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第三十話 帰還

 ミラが倒れてから、三日が経っていた。


 王宮北棟の療養室には、薬草の香りが漂っている。


 白い寝台に横たわるミラは、まだ目を覚まさない。


 その傍らで、ヴェリスは侍医の報告に耳を傾けていた。


「命に別状はございません。ただ、身体への負担が大きく、意識が戻る兆しも……」


「ほかに、分かったことは?」


「エリーゼ様をはじめ、聖女候補の方々にも治癒を試みていただきましたが、目立った効果はございませんでした」


「……原因については?」


「申し訳ございません。今のところ、特定するには至っておりません」


「そうか。感謝する。何かあれば、すぐに知らせてほしい」


「かしこまりました」


 侍医が一礼し、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 ヴェリスは寝台の傍らに腰を下ろした。


 いつもの涼やかな顔に、余裕の色はなかった。


 シーツの上に置かれたミラの手に、目を落とす。


 しばらくためらったあと、そっと指先に触れた。


 温もりがある。


 そのことに安堵するように、ヴェリスは彼女の手を包んだ。


 けれど、ミラは目を覚まさない。


 ヴェリスは唇を引き結び、そっとその手をシーツへ戻した。


 この三日間、騎士団の公務をこなしながらも、わずかな時間を見つけてはここへ戻ってきた。


 それでも、ミラは一度も目を覚まさなかった。


 ヴェリスは頬にかかった黒髪を、そっと整えた。


 そのとき、控えめなノックが響いた。


「……失礼します。面会の方がお見えです」


「通してくれ」


 扉が開く。


 黒衣の神父が、静かに入ってきた。


「ノア……!」


 ヴェリスが立ち上がる。


 ノアは軽くうなずくと、寝台へ歩み寄った。


 そして、ミラを見た。


 足が止まる。


 伸ばしかけた手が、ほんの一瞬、ためらうように宙で止まった。


 やがてノアは、ミラの額にそっと触れた。


「……ミラ」


 返事はない。


 ノアの指先が、わずかに止まった。


 頬にかかった髪を払い、優しく梳く。


「……申し訳ありません」


 背後から、ヴェリスの声がした。


「私が、止めるべきでした」


 ノアは振り返らなかった。


「ミラに何があったのかは、聞いている」


 その手が、ミラの髪をそっと撫でる。


「……お前は悪くない」


「ですが……」


「この子は、昔からそういう子だ」


 ノアは眠るミラを見つめた。


「誰かが苦しんでいれば、自分のことは後回しにする。止めても、聞かない」


 声が、わずかに和らぐ。


「困った子だよ」


 もう一度だけ、ミラの髪を撫でた。


「……母親そっくりだ」


「母親……?」


 ヴェリスが聞き返す。


 ノアは答えなかった。


 ただ、眠るミラを見つめていた。


 やがて静かに手を下ろし、扉へ視線を向ける。


「王へ話に行く」


「陛下へ、ですか?」


「ああ」


「正式な謁見には手続きが必要です。今からでは、すぐにはお会いになれないかと……」


「大丈夫だ」


 あまりに迷いのない返答に、ヴェリスは口を開きかけたものの、何も言わずに閉じた。


 ノアは何事もなかったかのように扉へ向かった。


 だが、扉に手を掛ける直前、ふと足を止めた。


「ヴェリス」


「はい」


 ノアが振り返る。


 深い青の瞳が、まっすぐにヴェリスを見つめていた。


「この子を……頼む」


 その声には、先ほどまでの気軽さはなかった。


 ヴェリスは一瞬、言葉を失った。


 その眼差しに、ノアが何を託そうとしているのかを感じ取る。


 ヴェリスは眠るミラへ目を向けた。


 そして、再びノアを見た。


「……必ず、守ります」


 今度は、迷わずにその目を見返した。


 ノアはしばらくヴェリスを見つめていた。


 やがて、わずかに目を細める。


「ああ」


 ノアは扉へ向き直った。


 部屋を出る直前、もう一度だけミラを振り返る。


 そして、静かに扉を閉めた。


 ◇


 王宮中央棟。


 ノアは複雑な回廊を、迷うことなく進んでいた。


 柱の並びも、角を曲がった先に続く廊下も、すべて知り尽くしているかのようだった。


 やがて、王の執務室へ続く扉が見えてくる。


 その前には、護衛騎士たちが立っていた。


「止まれ。ここから先は、陛下の許可なく通すことはできない」


 ノアは足を止めた。


「王へ伝えてくれ。ミラの保護者が来た、と」


「……は?」


「謁見の許可はあるのか」


「ない」


「ならば、通すわけにはいかん」


 騎士の一人が、ノアの前に立ちはだかった。


「お引き取り願おう」


 ノアはわずかに首を傾けた。


「そうか」


 騎士が腕を伸ばす。


 その手が黒衣に触れるより早く、ノアの身体がすっと横へ流れた。


 騎士の手は空を切る。


 同時に、もう一人が退路を塞ごうと踏み込んだ。


 だが、ノアはその動きを見越していたかのように、わずかな隙間へ身を滑り込ませる。


 気づいたときには、二人の背後にいた。


「なっ……!」


 騎士たちが振り返る。


 剣の柄に手を掛けたものの、抜くべきかどうか、一瞬ためらった。


 ノアは二人を振り返りもしなかった。


 ただ、執務室の扉へ向かって歩いていく。


「待て!」


 背後から声が飛ぶ。


 ノアは足を止めず、重厚な扉を押し開けた。


「陛下! 侵入者です!」


 騎士の叫びが室内に響く。


 豪奢な執務室で、ローランド王が顔を上げた。


「何事だ」


「無礼者! その場で止まれ!」


 側近の制止にも、ノアは応じなかった。


 室内をひと目見渡し、ぽつりと口を開く。


「……顔ぶれは変わったな」


 その声を聞いた瞬間、ローランドの手から書類が滑り落ちた。


 紙束が床に散らばる。


 王は、それを拾おうともしなかった。


 ただ、目の前の男を凝視していた。


「……まさか」


 ノアは静かにフードへ手を掛けた。


 布が落ちる。


 伸びた栗色の髪。


 野性味を帯びた顔立ちには、無精髭がよく似合っていた。


 歳月を重ねた面差しは、ローランドの記憶にある姿とは少し違う。


 それでも。


 深い青の瞳だけは、変わらなかった。


 飄々とした雰囲気の中に、穏やかな優しさを感じさせる眼差し。


 ローランドの唇が、かすかに震えた。


 側近の声も、床に散らばった書類も、もう目に入らない。


 ただ、目の前の男から目を離せなかった。


 忘れるはずがなかった。


 けれど、その名をすぐに呼ぶことはできなかった。


 ノアは、ただ静かに王を見つめていた。

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