第二話 会津様が通る
使いに出たのは、目が覚めてから四日目の朝だった。
「呉服屋に届けて、受け取りをもろてくるだけや。ええな、寄り道せんと」
「へえ」
番頭に持たされた風呂敷を抱えて、大門を出る。
昼の島原の大門は、夜の顔を知らなければただの古い門だ。
外の風が、湯と白粉の匂いを剥がしていった。
剥がされて初めて、自分がその匂いの中で四日間暮らしていたことに気づく。
京都の道は、知っている。
知っているつもりだった。
修学旅行で歩いた道。推し巡礼で歩いた道。土産物屋で抹茶の何かを買って食べながら歩いた道。
その道を今、風呂敷を抱えて、使いっ走りで歩いている。
観光で来た街に、住み込みで働くことになるとは。
──なんでやねん。
通りには朝市の声が満ちていた。
青菜が一束いくら、と婆が張り上げている。
その値が高いのか安いのか、咲には分からない。おりんには分かる。今年は、少し高い。
「おりんちゃんやないか。お使いか」
「へえ、旦那さんのお言いつけで」
「呉服屋さんか。ほな橋の方は通りなや。朝から浪人さんが揉めてはったで」
「……へえ。気ぃつけます」
「ほんまやで。近頃は昼日中から刃傷や。ほれ、持っていき」
青菜売りの婆が、しなびた菜を一把、風呂敷の上に載せてくれた。
断る前に、もう次の客に向いている。
おりんの十五年は、この婆に七年分の顔を知られている。
名前も、素性も、使いの行き先まで。
──下手なことは、できない街だ。
米の値も上がっている、と店先の話し声が言った。
不作の年でもないのに上がるのは、世の中の方が荒れているからだ。
京のど真ん中で、浪人が刀を差して歩き、物の値だけが先に走る。
そういう年に、私は来たらしい。
呉服屋の用は、すぐに済んだ。
受け取りの紙を懐に入れて、来た道を戻る。
その途中だった。
行く手の人波が、割れた。
天秤棒の男が道の端に寄る。笠の女が頭を下げる。
「会津様の、お通りやわ」
誰かが小さく言った。
揃いの羽織の列が、通りの真ん中を歩いてくる。
二列、二十人余り。腰に大小。足音が、揃っている。
「守護職様のとこの」
「ようけ歩いてはるなあ、近頃」
「あの人らが来てから、辻斬りは減ったそうやけど」
「その分、揉め事は増えたて言うで。どっちがええんやか」
前の方で、囁きが交わされる。
迷惑がるでもなく、有難がるでもない。天気の話をする声だった。
物見高い子供が一人、列に沿って走って、母親に襟首を掴まれた。
羽織の胸に、葵の紋。
──会津。
本の中の名前だった。
展示ケースの向こうの名前で、慰霊碑の上の名前で、年表パネルの中の名前だった。
その名前が、土埃を立てて歩いている。
草鞋の音。革具の軋み。列の中の、誰かの咳。
先頭の男は日に灼けていて、二人目は若く、三人目は歩きながら顎の汗を拭った。
一人ずつ、顔がある。
生きて、歩いている。
読んだ本の頁数なら言える。歩いた資料館の順路も言える。
その全部が、この列の誰の役にも立たない知識のまま、胸の奥で音を立てた。
風呂敷の結び目を、握り直した。
いつの間にか、緩むほど強く抱え込んでいた。
列が過ぎて、通りの音が戻ってくる。
朝市の声。荷車の軋み。
人波はもう、何事もなかったように流れ始めている。
私だけが、まだ足を止めていた。
荷を抱え直して、歩き出す。
足は帰り道を歩いているのに、頭はまだ、あの列の後ろをついて歩いていた。
今が何年か、考えるまでもなかった。
文久三年。おりんの十五年が、暦を覚えている。
その上に、咲の年表が重なる。
会津が朝敵の汚名を着せられ、鶴ヶ城が落ちるのは──慶応四年。
指を折るまでもない。
あと五年。
✱ ✱ ✱
帰り道、路地の角に人だかりができていた。
町屋の並びに、道場の門。門の内から、竹刀の音が漏れてくる。
「道場破りやて」
「ほう。看板賭けか」
「いや、金賭けや。一分金の二枚やと」
前の男二人が、首を伸ばしながら言い合っている。
「ここ、先月も道場破りを受けたやろ」
「受けて、勝ちはった。そやから余計に断れん」
「勝ったのに、断れんのか」
「あほ。一遍受けて勝った道場が、次を断ってみい。──勝ち逃げや言われるで」
「怖なった、てか」
「そや。元から受けん道場は、格式で通る。一遍受けた道場に、その逃げ道はもう無い」
半両で、命懸けの見世物。木戸銭は要らない。
京の往来で、これより安い娯楽もない。
見物人は増える一方で、饅頭売りまで来ている。
商売の早さだけは、時代が変わっても変わらないらしい。
人垣の後ろに立つと、門の隙間から中が見えた。
浪人風の男と、道場の門弟が向かい合っている。
見えるのは、足と、肩の線だけだ。
それで、十分だった。
「浪人はん、なかなかの構えやで」
「いやいや、道場の方が上や。賭けてもええ」
前の二人は呑気に品定めをしている。
見ている場所が、私とは違う。
二人は刀を見ている。私は、足を見ている。
「浪人はん、押してるやないか」
「そや、勢いはあっちや」
勢いは、確かに浪人にある。
だから、負ける。
浪人の右足が、遠い。
気合の声は立派だ。肩も張っている。
その全部が、飾りだ。
踏み込む前に、爪先が開く。打ち筋が、打つ前に割れている。
道場の門弟の方は、静かだった。摺り足が畳の目に沿って、音を立てない。
三合と保たない──そう読んだ。
実際は、二合だった。
一合目、浪人の袈裟がけが空を切る。
二合目、伸びた腕の先で小手を抜かれ、返す刀で面を取られた。
乾いた音が、門の外まで届いた。
浪人が、膝をつく。
人垣が、どっと沸いた。
拍手をする者までいる。膝をついた男の方は、誰も見ていない。
浪人は、長いこと動かなかった。
やがて立ち上がり、土間の刀を拾って腰に戻し、一礼して門を出てきた。
人垣が割れて、道を空ける。目を合わせる者はいない。
すれ違うとき、男の手の甲が見えた。
竹刀の痕が、赤く腫れ始めていた。
読み通りだった。
嬉しくは、ない。
あの浪人の剣は、悪くなかった。悪くなくて、あれで落ちる。この街の、道場の門弟の段階で。
散っていく人垣の間を、半両の白紙が門の内へ運ばれていく。
片手で持てる紙の上の、一分金二枚。
あれが半両。人が命を張って、半両。
二十五両、という数字が、頭の隅を掠めた。
帳面の、自分の名前の横の数字だ。
あの白紙が、五十枚。
掠めて、消えなかった。
それにしても、と思う。
命懸けの立ち合いが、朝の無料興行やん。
物騒で、豪気で、たくましい街だ。
──いや。
無料なのは、見物だけだ。
勝った側の懐には、半両が入った。
あの門弟に、私は勝てる。
足を見れば分かる。摺り足は綺麗だが、あの程度なら、道場の外にいくらでもいる。
勝てる、と分かってしまった。
分かってしまってから、二十五両は別の数字になった。
一生かけても払えない額から、五十回勝てば消える額に。
帰り道の足が、いつの間にか速くなっていた。
頭の中で、算盤が鳴っている。
一勝、半両。五十勝、二十五両。
足りない物を、指を折って数える。
男の名前。男の形。それらしい流派の名乗り。
最後に──木刀が、一本。
蔵の裏の物置に、折れた天秤棒があったのを思い出した。
長さは、ちょうどいい。
今夜、削ろう。




