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第五話 勝ち方



四日、間が空いた。

手のひらの皮が張るまで待て、と源治が言ったからだ。

その四日で、水は毎朝汲んだ。

釣瓶の縄が傷に当たるたび、四日が長くなった。


五日目の暁、店の土間には刷り上がったばかりの紙が積まれていた。

墨がまだ乾いていない。


「今日の相手や」


源治が、紙とは別の一枚を寄越した。

道場の名と、場所と、師範の名が書いてある。

四条から一本入った通り。門人四十人。

先の道場の倍だ。


「二つ、言うとく」


源治は扇子を開かなかった。開かないときは、値の話ではない。


「一つ。早う終わらすな」

「……早く終わらせては、いけないんですか」

「木戸銭を取る。取って一合で終わったら、次から誰も出さん」


木戸銭。見物から取るのか。


「二つ。あの抜きは使うな」


これには、すぐ答えられなかった。

抜かずに勝てる相手なら抜かない。抜かねば勝てぬ相手だから、抜いた。

抜かないというのは、負けても抜かないということだ。

門人四十人の道場で、負けたらどうなるか。

先の道場で、膝をついた師範代を誰も見なかった。

膝をつくのが私になるだけだ。

そのくらいで済めば、まだいい。


「……勝てなかったら」

「そのときは抜き。けど、抜いたら今日で終いや」


源治は積んだ紙の山を、掌で軽く叩いた。


「手の内を全部見せた剣士に、次の場は立たん。見た者が、皆その手を知ってしもてるからな」


売れるのは、まだ知られていないものだ。

私の一番強い手が、一番売れる。

だから、今日は出せない。


道理は分かる。

分かるのと、四十人の前で丸腰で立つのとは、別の話だった。


「勝ちますよ」


言ってから、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。

源治は、初めて扇子を開いた。


「そう言うと思たわ」

「へえ」


今度は、直さなかった。


✱ ✱ ✱


門の外に、人が溜まっていた。

三十人はいる。饅頭売りまで来ている。

源治の店の若い衆が二人、笠を伏せて銭を集めていた。

一昨日まで、私はあの人垣の側にいた。


門をくぐると、内はもっと多かった。

壁三方に門人が並んで、上座に師範。

四十を超えているだろう。


「東雲流、凛之助と申す」


顎に線を入れてきた。喉にも。

誰も、囁かなかった。


立ったのは、師範代ではなく師範だった。

歳は四十半ば。構えは中段。竹刀の先が、動かない。

先の道場の師範代とは、まるで違う。

あの人は当てに来た。この人は、待っている。


待つ者どうしだ。

厄介だった。

私の剣は、相手が動いてはじめて成り立つ。

動かない相手の前では、何も持っていないのと同じだ。


半歩、前に出た。

出て、右の肩をわずかに落とす。

面が空く。空いて見える。

師範は、来なかった。

見えているのだ。餌だと分かって、食わない。


肩を戻して、もう半歩。

今度は、右足を少しだけ深く置いた。

深く置けば、引き足が遅れる。逃げ場が減る。

それは餌ではない。本当に不利になる置き方だ。


竹刀の先が、動いた。


来た。


面。速い。だが、待っていた面だ。

擦り上げて、返す。

小手を狙って──届かない。

半寸、短い。

樫の木刀は、私が削ったものより重い。重い分、返しが遅れる。

慣れていない得物だ。


離れる。師範も追わない。

門人の列から、息を吐く音がした。


二合目。今度は胴に来た。

外して、また届かない。


三合目は、擦り上げずに抜いてみた。

体を捌いて、空を打たせる。空を打った腕は、戻すのに間がかかる。

その間に入ろうとして、半歩で止めた。

入れば、届く。届くが、そこで終わる。


早う終わらすな。


四合目は、わざと遅れて外した。

竹刀の先が、袖を掠める。

外で、声が上がった。

当たったと思ったのだ。当たっていない。

木戸銭を出した者は、際どいものが見たい。

そういうものだと、一昨日まで人垣の側にいた私が一番よく知っている。


五合目。六合目。

外せる。当たらない。だが、打てない。

腕の疲れが、先に来た。

重い得物を、外すたびに引き戻している。


八合目で、初めて胴を狙って出た。

止められた。竹刀の腹で、軽く。

軽く止められるのが、一番堪える。

こちらの打ちが、その程度だということだ。


十合を超えたあたりで、息が上がり始めた。

早く終わらせられないのではない。終わらせる手が、無い。

帯の木刀は、抜けば届く。

抜いたら、今日で終いや。


十三合目、面を外したところで、板を踏み損ねた。

汗だ。床に落ちた自分の汗を、自分で踏んだ。

一足、泳ぐ。

そこへ突きが来た。

見えていた。見えていて、体が半拍遅れた。

首をひねって、耳の横を通す。

髷の元結が、切れた。


外の人垣が、静かになっていた。

静かなのは、見ているからだ。

髪が落ちれば、終わる。

首の後ろで、束が緩んでいくのが分かった。


十五合。


師範の踏み込みが、半足浅くなった。

こちらが打ち返してこないので、深く入る必要がないと判じたのだ。

正しい判断だった。

そして、私が待っていた判断だった。


浅く入る面は、伸びきる。

伸びきった先は、戻らない。


十六合目の面を、擦り上げずに──体ごと内へ入った。

重い木刀を振らない。押し当てる。


胴。


肉を打つ音は、板を打つ音より低い。

師範が、二歩下がった。

竹刀は落とさなかった。落とさないまま、床に片膝をついた。


道場は、しばらく誰も動かなかった。

外で、人垣が割れる音がした。


木刀を下ろすと、右の二の腕が震えていた。

打たれてはいない。一度も。

それでも、四日休んだ体が、十六合で終わっている。


握りを確かめた。

筋は、入っていない。


✱ ✱ ✱


日が高くなってから、店に戻った。

土間に、笠が二つ伏せて置いてある。

中は、銭で埋まっていた。

若い衆が、それを木の枡で掬っては数えている。


「木戸銭が、三十二人分」


源治が帳面をめくった。


「掛けが、五十四口」

「掛け」

「どっちが勝つかや。銭を出して、当てた者が取る」

「……それは、賭場では」

「賭場や」


源治は帳面から目を上げなかった。


「町方が来たら、うちが叱られる。あんさんは剣を振っただけや」


帳面には、二列に数が並んでいた。

道場に賭けた口が、四十一。私に賭けた口が、十三。


「みんな、道場に賭けたんですか」

「そら賭ける。四十人の道場と、名も知らん十五の小僧や」

「なら、私に賭けた十三人は」

「四十一人分を、十三人で分ける」


その数字が、頭の中で並び替わった。

私が勝つと思われないほど、私に賭けた者は儲かる。

そして、私が勝ち続ければ、思われるようになる。

思われるようになった日から、この列は逆になる。


「……いつまで、こんなに付くんですか」

「三、四回やな」


源治は筆の尻で、私に賭けた側の列を叩いた。


「そやから、そこまでに名を上げる。上がってしもたら、こっちの列は痩せる」

「痩せたら、どうするんですか」

「もっと強い相手を出す」


帳面の二列を、もう一度見た。

四十一と、十三。

三、四回。


「源治さん。私も、掛けられますか」


筆が、止まった。


「……ほう」

「今なら、一番付きます」

「一両出したら、いくら戻る思てる」

「三両ほど」

「その三両、どこから出てくる」


答えられなかった。

源治は帳面を回して、私の方へ向けた。


「掛けの銭は、うちが出すんやない。負けた側が出すんや」


四十一人が出した銭を、十三人で分ける。

三両は、私が負けると思った四十一人の懐から出る。


「ほな聞くけどな」


源治が筆の尻で、四十一の列を叩いた。


「あんさんが自分に掛けた、いう話が広まったら。この四十一人は、次も出すか」


出さない。

勝つ側の本人が銭を出したなら、それは見物人にとって答えを教えられたのと同じだ。

答えの分かっている勝負に、誰も銭を出さない。


「四十一人が出さんかったら、十三人が分ける銭も無い」

「……寺銭も」

「無い。あんさんの三分の一も、三分の一の無しや」


一両出して、三両。

その代わりに、この先の場が全部消える。

十七回で払い終わるはずの数字が、一回で止まる。


「……掛けません」

「そう言うと思たわ」


源治は帳面を戻して、また筆を動かし始めた。


「銭を稼ぐ側と、銭を賭ける側は、同じ座敷におったらあかん。それだけの話や」


数字が並んでいく。

道場が積んだ賭け金は、半両。

木戸銭と、掛けの寺銭を合わせると、その倍を超えていた。


「あんさんの取り分は、賭け金の半両と、掛けの寺銭の三分の一」

「……三分の一も」

「一番強いんはあんさんやからな。強い者に少のう払うと、他所へ行かれる」


紙に書いて渡された数字を、二度読んだ。

一両と、二分。

先の道場の、二倍半だ。


四十九回。

その数が、頭の中で崩れた。

一両二分ずつなら、十七回。

判が大きくなれば、もっと減る。

一生かけても払えない額が、年内の数字になった。


「顔に出とるで」

「……何がです」

「勘定や。剣より正直や」


袖の中で、一分金を四枚数えた。

一枚を、抜いた。


「源治さん。近くに、薬種屋はありますか」

「手か」

「……いえ」


手はもう塞がっている。要るのは膏薬ではない。

洗った手拭いに、血の跡が薄く残っていた。何度濯いでも落ちなかった。

同じものを、返しに買う。

一枚では釣りが来る。釣りが来る買い物を、初めてする。


源治は何も聞かずに、扇子で戸口の方を指した。


「二軒隣や。──ああ、それと」


帳面を閉じる音がした。


「次の場、決まった」

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