第七話 隊長さま、帰る日に約束を残す
目を覚ましたとき、最初に見えたのは見慣れた天井だった。
白い漆喰のひび。
古びた梁。
窓から差し込む朝の光。
「……あれ」
喉が渇いている。
身体は鉛のように重い。
けれど――生きている。
「起きたか」
すぐ横から声がする。
神父ノアが椅子に座り、分厚い本を片手にこちらを見ていた。
「神父さま……?」
「丸三日寝ていた」
「……三日?」
ミラはゆっくり瞬きをする。
「そんなに……」
「無茶をした罰だな」
「罰って言い方ひどくないですか」
「起きてすぐ口が回るなら問題ない」
少しだけ安心したような声音。
ミラは小さく笑う。
そこで、枕元の花瓶に気づいた。
白い花が四輪。
「……これ」
「毎日一本ずつ増えた」
神父は本から目を離さず言う。
「律儀な男だ」
ミラの胸が、どくんと鳴る。
「まさか……」
「合間に立ち寄っていただけだそうだ。鐘より正確だったがな」
「……っ」
熱が一気に顔へ集まる。
(ね、寝てたよね私……!?)
「お前の寝顔が面白かったんだろう」
「神父さま」
「何だ」
「今ちょっと嫌な言い方しました」
「気のせいだ」
絶対違う。
けれど追及する前に、外からざわめきが聞こえた。
馬のいななき。
鎧の音。
人の声。
「……何かあるんですか?」
「騎士団が帰る日だ」
ミラの心臓が、一拍遅れて跳ねた。
胸の奥に、ひとつの名前が浮かぶ。
「今日!?」
「今日だ」
「どうして先に言わないんですか!」
「今言った」
ミラは毛布を跳ねのけて立ち上がる。
盛大によろけた。
「……っ」
視界がぐらりと揺れる。
「……まだ寝てろ」
「寝てられません」
神父はため息をつく。
「顔だけ整えてこい。倒れたら縛る」
「物騒です!」
◇
教会の外は、朝から騒がしかった。
騎士たちが馬を整え、出立の準備をしている。
ミラは扉の陰で深呼吸し、窓ガラスを鏡代わりに髪を整えた。ほんの少しだけ、薄化粧も。
(……三日寝てた顔なんて、見せられない)
(せめて、ちゃんとした姿で)
顔を軽く叩いて、息を整える。
そして外へ出た。
(……いるかな)
探すまでもなかった。
人混みの向こう。
蜂蜜色の金髪。
ヴェリスは部下へ指示を出していた。
無駄のない所作。
隙のない立ち姿。
近寄りがたいはずなのに――
こちらに気づいた瞬間。
その表情が、わずかに崩れた。
「……起きた」
ヴェリスは手綱を預け、人垣を静かに割って歩いてくる。
自然と人が道を空ける。
なぜか少しだけゆっくりに見えた。
「……あ……目が覚めました」
「ええ。ようやく、ですね」
胸が落ち着かない。
「体調は」
「だいぶ良くなりました」
「顔色はまだ悪い」
一歩、距離が詰まる。
だが、それ以上は踏み込まない。
視線だけが、まっすぐ届く。
「……無理は、なさらないでください」
静かな声。
命令でも、叱責でもない。
一拍、置いて。
「……そうしていただけると、安心します」
言い切ってから、ほんのわずかに視線を外した。
(どうしてそんなに優しいの)
「お気にかけてくださりありがとうございます」
「当然です」
迷いがない応えだった。
◇
「毎日、お見舞いに来てくださったと……」
恐る恐る言うと、ヴェリスは一瞬だけ視線を逸らす。
「近くを通ったので」
(本当?)
「花も……」
「花屋があったので」
(え?そうなの??)
真顔。
なんだか少しおかしくて、ミラは笑ってしまう。
するとヴェリスは、じっとこちらを見る。
「……その顔を見られて、安心しました」
ほんのわずかに、息を吐く。
「もう、起きないかと思った」
ぽつりと落ちた本音。
ミラの胸が強く鳴る。
「し、心配をおかけしました」
「ええ。かなり」
短く、正直な返答。
押しつけがましさのない、まっすぐな言葉だった。
◇
出発の合図が響く。
騎士たちが馬へ乗る。
レオンハルトがにやりと笑った。
「隊長、名残惜しいのは分かりますが時間です」
「分かっている」
「三日間通った成果、今こそ見せどころでは?」
「レオン」
「はいはい。あとはご自分でどうぞ」
わざとらしく肩をすくめる。
ミラが困ったように視線を泳がせた、そのとき。
ヴェリスが一歩近づいた。
さっきより、ほんの少しだけ近い距離。
触れそうで、触れない。
それ以上近づくことはせず、ただミラを見つめていた。
(……近い)
息がうまく吸えない。
「……王都へ来ることがあれば、案内します」
「え?」
「美味い店も、安全な道も、静かな場所も知っています」
(もしかして……誘われている?)
視線を合わせ続けられない。
(……そんなはず、ないのに)
「ですから」
一瞬だけ、ヴェリスが言葉を探す。
「王都へ来ることがあれば」
「ぜひ声をかけてください」
そして。
ほんのわずかに間を置いて。
琥珀の瞳が、まっすぐミラを捉えた。
「……元気な姿を見せてください」
「あなたが嫌でなければ」
逃げ道を残すような言葉。
けれど、その視線は逸れない。
(どうして……)
(この人の言葉、こんなに胸に響くんだろう)
「……嫌では、ありません」
気づけば、そう答えていた。
一瞬。
ヴェリスの琥珀の瞳が、わずかにやわらぐ。
春の日差しを溶かしたような、やさしい光だった。
その表情を見た瞬間。
胸の奥が、熱くなる。
理由は分からない。
けれど。
この約束が、確かで無いものでも嬉しかった。
◇
ヴェリスが馬へ向かう。
その背を見ているだけで、胸が妙に寂しい。
(なんで……こんな)
レオンハルトが馬上から声を上げた。
「聖女さま!」
「はい!」
「隊長は分かりづらいですが、かなり真面目な男です!」
「任務以外で同じ場所に通うの、初めて見ました」
「レオン」
「失礼しました!」
町人たちが笑う。
その中で。
ヴェリスだけが、まっすぐミラを見る。
一瞬の沈黙。
そして。
「……また」
短い言葉。
けれど、確かに強い。
ミラは小さく頷いた。
◇
騎士団は土煙とともに町を去っていく。
姿が見えなくなるまで、ミラは動けなかった。
蹄の音が遠ざかり、風だけが残る。
胸の奥に残った熱だけが、消えない。
(また、会えたら……)
◇
「……行ったな」
神父が隣に来る。
「寂しいのか」
「ち、違います」
「顔が分かりやすい」
「神父さま」
「何だ」
「今日ちょっと意地悪です」
「いつもだ」
否定できなかった。
神父は教会へ戻りながら言う。
「昼飯は好きな物食べに行くぞ」
「……はい」
ミラは返事をしながら、もう一度だけ街道の先を見る。
何も見えない。
それでも。
胸の奥に、小さく残る。
“また”という言葉だけが、静かに灯っていた。




