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第六話 払う手立て


一両二分は、袂に入れたままだと音がする。

歩くたび、金と金が触れる。

紙に包んで、さらに手拭いで巻いて、ようやく黙った。


女中部屋は、六人が寝る。

自分の物を置く場所は、枕の下と、行李の中しかない。

どちらも、誰かが手を入れる。

飯炊き婆の行李から櫛が消えたのは、去年の秋だ。

誰が取ったかは分からないままで、しばらく皆が皆を見ていた。


夜、皆が寝てから、床板を一枚外した。

軋む板は、どこが軋むか十五年で覚えている。

覚えているのは、踏まないためだった。

女将の部屋の前を通るとき、どこを踏めば音がしないか。

同じことを、逆に使う。


はじめに選んだ一枚は、外れなかった。

釘が効いている。爪を差し込んだだけで、指の腹が裂けた。

道場でできた傷の、まだ塞がりきらない側だった。


二枚目は、端が浮いていた。

指を入れて持ち上げると、思ったより軽く外れる。

下は土だ。冷たい。

包みを落とした。


そのとき、隣で誰かが寝返りを打った。

板を持ったまま、動かずにいた。

寝息が戻るまで、たぶん十を数えるくらい。

長かった。


板を戻して、上に自分の夜具を敷く。

これで、寝ている間だけは私の物だ。


翌朝、帳場の前で足が止まった。

番頭が算盤を弾いている。奥に、あの帳面がある。

おりん、二十五両。

一両二分を出せば、二十三両二分になる。


袂に、手が入っていた。

入れた覚えは無い。

紙の包みに指が触れて、そこで止まった。


出したら、どこで手に入れたと聞かれる。

答えられない。

答えられない金を持っている下女は、この見世では一つしか呼び名が無い。

盗人だ。

去年の櫛一本で、あれだけ長く見合っていた。

一両二分なら、櫛どころではない。

町方に渡されて、そこで終わりだ。

身請けの前に、身が消える。


手を、袂から出した。


「おりん。何しとる」

「……へえ、今」


水桶を抱え直して、廊下を通り過ぎた。

背中で、算盤の音が続いている。

あの音の中に、私の名前と数字がある。


床下の包みは、増えていく。

増えるほど、見つかったときが重くなる。

自由を買う金が、そのまま首を絞める縄になっている。


十七回勝つ算段は、ついた。

勝った金を渡す算段が、まるでついていない。


✱ ✱ ✱


「払えん、いう話やな」


一通り話すと、源治は筆を置いた。

驚いた顔はしなかった。


「そら払えん。十五の下女が二十五両出したら、出したこと自体が事件や」

「……初めから、分かっていたんですか」

「知ってた」

「なぜ言わなかったんです」

「聞かれてへんかったからな」


土間の紙の山が、昨日より低い。今朝の分が売れたのだ。


「ええか。見世の女が外に出る道は、二つしかない」


源治は指を二本立てた。


「年季が明けるか、身請けされるか」


年季。

おりんの十五年が、すぐに数字を出した。

八つで売られて、証文は十年。

十八の年に明ける。あと三年だ。


三年、と口に出しかけて、やめた。

明けるのは下女の年季だ。

その前に座敷に上がれば、そこで新しい証文を書く。

上がるのは、たいてい十七。早い子は十六。

私は今、十五だ。

三年ではない。二年もない。


番頭の、言いかけてやめた言葉が、そこに嵌まった。

──おりんも、あと二年もすれば。


「顔色が悪いな」

「……年季が、二年ないと気づきました」

「気づくのが遅い」


源治は算えるまでもないという顔をした。

見世の女の歳勘定は、この街の商人なら誰でも持っている。


「身請けは、本人が払うもんやない。誰かが払うもんや」

「……誰か」

「商人がええな。目に留まった、いうことにする」


十五の下女が二十五両を持っていた、という話は誰も信じない。

商人が下女を見初めて金を出した、という話は、この街に毎月ある。

同じ金が動くのに、後の話だけが通る。


「その商人は」

「目の前におるやろ」


扇子が、開かなかった。

値の話ではない、ということだ。


「あんさんが稼いだ銭を、うちが預かる。溜まったら、うちが見世に払う」


理屈は、通っている。

床下に隠すより安全で、出所も問われない。

通っているのに、返事が出なかった。


身請けされた女は、どこへ行くのか。

見世の帳面から名が消えて、別の家の帳面に載る。

帳面が変わるだけだ。


「……その後、私はどうなるんですか」


源治は、少し黙った。


「そら、身請けした者の家に入る」

「入って、何をするんですか」

「……」

「源治さん」

「聞き方が悪い」


源治は筆を取り直した。


「うちが払うんは、名目や。中身は、あんさんが自分で払うた銭や」

「名目でも、帳面には源治さんの名が載ります」

「載る」

「その帳面を、あとで誰が読むんですか」


筆が、止まった。


読むのは、私ではない。

十年後、二十年後に、その紙を開いた誰かが見るのは、商人の名と、買われた女の名だ。

私が毎朝汲んだ水も、削った木刀も、そこには載らない。


「……名目が、いつまでも名目のままでいる保証は」

「無い」


即答だった。

嘘をつかないところが、この人の一番始末に悪いところだ。


「今のあんさんに、他の手があるか。それを先に数えなはれ」


無い。

無いから、来た。

だが、無いから受けるのと、有ると分かって選ぶのとは違う。


「……考えます」

「考え。急がん」


急がないわけがない。

座敷に上がる歳は、待ってくれない。


✱ ✱ ✱


戸口を出ようとしたところで、奥の暖簾が揺れた。

女が一人、出てきた。


歳は五十に近い。着物は地味だが、襟の合わせが妙にきれいだった。

素人の合わせ方ではない。


「志乃や」


源治が奥から言った。


「あんさんに付ける」

「……付ける」

「女子が男の形で外を歩くんや。一人で歩かすほど、うちも安うない」


志乃と呼ばれた女は、私を上から下まで見た。

見る順番が、決まっている。

足元。腰。手。喉。

最後に顎で止まって、そこで少し目を細めた。


「線、入れたな」

「……へえ」

「暑い日に汗で流れる。今日は保ったけど、夏は保たん」


言い方に、迷いが無かった。


「志乃さんは──」

「元は島原や。あんたと同じ見世やない。三軒向こう」


三軒向こうの見世の名は、知っている。

朝、水を汲むときに前を通る。


「……いつ、出られたんですか」

「二十二の年に」

「身請けで」

「いや」


志乃は暖簾の紐を巻きながら、こちらを見なかった。


「自分で払うた」


足が、止まった。


「……どうやって」

「その話は、まだ早い」

「早くありません」


自分の声が、思ったより大きかった。

奥で、源治の筆が止まったのが分かった。


「私には、その話しか要りません」


志乃は、こちらを見なかった。

草履の鼻緒に指を通して、位置を直している。


「聞いてどうする」

「同じようにします」

「同じようにできる話やったら、皆やっとる」


鼻緒から指が抜けた。


「うちが出るのに、七年かかった」


七年。

私には、二年もない。


「……七年」

「今のあんたの顔が、その答えや」


志乃はようやくこちらを向いた。


「間に合わん道を先に聞いたら、間に合う道が見えんようになる」


言い返す言葉が、出てこなかった。


志乃は暖簾をくぐり直して、土間に降りてきた。

草履を履く動作が、こちらより速い。


「先に一つ、聞いとく」

「……はい」

「あんた、これまで何人と立ち合うた」

「二人です」

「そのうち、あんたを殺す気やった者は」


答えようとして、口が止まった。

一人目は、当てる気で振っていた。

当てる気と、殺す気は、同じなのか。

分からない。

分からない、ということが答えだった。


志乃は、うなずきもしなかった。


「ほな、まだ二人とも稽古や」

「……二人とも、本気でした」

「本気と、殺す気は違う」


志乃は土間の隅から箒を取って、刷り屑を寄せ始めた。

話しながら手が動いている。こちらを見る気は無いらしい。


「道場で負けた者は、どうなる」

「……面目を失います」

「そや。失うだけや」


箒が、止まった。


「失うだけで済む相手は、途中で剣を止める。止められる余裕があるから、止める」


止まった半瞬。

先の道場で、私が審判を待って動きを解いたあの瞬間、あの男は突きを出した。

止めなかった。

だが、あれは私が隙を見せたからだ。

見せなければ、出さなかった。

つまり、あの人は選べる側にいた。


「選べん相手が、いるということですか」


箒が、また動き出した。


「ようやく一つ、ましな問いになった」

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