第九話 公爵領の聖女さま、降臨です
ヴェリスが去ってから、三週間。
教会は、以前より少しだけ静かになっていた。
――ほんの、少しだけ。
「手紙、来てるぞ」
神父ノアが差し出した封筒を見た瞬間。
ミラの心臓がとくんと跳ねた。
「……!」
見慣れた筆跡。
整っていて、簡潔で。
それなのに、どこかやさしい。
(また……)
胸の奥が、ふわりと浮き立つ。
そっと封を開く。
体調はどうか。
無理はしていないか。
町の様子はどうか。
飾り気のない、短い手紙。
けれど。
その一文一文が、嬉しかった。
(……覚えてくれてる)
(ちゃんと、今でも気にかけてくれてる……)
知らず、頬が緩む。
胸の奥に、小さな灯りがともった。
◇
「最近、前ほど無茶しなくなったな」
ノアがぽつりと言った。
「……そうですか?」
「来る人間も減ったしな」
「そうですね」
以前のように、朝から晩まで患者が押し寄せることはなくなった。
忙しいことに変わりはない。
それでも、ほんの少しだけ。
息をつける時間が増えていた。
「ヴェリスがな」
「え?」
ミラは顔を上げた。
「軽傷で聖女を頼るな。本当に必要な者だけ来るようにしろって、町へ話を通したらしい」
(隊長さま……)
思わず、手紙を持つ指に力が入る。
「命令じゃない。“頼んだ”らしいぞ」
ノアが肩をすくめた。
「……できる男だな」
何気なく落とされた言葉に。
ミラの胸が、じんわりと熱くなる。
(あのときの話……覚えていてくれたんだ)
(ちゃんと、動いてくれてたんだ……)
どうしてこんなにも、胸が温かくなるのだろう。
◇
その日の午後。
教会の空気が、いつもと少し違っていた。
礼拝堂の後ろ。
フードを深く被った女が一人、静かに座っている。
傍には侍女らしき女性。
靴も服も、この町ではまず見ないほど上質だった。
(……町の人じゃなさそう)
女は患者の列に並ぶこともなく。
ただ朝からずっと、そこにいた。
患者を。
治療を。
そして――ミラの一挙手一投足を。
まるで何かを見極めるように。
◇
「お大事にしてくださいね」
最後の患者を見送り、ミラが顔を上げた。
夕暮れの光が、礼拝堂の床を赤く染めている。
そのとき。
女が静かに立ち上がった。
「少し、いいかしら」
落ち着いた声だった。
「はい」
女が歩み寄ってくる。
フードの奥から向けられる視線は、不思議なほど鋭い。
「今日一日、見せてもらったわ」
「……はい?」
「治癒よ」
短く答えた。
「朝からずっと見ていたけれど――」
細い指が、礼拝堂を示す。
「患者は六十人近くいたわね」
「しかも、誰も断わらなかった」
「え?」
「普通の聖女なら、こんな人数を一日で診たりしないわ。身体ももたないもの」
そして。
まっすぐミラを見つめる。
「あなた、やりすぎよ」
唐突だった。
ミラが目を瞬く。
次の瞬間。
女はゆっくりとフードを外した。
◇
息を呑んだ。
光を流すような銀髪。
翡翠色の瞳。
長い手足に、無駄のない立ち姿。
磨き上げられたガラス細工のような美しさだった。
(なにこの人……!?)
思わず見上げる。
視線の高さが違う。
女はミラを見下ろし――
ふっと笑った。
「初めまして」
顎をわずかに上げる。
「アレティス公爵領所属の聖女、ベアトリス・グランシェよ」
空気が、ぴんと張った。
◇
「あっミラです!ミラ・エッセ……」
「えっと……聖女……さま?」
「そうよ」
当然のように頷く。
(本物だ……)
「あなたが噂の子ね」
「噂……?」
少しドキッとする。
ベアトリスは肩をすくめた。
「騎士団第二隊の副隊長から聞いたの」
一瞬だけ、口元が緩む。
「変な聖女がいるって」
(レオンハルトさん!?)
「小さな町の聖女なのに、人が集まりすぎる。しかも騎士団まで長居する」
ベアトリスは礼拝堂を見回した。
それから改めて、ミラを見る。
頭から足元まで。
じっくりと。
「……思ったより普通ね」
「え」
ミラが固まる。
「顔は悪くないわね」
ベアトリスの視線が、ゆっくり下へ落ちる。
「でも……ちょっと小動物っぽいわ」
(今、ちんちくりんを回避してくれた!?)
「もっと傲慢なのかと思った」
「え、えっと……」
ミラは笑顔を死守した。
◇
「まあいいわ」
ベアトリスは軽く息を吐いた。
「王都へ向かう途中で寄っただけよ」
「王都……」
「ええ」
翡翠の瞳が、わずかに細くなる。
「婚活よ」
「……こんかつ?」
「婚・活」
きっぱりと言い切られた。
(堂々としすぎてる……!)
ミラが目を丸くすると、ベアトリスは少し得意げに笑った。
「夜会があるの」
そして。
「本命は、二ヶ月後の聖女選定会。」
その瞬間。
声色が変わった。
「選ばれれば、王族や上位貴族の目に留まる」
「未来が変わるわ」
迷いのない言葉だった。
ミラは思わず息を呑む。
けれど。
「せんていかい?」
きょとん。
ベアトリスが固まった。
「……は?」
「え?」
「知らないの?」
「初めて聞きました」
沈黙。
ベアトリスが侍女を見る。
侍女も困ったように目を伏せた。
「本当に?」
「はい」
「あなた、今まで何してたの?」
「治療を……」
「そうじゃなくて!」
思わず声が大きくなる。
◇
「あなたも来るべきね」
ベアトリスは即座に言った。
「え、私は……」
「そのうち招待が来るわ」
断言だった。
「来ないほうがおかしいもの」
翡翠の瞳が細まる。
「その力で地方に収まっているほうが不自然よ」
「聖女を名乗る者は多いわ」
声が少しだけ低くなる。
「でも、本当に十分な聖力を持っている者は一握りなの」
ミラは言葉に詰まった。
「それにあなた、どうせ平民出でしょ?」
「はい」
「だったら、なおさらよ」
ぴしゃりと言う。
「聖女は数少ない例外なの」
「生まれなんて関係ないわ。下に見られることはあっても、力があれば上へ行ける。」
一瞬だけ。
ベアトリスの瞳に、強い熱が宿った。
「持ってる武器は全部使いなさい」
「使えるのに使わないなんて、馬鹿げてる」
その声音は妙に強かった。
「……」
ミラは黙る。
ベアトリスは小さく鼻を鳴らした。
「身分が低いから無理なんて、馬鹿げてるわ」
一拍。
「掴めるものは、全部掴みにいくの」
◇
「……話を戻すけど」
ベアトリスが小さく息を吐いた。
「さっきの治癒」
「はい」
「やりすぎよ」
空気が静まった。
ミラの指先が、わずかに震える。
「当然、知ってると思うけど」
ベアトリスの声は静かだった。
「聖女の力には限界がある」
「生涯で使える量には限りがある」
「一日に使える量にも限界があるの」
「使いすぎれば、身体にも負担がかかる」
一拍。
「だから、使う相手は選ぶの」
ミラの胸がざわついた。
(知らなかった……)
けれど。
自分の中にある、この力は違う。
魔女の力。
神父は言っていた。
魔女の魔力は、使えば失われるのではなく――増えていくのだと。
(でも……増えていくだけなのかな?)
ミラは黙っていた。
そんなミラを見て。
ベアトリスが眉をひそめる。
「自分がどれだけ無茶してるのか、本当に分かってないようね」
◇
ベアトリスの声が、少しだけ低くなった。
「なんでそこまでやるの」
「感謝されたいから?」
「いいえ?」
「名声?」
「いえ?」
「王都へ出たい?」
「考えたことも……」
「……は?」
本気で意味が分からない。
「だったら、何のためにやってるの?」
ミラは少しだけ首を傾げた。
「私の力でできるなら……」
一度、言葉を探す。
「困っている人を助けたいから。」
沈黙。
「……それだけ?」
「はい」
◇
ベアトリスは、しばらくミラを見つめた。
嘘をついている顔ではない。
取り繕っている顔でもない。
見返りを期待している顔でもない。
ただ、本気だった。
(……意味が分からない)
努力には報酬があるべきだ。
力には価値があるべきだ。
そうやって生きてきた。
(なのに)
目の前の女は。
何も求めていないような顔で笑っている。
(……どうして?)
自分なら、この力を持っていたら。
上へ行くために使う。
けれど、この子は違う。
誰かに評価されるためでもなく。
ただ、目の前の誰かを救うために力を使っている。
(……馬鹿みたい)
平民で。
貧しい暮らしをして。
それなのに。
◇
ミラは、真剣な表情のベアトリスを見つめた。
(この人……)
きつい。
怖い。
けれど。
(……ちゃんと、私を見てくれてる)
言い方はきついけれど。
自分のことを心配してくれている。
(……優しい人なんだ)
「ご心配、ありがとうございます」
ミラは微笑んだ。
◇
「……」
ベアトリスは小さく息を吐いた。
「……言い過ぎたわね」
そして、すぐに付け加える。
「でも撤回はしない」
立ち上がった。
「ああいうの、嫌いなの」
「自分を削るやり方」
ミラへ視線だけを向ける。
「長く続かないものに、価値はないわ」
一拍。
「続かない人間は、結局、誰も救えない」
その声は少しだけ低かった。
「……本当、理解できないわ」
くるりと背を向ける。
「……でも」
一拍。
「嫌いじゃない」
ミラが目を瞬く。
ほんの少しだけ笑う。
「無自覚で無茶する、変な子ね」
(褒められてる……?)
そして。
「感謝しなさい。」
最後に、振り返らないまま。
「王都で会いましょう」
「その時は――」
一瞬だけ、声に熱が乗った。
「ちゃんとした舞台で、あなたの力を見せてちょうだい。」
◇
静寂。
嵐のような時間が過ぎ去った。
(なんだったの……)
本当に。
最後まで勢いに押されっぱなしだった気がする。
けれど。
胸に残っているのは、嫌な感情ではなかった。
(本物の聖女、ベアトリス様……)
頬が、ほんの少し緩んだ。
少しの緊張。
そして。
まだ見たことのない世界への、ほんの少しの興味。
(王都……)
王都なんて、想像もつかない。
聖女選定会も。
夜会も。
自分には縁のない世界だと思っていた。
けれど。
もし行くことになったなら。
もう一度だけ。
あの人にも会えるだろうか。
そう思った瞬間。
胸の奥が、ほんの少し高鳴った。




