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第三十一話 お帰り

 ローランドの肩が、小さく震えた。


 何度も、何度も思い描いた顔。


 もう二度と会えないと思っていた。


 それでも、忘れたことなどなかった。


「……兄上」


 小さく呟いた。

 ようやく、声になった言葉だった。


 側近たちがざわめく。


「え……? 今、何と……?」


「兄上……?」


 互いに顔を見合わせる側近たち。


 その中のひとりが、ノアの顔を凝視した。

 まさか。

 そんなはずはない。


 だが、目の前の男には、騎士たちさえ一瞬たじろぐほどの風格があった。


 ローランドは立ち上がったまま、動かなかった。


 死んだと思っていた。

 ずっと。

 あの魔女の森で。


「……生きて、いたのか」


 掠れた声だった。


 それは王の声ではなく、弟の声だった。


「無礼者! 陛下の御前で何者だ!」


 騎士たちが一斉に動き、ノアを取り囲む。


「やめろ!」


 ローランドの鋭い声が飛んだ。


「しかし、陛下――」


「その者に手を出すな」


 有無を言わせぬ声音だった。


 それでも側近たちは困惑を隠せない。


「よく顔を見ろ。この方は――」


 かつての第一王子、アレクシス。

 その名を告げようとした、そのとき。


「私は、死んだままでいい」


 ノアが静かに遮った。


 ローランドの瞳が揺れる。

 この言葉だけで、兄の意思を悟るには十分だった。


「……私は、ノアだ」


 ノアは淡々と告げた。

 そして、側近たちへ視線を向ける。


「聖女ミラの保護者、ノア・エッセだ」


 側近たちの目が一斉にノアへ向いた。


 だが、ノアの深い瞳は、ただローランドだけを見つめていた。


「下がれ」


 ローランドは兄の意を汲み、側近たちに命じた。


「陛下、しかし……」


「危険はない。私が保証する」


 ローランドは側近たちを見渡した。


「この方は、私の大事な客だ。皆、下がれ」


 それ以上、異を唱える者はいなかった。


 やがて、騎士たちがノアを取り囲んでいた輪を解き、側近たちとともに退室していく。


 扉が閉じた。


 静寂が満ちる。


 長い沈黙のあと、ローランドが口を開いた。


「……あの娘は。兄上の……」


 ノアが静かに頷く。


「私が育てた」


 ローランドは息を呑んだ。


「では、あの娘の母親は……あの魔女なのか?」


「ああ。間違いないだろう」


 深紅の瞳。

 そして、あの力。


 すべてが、ひとつにつながった。


「……そう、か。父親は?」


 ローランドは呟いた。


 ノアは、わずかに目を伏せる。


「……父親が誰なのかは、確かなことは言えない。だが、私は森で六年あまり、彼女と共に過ごした」


 少しだけ、間があった。


「いつしか……彼女を愛するようになった」


 それ以上、ノアは語らなかった。


 けれど、その言葉に込められた年月と想いを、ローランドは感じ取った。


 ふと、遠い日の兄の声が蘇る。


 あの魔女の森で、別れを告げた日のこと。


『私は、あの女を放っておけない。ここに残る』


『兄上!』


『一年経っても戻らなければ、私は死んだと思え。そして、お前が王になれ』


『そんなこと、できるわけない!』


『いいか。お前の方が王に向いている。ここは危険だ。今が機会だ。行け!』


 兄はそう言って、ローランドを森から追い出した。


 そして、そのまま帰ってこなかった。


「兄上……森に残って、その姿は……今までどこで何をしていた?」


 聞きたいことは山ほどあった。


 なぜ帰らなかったのか。

 どうやって生きてきたのか。


 そして、なぜ今になって姿を現したのか。


 ノアは、弟の問いを受け止めるように見つめた。


「話せば長くなる」


 いつもの飄々とした声だった。


「いずれ、ゆっくり話す」


 沈黙が落ちた。


 ローランドは俯いた。


「兄上……私は」


 言葉が途切れる。


「私は……何も変えられなかった」


「何のことだ?」


 ローランドは、静かに首を振った。


「あの森で、あの魔女が私たちを助けてくれた。それだけではない。あの魔女は、魔物を抑え、人々を守っていた」

 

 ノアの目が、わずかに細められた。


「その事実を大神官に伝えた。だが、真実を公にすることは許されなかった」


 魔女が人々を守っていた。その事実は、誰にも知らされなかった。


 ローランドは、せめてこれ以上の犠牲が出ないよう、魔女狩りを禁じた。


 だが、人々の恐れや憎しみまで、王の命令で消し去ることはできなかった。


「いいや」


 ノアが静かに遮った。


「お前は、できることをした」


 ローランドは顔を上げた。


「魔女狩りは禁止された。よくやっている。やがて国も少しずつ変わるだろう」


 ノアは穏やかに続けた。


 ローランドは兄を見つめた。


 ただ、自分のしてきたことを兄に認めてほしかったのかもしれない。


「……ありがとう、兄上」


 ようやく、それだけを口にした。


 ノアは軽く肩をすくめた。


「礼を言われるようなことじゃない」


 そして、ふと口を開いた。


「……ひとつ、頼みがある」


 ローランドが顔を上げる。


「ミラを、あの子の母親に会わせたい」


「……母親に?」


「ああ。生きている。魔女の森にいる」


 ローランドは息を呑んだ。


「……なぜ」


 ノアは答えず、静かに弟を見つめた。


「……ミラを、母親に会わせたいんだな。理由は……聞かないでおこう」


「ああ」


 ノアは静かに頷いた。


「魔女の森は危険だ。王の許可と、精鋭を借りたい」


 ローランドは目を伏せた。


 教会が反対するだろう。

 貴族たちも黙ってはいまい。

 聖女を魔女の森へ送り、魔女と会わせる。

 それがどれほど大きな波紋を呼ぶか、王である彼にはわかっていた。


 それでも。


「……必ず力になる」


 ローランドは顔を上げた。


「名目は魔物狩りで構わない。人員も準備も、お前に任せる」

 ノアはそう言って、続けた。


「……ただし、ヴェリスだけは外すな」


 ローランドは一瞬、目を見開いた。


「ヴェリスを?」


「あいつなら、ミラを任せられる」


 ノアの声に迷いはなかった。


 ローランドは、わずかに目を細めた。


「……分かった。可能な限り同行できるよう手配しよう」


「頼むぞ、ローランド」


 いつもの飄々とした声だった。

 まるで、少しばかり面倒な用事を頼んだだけのように。


 ノアが踵を返す。


「待て、兄上!」


 思わず、ローランドは声を上げた。


「客室に泊まっていけ! ……いや、そもそも、今はどこに滞在しているんだ?」


 ノアは振り返り、少しだけ笑った。


「世話にはならんよ」


「だが――」


「まあ、時が来たら、ゆっくり飲もう」


 そう言って、ノアは軽く手を振った。


 まるで、また明日にでも会うかのように。


 扉が開き、ノアの姿が消える。


 やがて、扉が閉じた。


 再び、静寂が訪れる。


 ローランドは、ひとり残された部屋で目を伏せた。


 兄上らしいな。


 ふと、笑みがこぼれた。


 もう二度と、口にすることはないと思っていた言葉。


 次の瞬間、ローランドの青い瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちた。


「……お帰り、兄上」



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