」
「三日後の朝」
紙を畳んで、懐に入れた。
三日。
石の上に、あと何遍立てるか。
✱ ✱ ✱
堀川の道を、一度見ておくことにした。
初めての場所で立つより、道を知っておく方がいい。
紙に書かれた道場は、通りから奥へ入ったところにあった。
門は閉まっていた。塀の上から、屋根の形だけが見える。
先の二つより、棟が長い。奥行きがあるということだ。
長い床は、下がる場所がある。
下がる場所があるのは、こちらにとって良いことでもあり、悪いことでもある。
追われれば、追われ続ける。
門の前の道幅も見た。人が集まれば、どこまで塞がるか。
見物が多いほど、逃げ道は減る。
三日後の朝に、ここへ来る。
来て、勝つ。
昼を過ぎた通りは、人が少なかった。
米屋の前で、荷車が半分道を塞いでいる。
その向こうで、声が上がった。
怒鳴り声ではない。
短く、一度きりの声だった。
荷車を回り込むと、人が二人立っていた。
一人は米屋の前掛けをした男で、もう一人は、腰に大小を差していた。
荷車の陰に、天秤棒を担いだ振売りがしゃがんでいた。
出るに出られなくなったらしい。
「何か、あったんですか」
小声で聞くと、振売りは首を振った。
「知らん。米屋はんが表を掃いてはっただけや」
「掃いていただけで」
「箒の先が、あのお方の裾に触ったとか触らんとか。……そんな話や」
そんな話で、鞘に手が掛かるのか。
掛かるのだ。
理由の大きさと、抜くか抜かないかは、この人の中で釣り合っていない。
浪人風だ。だが、二日前に見たあの浪人とは、立ち方が違う。
肩が張っていない。
足も揃っていない。半身ですらない。
構えていないのだ。
構えなくても済むと思っている。
米屋の男が、何か言った。声が震えていて、聞き取れない。
浪人が、鞘に手を掛けた。
──抜く。
体が半歩、前に出ていた。
出てから、自分に得物が無いことを思い出した。
木刀は見世の床下だ。今は下女の形で、手には何も無い。
浪人の目が、こちらを向いた。
米屋を見ていた目と、同じ目だった。
区別が無い。
道場の師範は、私を見て侮りを消した。
この男は、消すも何も、初めから量っていない。
止まる理由が、この人には無い。
逃げ。
志乃の声が、はっきり聞こえた気がした。
足は、動かなかった。
米屋の男が、まだそこに立っているからだ。
「……お侍さん」
自分の声が出た。
下女の声だった。高くて、細い。
「そこ、荷車が出ますさかい。危のうおますえ」
出鱈目だった。荷車は動いていない。
浪人が、荷車の方を見た。
見た。
その半瞬に、米屋の男が後ろへ二歩下がって、店の中へ入った。
戸が閉まる音がした。
浪人の手が、鞘から離れた。
離れて、こちらへ向き直る。
「小娘」
「へえ」
「荷車は、動いておらんな」
「……へえ」
二歩の距離だった。
木刀があっても、この距離では抜けない。
抜く前に、向こうが届く。
浪人は、しばらく私を見ていた。
それから、鼻で笑った。
「……気の利く女子だ」
そのまま、堀川の方へ歩いていった。
足音は、砂を踏んでいた。
普通に踏んでいた。
姿が見えなくなってから、膝が鳴った。
米屋の戸は、閉まったままだった。
うまく言えた、と思っていた。
言えていない。
荷車が動いていないことは、あの人にも見えていた。
見えていて、聞いた。聞いて、笑った。
面白がられたから、生きている。
面白がられなければ、二歩の距離だった。
私が何かをしたのではない。
あの人が、しなかっただけだ。
逃げ。
一つ目の教えを、私は今日、守らなかった。
守らずに済んだのは、運だった。
三日後は、運の要らない場所に立つ。
そう思うことにして、水桶を取りに戻った。




