第三話 凛之助
物置の裏は、月も届かなかった。
折れた天秤棒を膝に挟んで、小刀を当てる。
昼のうちに研いでおいた刃だ。厨の包丁を研ぐついでに、一本だけ余計に研いだ。
音を立てないよう、押さずに引いて削る。
見世の者はみな寝ている。起きているのは、まだ帰らない客と、その客を送る姉女郎だけだ。
長さは、ちょうどよかった。
木刀は三尺三寸ほど。天秤棒の折れた側を落とすと、それに近い長さが残る。
問題は、重さだ。
握って、振ってみる。
先が重い。振り抜いた後で、切っ先が泳ぐ。
竹刀の重さなら、覚えている。初めて握った一本から、審査の日の一本まで。
その重さと、今の手の中が合わない。
削る。振る。まだ重い。
途中で一度、削りすぎた。
先が軽くなりすぎて、今度は振りが走る。走る得物は、止めたいところで止まらない。
削ったものは、戻らない。
反対側を落として、全体を短くした。三尺には足りない。
短い分、間合いが半歩近くなる。近い間合いは、外して待つ剣には向かない。
向かないが、これしかない。
四半刻ほど繰り返して、ようやく先が止まるようになった。
胴を打つ形で、ゆっくり振ってみる。
細い。手のひらに当たる面が、竹刀より細い。
これで真っ向から受ければ、折れるのはこちらだ。
受けなければいい。もともと、受ける剣ではない。
明日も水を汲む。汲んでから、これを持って出る。
眠る間が、どこにも無い。
「──何してんの」
声は、すぐ後ろだった。
あやめさんが立っていた。片手に燭台、片手に草履。裸足で出てきたらしい。
隠す間もなかった。
燭台の火が、削りかけの棒と、散らばった屑を照らす。
「厠に行こ思たら、裏で音がするやん。鼠にしては下手やなあ思て」
「……起こしてしもて」
「ええけど」
あやめさんが、燭台を少し下げた。火が私の手元に寄る。
「男はんか」
「は?」
「夜中に一人で何や拵えてる女子は、たいてい男はんやで」
違います、と言いかけて、やめた。
違うと言えば、では何かと聞かれる。
嘘をつくより、黙って誤解されるほうが安い。
「あやめさん。男物の着物、この見世にありますやろか」
あやめさんの眉が、片方だけ上がった。
「……あんた、そこまでするんか」
「一枚でええんです」
しばらく、火の音だけがした。
「番頭はんが、質流れの古着を蔵に積んどる。年に一遍、まとめて売りに出す分や」
「数えてはりますか」
「男物なんぞ、女将さんは値も知らんわ」
そこで一度、言葉が切れた。
「けどな、おりん」
「あの蔵の着物はな、みんな、誰かが困って手放したもんや」
「……へえ」
「一枚持って行くのはええ。持って行った先で困るのは、あかん」
袂から手拭いを出して、私の膝の上に置いた。
「顔は隠しときや。京は狭いさかい」
「うちは何も聞いてへん。あんたも何も言うてへん」
草履を持ち直して、あやめさんは行ってしまった。
膝の手拭いは、洗い立ての匂いがした。
✱ ✱ ✱
蔵の古着は、思ったより傷んでいなかった。
一番下の一枚を抜いた。上の山が崩れないように、そっと引く。
袖に、繕った跡があった。糸の色が合っていない。
急いで繕った跡だ。誰かが、これを着ていた。
丈が余る分を帯の下に押し込んで、袴の紐を締める。
腰の位置が、下女の帯とはまるで違う。低い。
低いところで締めると、歩き方まで変わる。
歩幅を大きく取って、井戸端まで往復してみた。
膝から先が、まだ女のままだ。爪先が内へ入る。
外へ開いて、もう一度歩く。
髪は後ろで一つに束ねた。結い方は、おりんの十五年に無い。咲の側が知っている。
井戸の水面に映して、確かめる。
十五の男には、見える。
近くで見られたら終わりだが、道場の床は近くで見る場所ではない。
名前が要る。
おりんの凛を、そのまま貰う。
凛之助。
口の中で二度言って、三度目は声に出した。
流派は、東雲流と名乗るしかない。
咲が習ったのがそれで、私が知っている剣がそれだけだからだ。
戸田流の傍系。伝えでは、幕末の京に彗星のように現れた流派だという。
始祖は名を残していない。系譜も、それ以前が無い。
……幕末の京。
つまり、今だ。
現れる直前なのか、もう現れた後なのか。
どこかに本物の始祖がいて、その耳に「東雲流」と入ったら。
あかん。考えたら足が止まる。
他に名乗れる流派が無い以上、これで行くしかない。
裏木戸から出て、朝市の立つ通りを避けて歩いた。
湯屋の前で、隠居らしい二人が話している。
「先月の浪人な、あれ、まだ寝込んどるらしいで」
「そら手加減せんかったからやろ。あの道場、受けたからには潰すつもりで打つ」
「そのくせ、また受けるんやろ」
「受けるわ。受けんかったら、勝った意味が無うなる」
「門人も増えたそうやないか」
「そら増える。勝った道場に子を入れとうなるのが親心や」
聞きたかったのは、それだけだった。
町屋の並びの、突き当たり。
門の前に立つと、内から竹刀の音がした。
手拭いを、顔から下ろした。
木刀の位置を、帯の上で一度だけ直す。
私は、門を叩いた。
✱ ✱ ✱
道場の床板は、よく磨かれていた。
朝の光が高窓から斜めに差して、板目を白く光らせている。
汗と、竹刀の油の匂い。
壁際には門人が二十人ばかり、膝を揃えて並んでいた。誰も口を利かない。
正面の三方に一分金が二枚、白紙の上に載っている。今日の賭け金だ。
入口の脇には、扇子を提げた商人風の男がひとり。にこにこと笑って、勝負だけを見ている。
「東雲流、凛之助と申す」
名乗ると、向かいの師範代が竹刀を提げたまま薄く笑った。
背は私より頭ひとつ高い。肩の厚みは倍近い。
「聞かぬ流派だな」
「一人伝えゆえ」
「ほう。……小僧、歳は」
「十五」
門人の列が、かすかに揺れた。
女ではないか、と誰かが囁く。
囁きは笑いにならなかった。師範代が構えたからだ。
中段。基本に忠実な、いい構えだった。
──来る。
先に動いたのは向こうだった。
床を蹴る音。面への振り下ろし。速い。だが、見える。
半歩引いて、外す。
竹刀の先が、鼻先の空気を裂いた。
返す刀で胴。これも外す。
打ち込みが二つ、三つ。私はまだ一度も打ち返していない。
受けない。外すだけだ。受ければ力比べになり、力比べになれば負ける。
「どうした、道場破り。逃げるだけか」
逃げるのとは、違う。待っているのだ。
振り下ろしの終わり、突きの伸びきった先。人の技には、どうしても隙間ができる。
私の流儀は、その隙間に入る。
売られた挑発は、買わない。
壁際の門人たちが、ざわつき始めた。
当たらないたびに、道場の面目が削れていく。
五本目は袈裟がけだった。竹刀でも、当たれば骨にひびが入る振りだ。
外してから、分かった。
この男、当てる気で振っている。稽古の剣ではない。
六本目。面と見せて、小手に変化した。
いい変化だ。並の相手なら、それで仕舞いだろう。
──そこ。
変化の瞬間、竹刀の軌道がわずかに緩む。
緩んだ線を擦り上げて、空いた小手を打った。
打った。確かに打った。試合なら一本。旗が三本上がる打ちだ。
男の手は、竹刀を離さなかった。
──落ちない。
道理だった。
私の打ちは正しい。ただ、この腕は十五の水汲みの腕だ。
人の握りから得物を叩き落とすには、正しさの他に力が要る。
頭は五段。体は下女。
分かっていたはずのことを、相手の目の色に教えられる。
目から、侮りが消えていた。
そして私は、打った後に止まっていた。
一本の後は動きを解いて、審判の声を待つ。十八年、そう稽古してきた。
ここに、審判はいない。
止まった半瞬を、男は見逃さなかった。
二の太刀は突きだった。
見える。見えて、竹刀の胴で受けた。
受けた瞬間、腕ごと持っていかれた。
体重の差だ。芯で受けても、軽い方が滑る。それだけの話だ。
半歩、後ろへ。踵が羽目板に触れる。
壁際。下がる場所は、もうない。
受けた左腕が、まだ痺れている。
試合なら場外だ。仕切り直して、礼をして、また中央から始まる。
ここでは誰も止めない。
師範代が竹刀を引き、ゆっくりと上段へ上げた。
遊びは終いだ、という構えだった。
道場の空気が変わる。門人の誰かが、唾を呑んだ。
入口の脇で、扇子の音が止まった。
竹刀では、あの上段は受けられない。受ければ、折れるのは腕の方だ。
私は半身になった。
右手の竹刀を捨て──帯の木刀に、左手を掛ける。
まだ抜かない。
抜くのは、向こうが来てからだ。




