第一話 道場破りと、水汲みの朝
道場の床板は、よく磨かれていた。
朝の光が高窓から斜めに差して、板目を白く光らせている。
汗と、竹刀の油の匂い。
壁際には門人が二十人ばかり、膝を揃えて並んでいた。誰も口を利かない。
正面の三方に一分金が二枚、白紙の上に載っている。今日の賭け金だ。
入口の脇には、扇子を提げた商人風の男がひとり。にこにこと笑って、勝負だけを見ている。
「東雲流、凛之助と申す」
名乗ると、向かいの師範代が竹刀を提げたまま薄く笑った。
背は私より頭ひとつ高い。肩の厚みは倍近い。
「聞かぬ流派だな」
「一人伝えゆえ」
「ほう。……小僧、歳は」
「十五」
門人の列が、かすかに揺れた。
女ではないか、と誰かが囁く。
囁きは笑いにならなかった。師範代が構えたからだ。
中段。基本に忠実な、いい構えだった。
──来る。
先に動いたのは向こうだった。
床を蹴る音。面への振り下ろし。速い。だが、見える。
半歩引いて、外す。
竹刀の先が、鼻先の空気を裂いた。
返す刀で胴。これも外す。
打ち込みが二つ、三つ。私はまだ一度も打ち返していない。
受けない。外すだけだ。受ければ力比べになり、力比べになれば負ける。
「どうした、道場破り。逃げるだけか」
逃げるのとは、違う。
待っているのだ。
振り下ろしの終わり、突きの伸びきった先。人の技には、どうしても隙間ができる。私の流儀は、その隙間に入る。
売られた挑発は、買わない。
壁際の門人たちが、ざわつき始めた。
当たらないたびに、道場の面目が削れていく。
五本目は袈裟がけだった。竹刀でも、当たれば骨にひびが入る振りだ。
外してから、分かった。
この男、当てる気で振っている。稽古の剣ではない。
六本目。面と見せて、小手に変化した。
いい変化だ。並の相手なら、それで仕舞いだろう。
──そこ。
変化の瞬間、竹刀の軌道がわずかに緩む。
緩んだ線を擦り上げて、空いた小手を打った。
打った。
確かに打った。試合なら一本。旗が三本上がる打ちだ。
男の手は、竹刀を離さなかった。
──落ちない。
道理だった。
私の打ちは正しい。ただ、この腕は十五の水汲みの腕だ。人の握りから得物を叩き落とすには、正しさの他に力が要る。
頭は五段。体は下女。
分かっていたはずのことを、相手の目の色に教えられる。
目から、侮りが消えていた。
そして私は、打った後に止まっていた。
一本の後は動きを解いて、審判の声を待つ。十八年、そう稽古してきた。
ここに、審判はいない。
止まった半瞬を、男は見逃さなかった。
二の太刀は突きだった。
見える。見えて、竹刀の胴で受けた。
受けた瞬間、腕ごと持っていかれた。
体重の差だ。芯で受けても、軽い方が滑る。それだけの話だ。
半歩、後ろへ。踵が羽目板に触れる。
壁際。下がる場所は、もうない。
受けた左腕が、まだ痺れている。
試合なら場外だ。仕切り直して、礼をして、また中央から始まる。
ここでは誰も止めない。
師範代が竹刀を引き、ゆっくりと上段へ上げた。
遊びは終いだ、という構えだった。
道場の空気が変わる。門人の誰かが、唾を呑んだ。
入口の脇で、扇子の音が止まった。
竹刀では、あの上段は受けられない。受ければ、折れるのは腕の方だ。
私は半身になった。
右手の竹刀を捨て──帯の木刀に、左手を掛ける。
まだ抜かない。
抜くのは、向こうが来てからだ。
✱ ✱ ✱
──それより、ひと月あまり前。
夜明け前の井戸端は、まだ夜の色をしていた。
釣瓶の縄が手の甲を擦って、皮の裂ける痛みが走った。
その痛みが合図だったように、覚えのない記憶が流れ込んできた。
牧野咲。二十六。大阪生まれの、大阪育ち。剣道五段。
段位審査の帰り、雨の交差点──記憶は、そこで切れている。
手が、勝手に動いていた。
縄を手繰り、桶を引き上げ、水瓶に空ける。指図した覚えのない指が、朝の仕事を続けていく。
二杯目の桶で、縄の結び目が緩んでいるのに気づいた。
結び直そうとして、指が迷いなく動いた。
見たこともない結び方だった。
なのに、覚えている。
習ったのは八つの冬、この井戸端でだ。指がかじかんで、何度もほどけて、婆やに笑われながら覚えた。
それから何百回も、この縄を結んできた。凍る朝も、桜の朝も。
おりん。十五。この見世の下女。
八つで売られてきた日の、握り飯の味まで思い出せる。
水瓶が満ちた。
足取りに迷いはなかった。次の仕事も、その次も、思い出せる。
空が白み始めて、屋根の連なりの向こうに山の稜線が見えた。
見覚えがあった。修学旅行で一度、剣道の遠征で一度、あとの三度は──史跡巡りだ。
……京都やん。
死んだらしい、ということより、そっちに膝の力が抜けた。
大阪の人間が、よりにもよって。
なんで京都やねん。
それも、ただの京都ではなかった。
島原──京の、花街だ。見世の名は鈴乃屋。
誰に聞くより先に、おりんの十五年が教えてくれる。
島原、という名前に、咲の側の記憶の抽斗が開きかけた。
──閉じた。水が先だ。
台所は、もう湯気と煙で白かった。
竈の前の飯炊き婆が、振り向きもせずに言う。
「水、まだかいな」
「へえ、ただいま」
返事は、考えるより先に出た。声も、抑揚も、おりんのものだった。
軋む板の場所。女将の部屋の前では、足音を殺すこと。
おりんの十五年が道を作り、咲の二十六年が、初めて見る顔で通っていく。
廊下に出ると、白粉と昨夜の酒の匂いがした。
向こうから来た姉女郎が、私の前で足を止める。
あやめさんだった。この見世で一番の売れっ妓で、おりんが一番世話になっている人。
「おりん。あんた、今朝はえらい別嬪な顔してるなあ」
「……へえ?」
「熱でもあるんか」
違います、と言う前に、額に手を当てられた。白粉の匂いが近くなる。
「ないなあ。ほな、ええ夢でも見たんやろ」
袖に、何かを押し込まれた。懐紙に包んだ焼き餅が、まだ温かい。
「朝は冷えるさかい。誰にも言わんとき」
それだけ言って、衣擦れの音が遠ざかっていった。
今朝の私は、そんなに顔が違うのか。
……気をつけよう。
帳場の前で、番頭に呼び止められた。
部屋の奥から、算盤を弾く音が続いている。
「おりん。これを奥へ」
綴じた帳面を渡された。
運びながら、開いた頁が目に入った。
墨の字が、読める。
おりんは仮名しか読めない。昨日までのおりんなら、墨の跡としか見えなかったはずだ。
咲の二十六年が重なって、字が、字として読めてしまう。
女の名が並んでいる。名の横に、数字。
その中に、自分の名があった。
──おりん。二十五両。
二十五両。いくらだ。
時給に直したら、いくらやねん。
一両が今の十万だか三十万だか、本で読んだ数字はあるが、思い出しても腹の足しにならない。
換算は、あきらめた。代わりに、おりんの記憶が答えを出す。
一両あれば、部屋を借りて米を食って、ふた月は生きられる。
下女の給金は、年に一両にも届かない。
つまりこの名前の横の数字は、この体の値段で、一生かけても払い終わらない額だった。
帳面を奥へ届けて戻ると、番頭が算盤の手を止めて、私を見た。
「おりんも、あと二年もすれば──」
言いかけて、やめた。
算盤の音だけが、また続いた。




