第六話 放っておけない人
翌朝。
教会の空気はどこか落ち着かなかった。
扉を開けた瞬間、ミラは小さく瞬きをした。
「……今日は、また早いのですね」
すでにそこに二つの人影があった。
赤髪の騎士、王国騎士団第二部隊、副隊長レオンハルト。
そして、蜂蜜色の髪の隊長ヴェリス。
扉が開く音に、二人が同時に顔を上げた。
まるで、ずっと待っていたみたいに。
(……また朝から来てる)
(……どうして少し嬉しいんだろう)
「おはようございます、聖女さま」
レオンハルトが朗らかに手を振る。
「見回りのついでですよ」
「……そうなのですね」
(ついで、なんだ……)
ミラはにこりと微笑む。
「おはようございます」
「今、“ついでじゃないですよね?”って思いましたよね」
「え?」
「顔に書いてありました」
「レオン」
低い声が落ちる。
だがレオンハルトは楽しげに笑ったままだ。
「隊長、さすがにバレてますって」
「やめろ」
短く制される。
(何の話だろう……?
それよりとにかくお礼しなきゃ)
「あっ、あのっ。
昨日はありがとうございました。
おかげでゆっくり休めました」
「ですって、隊長」
レオンハルトが片目を閉じる。
ヴェリスはミラへ視線を向け――
ほんのわずかに、目元をやわらげた。
「それは良かった……」
(えっすごく優しい顔、してる……)
胸が、ひとつ跳ねた。
◇
その時。
「魔物だ!」
「街道の方で暴れてる!」
外から悲鳴が上がる。
空気が、一瞬で張り詰めた。
◇
教会の外では、人々が逃げ惑っていた。
小型の魔物が二体、荷車の横で、牙を剥いて暴れていた。
「ここは我々が対処します」
レオンハルトが急ぎ剣に手をかけ走る。
魔物が見えた瞬間、ヴェリスは瞬時に間合いを詰めた。
銀光が走り、片方の魔物が崩れ落ちる。
小さな歓声が上がる。
だが、もう一体いた。
魔物はミラの方へ向かってくる。
「聖女様!」
レオンハルトが咄嗟にミラの前へ出た。
剣を構え、魔物との間に身体を滑り込ませる。
「ここは俺が」
けれど。
ミラは、その横から一歩踏み出した。
「聖女様!」
ヴェリスの声が鋭く響く。
「危険です。下がってください」
「……でも」
苦しい。
魔物から、胸を掻きむしるような感覚が流れ込んでくる。
胸の奥がざわついた。
「あなたの役目ではない」
ヴェリスが前へ出る。
まるで、ミラを庇う盾のように。
(守ってくれてる……)
けれど――
ミラは感じていた。
(でも。この子は)
残された魔物を見つめる。
「大丈夫」
ミラは静かに言い、その横を抜けた。
そしてもう、ミラは魔物へ手をかざしていた。
◇
近づいた瞬間。
魔物の動きが、ぴたりと鈍る。
(……できる)
(なぜか分かる)
胸の奥が軋んだ。
(これ、人と同じ……)
(でも、もっと濃い)
苦しい。
怖い。
飢え。
怒り。
逃げ場のない絶望。
黒い濁流みたいな感情が、一気に流れ込んでくる。
息が詰まりそうになる。
それでも。
「大丈夫……」
(全部、私が引き受ける)
そっと触れる。
瞬間――
魔物の身体から、すっと力が抜けた。
魔物は低く鳴いた。
苦しみを吐き出すみたいに。
やがて身体は淡く暗い光に包まれ、静かに横たわった。
息はある。
深く眠りについているようだった。
(……苦しかったんだね)
「……何をした」
ヴェリスの声が落ちる。
その声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
◇
「鎮って眠った……?」
「今の、何だ……?」
ざわめきの中。
ミラの視界が揺れる。
指先の感覚が薄い。
立っているはずなのに、地面が遠かった。
「あ……」
(苦しい……)
(思ったより、ずっと)
膝が崩れる。
その瞬間。
強い腕が支えた。
「無茶をしすぎです」
ヴェリスだった。
抱き上げるように支えられる。
(また、この腕)
「水を!」
レオンハルトが即座に声を飛ばす。
ヴェリスはミラを支えたまま、低く言った。
「すみません……」
「謝らなくていい」
即座に返ってきた。
「大丈夫です……」
「大丈夫ではありません」
押し殺した焦りが滲んでいた。
◇
「隊長。これ、普通じゃないですね」
レオンハルトが呟く。
「……今の、聖女の術ですか?」
視線がミラへ向く。
だが。
「分からない」
ヴェリスが遮った。
短く、はっきりと。
それ以上、誰にも触れさせないような声だった。
その目は、ずっとミラを見ていた。
◇
「怒ってますか?」
ミラが見上げる。
「怒っていません」
(……でも怖い顔)
「心配しているだけです」
即答だった。
ミラは少し笑う。
すると。
ヴェリスの表情が、わずかにほどけた。
「笑えるなら、良かった」
(…なんでそんなに……)
(この人は、問い詰めない)
(何も聞かない)
(ただ心配してくれる)
胸が締めつけられた。
◇
帰り道。
ヴェリスはミラを抱えたまま歩いていた。
壊れ物を扱うみたいに、静かに、丁寧に。
「隊長、それ業務ですか?」
「そうだ」
「他の奴にやらせたらどうですか? 聖女さま運びたい輩、山ほどいますよ」
図星の騎士たちが一斉によそ見した。
「俺がやる」
即答だった。
「自覚ないの、あなただけですよ」
「レオン」
低く制す。
だが、まったく止めきれていない。
(……何の話なんだろう)
(近い……)
(落ち着かないのに、怖くない)
(むしろ安心するなんて)
ぎゅっと胸の奥が締まった。
◇
教会へ戻る。
「……今度はどこで派手に転んだ」
神父が言う。
「転んでません」
思わず即答する。
「では増やしたのか」
「何をですか」
「厄介事だ」
「増やしてません……!」
「たぶん」
「増えてるな」
「うっ…」
「神父さまは語彙が雑です」
ミラが不満そうに頬を膨らませる。
レオンハルトが吹き出した。
「聖女さま、神父殿には遠慮がないんですね」
ミラが固まる。
ヴェリスがじっと見てくる。
(しまった)
その視線が、気になった。
◇
椅子へゆっくり座らされる。
そして。
ヴェリスの手が離れる、その瞬間。
わずかな沈黙。
「……あなたは」
言いかけて、止まる。
「何ですか?」
「……いえ。ゆっくり休んでください」
琥珀の瞳が、わずかに揺れた。
(絶対、何か言いかけた……!)
◇
夜。
ヴェリスは窓辺に立っていた。
月明かりが静かに差し込む。
(魔物は怯えて気絶したのではない)
(苦しみから解放されたように見えた)
(あれは何だった)
(聖女の力なのか)
(それとも――)
答えは出ない。
ただ。
脳裏に浮かぶのは、魔物ではなく。
倒れそうになりながら笑ったミラの顔だった。
(あれほど苦しそうだったのに)
(なぜ、あんなふうに笑える)
理解できない。
月明かりが、瞳を揺らした。
◇
その頃。
ミラは静かに意識を手放していた。
目を覚ました時、そこにいたのは神父だった。
「いいか」
「お前のやっているのは、普通の治癒じゃない」
「……はい」
「吸収だ。魔女の力だ」
静かに言い切る。
「取り込んだものは溜まる」
指先が、わずかに震えた。
「きついだろ」
「……少しだけ」
「嘘つけ」
即答だった。
神父は小さく息を吐く。
「だがな」
声が少しだけやわらいだ。
「眠るか、笑えば馴染む」
「……はい」
「普通の聖力は使えば減る。お前は増える」
「……増える?」
「魔力としてな」
沈黙。
「器が持てば、だが」
「私はやりたいです」
ミラは言った。
「聖女じゃなくても、人を助けたい」
神父の目が、わずかに細まる。
「……やはり似ているな」
「え?」
「いや、何でもない」
静かに息を吐く。
そして。
「今日もよくやった。休め」
ミラは安心したように目を閉じる。
――そのまま三日間、目を覚まさなかった。




