第九話 ふた月
腹の左が、まだ黄色い。
四日目で紫から青になって、七日目で黄色になった。
押すと痛む。押さなければ、もう痛まない。
痛みが引いたのは、いいことではなかった。
引いてしまえば、忘れる。
あの一撃で息が止まったのは、竹刀が速かったからではない。
受ける腹が、無かったからだ。
咲の体なら、あの程度で止まらなかった。
稽古で胴を打たれる。突きを外し損ねて喉輪に入る。年に何度もあった。
痛いが、息は続いた。
続いたのは、続くだけのものを毎日積んでいたからだ。
十八年、当たり前にやっていたことを、私は一つも持っていない。
そして、この体に無いものが何かは、私が一番よく知っている。
腹。腕。持ちこたえる息。
問題は、道具も場所も刻限も無いことだった。
夜は道場に出る。昼は水を汲む。
その間に、体を作る刻が無い。
──いや。
無いのではない。
水を汲んでいる。桶を運んでいる。洗い物を絞っている。廊下を拭いている。
一日中、何かを持ち上げて、運んで、下ろしている。
それだけやっていて、腹が薄い。
薄い理由も、考えれば分かった。
桶は肩で担ぐ。天秤棒は骨に乗せる。絞るときは体重をかける。
力を使わない置き方を、この体は勝手に選ぶ。
十五年、そう覚えてきたからだ。
そうしなければ、一日が終わらない。
つまり、この体は毎日「楽をする稽古」をしている。
逆をやればいい。
その日から、肩に担ぐのをやめた。
桶を腕で提げて運ぶ。
三往復で腕が上がらなくなって、四往復目は途中で置いた。
置いてから、また持ち上げた。
飯炊き婆に、遅いと言われた。
洗い物は、体重をかけずに絞る。腕だけで絞る。
廊下は、膝をつかずに拭く。腰を落として、腹で支える。
一間拭いて、太腿が鳴った。
数は、頭の中で数えた。
紙に書きたかった。書けば残る。残れば比べられる。
下女が字を書いていたら、それだけで話になる。
床下の板の裏に、爪で線を引くことにした。
一日一本。五本で一つ束ねる。
──五日目。
桶を腕で提げて、三往復。
初日と同じだ。増えていない。
減っていないだけ良いと思うことにした。
──十日目。
四往復。
廊下は二間まで、膝をつかずに拭けた。
腹に力が入っている感じが、初めて分かった。
──二十日目。
飯炊き婆が、何も言わなくなった。
腹の左の黄色は、その頃に消えた。
押しても、痛まない。
✱ ✱ ✱
暁の河原で、志乃にその話をした。
数のことは言わなかった。数え方まで言うと、説明が要る。
「桶を、わざと重う持っとるんか」
「はい」
「なんで重う持ったら腹がつくと分かる」
答えられなかった。
十八年やってきたからだ、とは言えない。
「……そういうものだと、聞いたことが」
「誰に」
「一人伝えゆえ」
志乃は、それ以上聞かなかった。
聞かないだけで、納得した顔でもなかった。
「腹はええ。作れる者は作ったらええ」
志乃は河原にしゃがんで、水に手を入れた。
「うちが教えるんは、そこやない」
「はい」
「腹の左、打たれたやろ。あの日、どないした」
「……そのまま帰りました」
「湯には」
「入りました。冷えていたので」
「あかん」
はっきりした言い方だった。
「打たれた日は、温めたらあかん。中で血が回っとる。回っとるとこを温めたら、広がるだけや」
咲も、同じことを知っていた。
打った日は冷やす。冷やして、腫れが止まってから温める。
知っていて、この体で実行する手段が無かった。
氷は無い。夏場に氷を持っている家は、この街に何軒あるか。
「……冷やすものが、無かったので」
「川がある」
志乃が、水に入れた手を上げた。
まだ夜の水だ。指が赤くなっている。
「手拭いを浸して、当てて、ぬるうなったらまた浸す。それだけや」
そんなことだった。
知識が無かったのではない。
この街で何を使えばそれが出来るのかを、知らなかっただけだ。
「次に打たれたら、まっすぐここへ来い」
「……はい」
「腹に入っても、もう息は止まらんか」
「分かりません」
「そや。それは打たれてみんと分からん」
東の空が白み始めていた。
水を汲む刻だ。
✱ ✱ ✱
「おりん。奥へ」
番頭に呼ばれたのは、水を汲み終わってすぐだった。
奥座敷には、女将さんがいた。
畳に、三味線と、白粉の箱が出してある。
「座り」
座った。
「おりん、幾つになった」
「十五で」
「そう」
女将さんは、それだけ言って白粉の箱を開けた。
話は、それで終わっていた。
十五。次は十六だ。
十六で座敷に上がるとき、何が起きるかは知っている。
新しい証文を書く。
衣装代、髪結い代、部屋代。上がるための支度に、金がかかる。
その金は見世が出して、名前の横の数字に足される。
二十五両が、二十五両のままでいるのは今だけだ。
去年上がった姉さんは、上がった日に八両増えた。
八両。今の私の稼ぎで、五回か六回だ。
稼いでいるつもりでいて、追いつかれる勘定になっている。
源治が言ったのと、同じ勘定をこの人もしている。
違うのは、こちらの勘定には私の都合が入らないことだ。
「背筋」
伸ばした。
「伸ばしすぎ。それは武家の娘や」
肩の力を、少し抜かされた。
「手は、膝の上。指は揃えんでええ。揃えると固い」
言われた通りに置くと、自分の手が知らない手に見えた。
「顔、上げ」
刷毛が来た。
白粉が、顎の下から首へ入っていく。
線を消す方向だった。
十日前、同じところに灰色を入れた。骨を出すためだった。
今度は、その骨を埋める。
同じ場所に、逆のものを塗っている。
「おりんは、顎が丸いさかい楽やわ」
女将さんが言った。
源治は同じことを、丸いから困ると言った。
同じ顎で、二人が反対のことを言う。
どちらも、私の都合ではない。
「三味線は、明日から婆やが教える」
「……へえ」
「返事は、もう少し低う。高い返事は下女の返事や」
低く出す稽古なら、してきた。
道場で毎回やっている。
「……へえ」
「そう。それでええ」
褒められた。
褒められたことが、この日一番落ち着かなかった。
✱ ✱ ✱
裏の井戸端で洗い物をしていると、足音が二つ来た。
一つは軽くて、一つはもっと軽い。
「おりーん」
あやめさんだった。
後ろに、すみがくっついている。
あやめさんの禿だ。今年で十。私の半分ほどしか背が無い。
「おりん姉さん、これ」
すみが両手を出した。
掌に、飴が二つ乗っている。
「お客はんが姉さんにくれはってん。ほんで、あやめ姉さんが半分くれはってん」
「半分やないやろ。三つのうち二つやったやろ」
「二つは半分やもん」
「その勘定は誰に習うたんや」
すみは答えずに、飴を一つ口に入れた。
残った一つを、私に押しつける。
「姉さんも」
受け取った。
濡れた手で受け取ったので、飴がすぐに溶け始めた。
すみが、洗い桶を覗き込んだ。
覗き込んで、そのまま袖を水に落とした。
「すみ」
「濡れてへん」
「肘まで濡れとるやろ」
「ここは、もともと濡れとった」
あやめさんが、袖を絞りながら言った。
「この子な、嘘は下手やけど言い張るのは上手いねん」
「言い張ってへん」
「今のが言い張っとるんや」
すみは口を尖らせて、私の隣にしゃがんだ。
しゃがんで、洗い物を一つ取った。
「手伝う」
「ええから」
「手伝う」
椀を一つ渡すと、すみはそれを両手で持って、いつまでも同じところを擦っていた。
擦りながら、こちらを見ている。
手伝いに来たのではない。
「おりん姉さん」
「なに」
「なんでそんな、しんどい持ち方すんの」
手が、止まりかけた。
「朝な、桶を腕で提げてはったやろ。四つも」
「……見てたん」
「うち、朝は姉さんの後ついて回っとるもん」
知らなかった。
十歳は、こちらが数えていないところで、こちらを数えている。
「肩に載せたらええのに」
すみが椀を置いて、自分の肩を叩いてみせた。
「ここに棒を載せて、こう、骨のとこ。ほんならな、腕がぜんぜん疲れへん」
十歳が教えている。
私が十五年かけて覚えたことを、この子はもう覚えている。
覚えなければ、この子も一日が終わらないからだ。
「知ってる」
「知ってるん?」
「知ってる。楽なんも知ってる」
「ほな、なんでせえへんの」
答えが、出なかった。
腹をつけたいから、と言えない。
なぜ腹をつけたいのかを、続けて聞かれる。
十歳は、納得するまで聞く。
「……姉さん?」
「すみ」
「うん」
「その持ち方な。ずっとやってたら、肩の骨が出てくるねん」
「ほんま?」
「ほんま。うちのは、もう出とる」
嘘ではなかった。
十五年、天秤棒を同じ骨に載せてきた。
出た骨は、もう戻らない。
すみは、自分の肩を触った。
触って、しばらく黙った。
「……ほな、うちも肩に載せへん方がええ?」
答えられなかった。
載せなければ、この子は一日が終わらない。
「おりん、明日から婆やの三味線やて」
あやめさんが井戸の縁に腰を掛けた。
「もう耳に入ってるんですか」
「この見世で、女将さんが箱出したらみんな知るわ」
「……へえ」
「婆やの三味線はな、爪が痛い。あれは音より先に手が仕上がる」
「仕上がる」
「皮が固なる。固なったら、もう戻らん」
あやめさんが自分の指先を、爪で軽く弾いてみせた。
音がしなかった。
「うちのは、もう何も感じん」
すみが、それを見て自分の指を弾いた。
「すみのは痛い」
「そらまだ十やもん」
「あやめ姉さんも十のときは痛かったん?」
あやめさんは、答えなかった。
代わりに、すみの襟を直してやっている。
すみは直されながら、私の方を見ていた。
見ていて、首を傾げた。
「おりん姉さん」
「なに」
「なんで手ぇ拭かへんの」
洗い桶の縁に、手を掛けたままだった。
拭こうとすると、掌の傷が布に引っかかる。
だから、いつも乾くまで待っている。
「冷たいのが好きやから」
「へんなの」
すみは笑って、飴の残りを噛んだ。
「あとな、姉さん、歩き方も変わった」
飴を、口の中で転がしていた手が止まった。
「変わった?」
「うん。前はもっとちゃかちゃか歩いてはった」
「今は」
「今は、おっきい」
十歳の言葉だった。
十歳の言葉が、一番正確だった。
歩幅を広く取る稽古を、毎朝している。
夜のためにやっていることが、昼の体に残っている。
あやめさんが、すみの襟から手を離した。
「すみ。おりんは背が伸びとるんや」
「そうなん?」
「伸びたら歩幅も伸びる。あんたも来年そうなる」
「ほんま?」
「ほんま。ほら、湯の支度」
すみが駆けていった。
井戸端に、二人だけが残った。
あやめさんは、井戸の縁から降りなかった。
「あの子は、まだ半分しか見えてへん」
「……はい」
「半分しか見えてへん子は、見えた分を全部言う」
水面に、暮れかけた空が映っていた。
「うちは何も聞いてへん」
三月前と、同じ言葉だった。
「けどな、おりん」
あやめさんが、井戸の縁から降りた。
「聞いてへんのは、うちだけや」




