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第四話 半両


上段が、来る。

肩でも肘でもない。踵が先に動いた。

そこから振り下ろしまでの間が、この人の癖だ。

長い。


左手を締めた。

痺れの残る手だ。握りの感覚が、半分しかない。

帯が木刀を噛んでいる。鞘なら滑る分を、布が食い止める。

その抵抗ごと、引き抜いた。

抜きながら、右手が柄を拾う。

抜く動きが、そのまま斬る線になる。

それが東雲流だ。


線は、下から来た。

振り下ろされる竹刀の内側を、掬い上げるように擦る。

力で止めるのではない。行き先を、半寸だけ変える。

かち上がった竹刀の下に、両の小手が残った。


打った。


ごつ、と鈍い音がした。

竹刀が床に落ちて、二度跳ねた。

師範代が、両手を胸の前で抱えた。

声は出ていない。息だけが、短く漏れた。

膝が、床についた。


道場は静かなままだった。


私は木刀を下ろした。

下ろして、そこで手が止まった。

指が開かない。

見ると、握りの下から血が回っていた。

痺れた手で締めたから、力の加減ができていなかった。

帯の抵抗を、そのまま手のひらで受けたのだ。

皮が一枚、持っていかれている。


一本ずつ指を外して、右手に持ち替えた。

そのとき、指の腹に引っかかるものがあった。

握りより少し上。手を回して、同じところを撫でる。

爪が入る。

削りすぎた辺りだ。昨夜、先を軽くしようとして薄くしたところ。

そこに、筋が一本入っている。

木は、割れる前に必ずここで鳴る。

一度打っただけで、これだ。

次に真っ向から受けたら、折れる。折れた木は、握っている手も切る。


勝ったのに、明日の分が無い。


痛みは、まだ遠い。

遠いうちに、しまわなければいけない。

明日も釣瓶を引く手だ。

木刀を帯に戻すとき、袖の内で血がついた。


「……見事」


正面から声がした。

いつの間にか、白髪の男が立っていた。この道場の主だ。

門人が一斉に膝を正した。それで分かった。


「その抜き、どこで習った」

「一人伝えゆえ」

「答えになっておらんな」

「へえ」


出てしまった。

下女の返事だ。

慌てて息を継ぐ。


「……重ねて、ご容赦を」


道場の主は、それ以上聞かなかった。

代わりに、倒れた師範代の手を取って、指を一本ずつ開かせている。

折れてはいない。腫れるだけだ。

打った側が言えることではないので、黙っていた。


三方の白紙が、私の前に運ばれてきた。

一昨日、門の外から見たものと同じ紙で、同じ金だ。

あのときは、人垣の後ろだった。


痺れの残る左手で取った。

思っていたより、小さい。

親指の爪ほどの金が二枚で、下女の給金の半年分だ。

軽い。

これが重ければ、まだ諦めもつく。


袖に入れて、一礼した。

床板を踏んで戻るとき、門人の誰も目を合わせなかった。

一昨日、膝をついた浪人を誰も見なかったのと、同じ顔だった。


門を出た。

背中で、竹刀の音が戻り始めた。

今日の稽古は、続くらしい。


✱ ✱ ✱


外の光がきつかった。

角を二つ折れて、路地に入る。

手拭いを出して、手のひらに巻いた。

昨夜あやめさんが置いていったものだ。今日で血がつく。


ほんまに勝ってしもた。

半両。二十五両まで、あと四十九回。

四十九回、この木刀は保たない。


背後で、扇子の鳴る音がした。

振り向いた。

道場の入口の脇にいた、商人風の男だった。

にこにこと笑っている。走ってきた様子はない。

先回りしていたのだ。


「ええもん見せてもろた」

「……何か」


男は扇子を閉じて、その先で私の袖を指した。

血の染みが、布に広がり始めている。


「その手」


隠す前に、言われた。


「売る気はないか」

「……何のことか、分かりかねます」

「そら分からんふりもするわな」


男は扇子を開いて、自分の顔を半分隠した。

声だけが、少し低くなる。


「あんさん、歩くとき爪先が内へ入る」


足が、止まった。


「道場の中では出えへんかった。ようできてる。ただ、勝った後に一遍だけ出た」


朝から今まで、直し続けていたものだった。

門を出た後のことまでは、考えていなかった。


「……人違いです」

「かまへんかまへん。人違いでええ」


扇子が閉じた。


「けどな、あんさん。それが知れたら値が落ちる思てるやろ」


思っている。

知れた日が、終わる日だ。


「逆や」


男は歩き出した。ついてこい、とも言わない。

半歩迷って、ついていった。

この木刀では、次が無い。


✱ ✱ ✱


連れて行かれたのは、二条を上がった先の、間口の狭い店だった。

奥から、紙と墨の匂いがする。

土間に、刷り上がった紙が山になっていた。

一枚取って見ると、絵と字だ。

大水で橋が落ちた話。名の知れた侍の噂。どこの店の娘が別嬪か。

字は大きく、絵は荒い。読めん者でも、絵だけで話が分かるように刷ってある。


瓦版だ。


「源治や」


男は上がり框に腰を下ろして、扇子で自分の店を指した。


「噂を刷って売る商売や」

「……売れるんですか。こんな紙が」

「売れる。一枚で蕎麦一杯より安い。安いから、みんな買う」


源治は山から一枚抜いて、こちらに広げてみせた。


「刷って、辻で読む。読んで、聞いた者に売る。字が読めん者ほど、よう買う」

「読み上げる人がいるんですか」

「読むんが商売の半分や。同じ紙でも、読み手が下手やと売れん」


扇子で、紙の隅を叩く。


「そやから、面白い話ほど高う売れる。面白い話が無い日は──」

「……無い日は」

「作る」


言い方が、値を言うときと同じだった。


「嘘は書かん。嘘書いたら、次から誰も買わん。作るんは、話やない。場や」


場を作って、そこで起きたことを刷る。

それなら嘘にはならない。


「今日のあんさんの立ち合い、明日には刷れる」


背筋が冷えた。

刷られたら、島原まで届く。

半年に一遍、見世の女中部屋にも回ってくる。飯炊き婆が、絵を見て笑っていた。


「刷らん」


こちらの顔を見て、先に言った。


「一遍で使い切る噂は、安い噂や。あんさんは、まだ寝かせる」


源治は立ち上がって、奥から風呂敷包みを三つ持ってきた。

一つ目を解くと、着物と袴だった。

私が着ているものより、丈が短い。

袖も細い。繕った跡は、どこにも無い。


「今のは、あんさんの背に合うてへん。余った丈を帯に押し込んで、腰が太うなっとる」


言われて、初めて気づいた。

腰を太くしていたのは、隠すのに都合がよかったからだ。

都合がよすぎて、男の腰ではなくなっていた。


二つ目は、木刀だった。

持った瞬間に、分かる。

重い。だが、先が重いのではない。手元から先まで、均されている。

樫だ。私が削ったのは、天秤棒の松だった。

握って、胴を打つ形でゆっくり振った。

止まる。止めたいところで、止まる。


「……いくらですか」

「二分」


半両の、半分だ。

今日の稼ぎの半分が、この一本で消える。


「三つ目も見てから決め」


三つ目の包みは、小さかった。

解くと、白粉と、刷毛と、細い筆と、名の知らない小瓶がいくつか。

女の道具だ。


「これは──」

「顎の線と、喉や」


源治は自分の喉を、扇子の先で軽く叩いた。


「あんさんの顔は、丸い。丸い顔は、遠目で女に見える」

「……道場では、誰も」

「今日は誰も本気で見てへんかったからや。二遍目からは見る」


奥から手鏡を持ってきて、私の前に置いた。

小瓶の一つを開けて、指の先に取る。

灰色がかった、薄い墨のようなものだった。


「顎の下。骨の際に沿うて、細う」


言われた通りに、鏡を見ながら入れた。

指が震えて、線が太くなる。拭って、もう一度。

三度目で、細く入った。

鏡の中の顎が、少しだけ角ばった。

同じものを、喉の両脇に。

首の真ん中に、無いはずの骨が浮いた。


咲の顔でもない。おりんの顔でもない。

凛之助が、そこにいた。


女に見えないための、女の道具。

手のひらの手拭いが、じくじくと湿ってきていた。


「三つで、二分二朱」

「……ずいぶん安い」

「安い」


源治は扇子を開いた。


「その代わり、次からは、うちが場を決める」

「場を決める、というのは」

「どこの道場と、いつやるか。銭をいくら積むか。誰に見せるか」

「……見せる相手も、決めるんですか」

「そこが一番の値や」


扇子が閉じた。


「あんさんは勝つだけでええ。勝ち方も、こっちで言う」

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