第二十九話 王子様の欲しいもの
聖堂に、静寂が満ちていた。
つい先ほどまで、聖堂を揺るがすほどの咆哮を上げていた魔物。その巨体は石床に横たわり、穏やかな寝息を立てている。
そして、その傍らには、意識を失ったミラを腕に抱きとめるヴェリスの姿があった。
「……何が、起こったんだ?」
誰かが呆然とつぶやいた。
「今の、見たか?」
「紅い光……あれは一体……」
「エリーゼ様たちが力を尽くしても止められなかった魔物を、たった一人で……?」
戸惑いの声が、次第にざわめきへと変わっていく。
あれほど荒れ狂っていた魔物が、今は静かに眠っている。
「すごい……」
感嘆の声が上がった。
けれど、人々の視線はやがて、もう一つの光景に引き寄せられていった。
「……ヴェリス様?」
誰かが、小さく声を漏らす。
王国騎士団第二隊隊長であり、公爵令息でもあるヴェリスが、ミラを抱きとめたまま、じっと彼女の顔を見つめていた。
「ミラ……」
その声は、驚くほど優しかった。
ヴェリスは彼女の頬にかかった黒髪をそっと避け、顔色を確かめる。
返事はない。
彼女の身体から力が抜けていることに気づくと、ヴェリスの眉がかすかに寄った。
「ミラ……聞こえますか?」
いつもの落ち着いた声だった。
けれど、彼女を抱く腕には、わずかに力がこもっていた。
ヴェリスは、もう一度、彼女の顔を覗き込んだ。
「……ミラ」
周囲がどれほど騒がしくなろうと、彼の目には、腕の中の彼女しか映っていなかった。
「ヴェリス様って、あんなお顔をなさるのね……」
「ええ……。あんなお姿、初めて見たわ」
「いったいどういうご関係なのかしら……?」
囁き合う声が、あちこちから聞こえてくる。
憧れの騎士が、自分たちには見せたことのない眼差しを、一人の女性に向けている。
その光景に胸をときめかせる者もいれば、複雑な表情で唇を結ぶ者もいた。
けれど、当の本人は、そんな声など耳に入っていないようだった。
ヴェリスの金に揺れる瞳は、ミラだけを見つめていた。
その姿を見ていたレオンハルトは、額に手を当てた。
(……隊長。これは、もう隠せませんよ)
◇
リディアは、ミラから目を離せずにいた。
驚きは、いつしか強い好奇心へと変わっていた。
(美しい……! あの紅い光は、いったい何なの?)
聖力は、癒やしや浄化、魔物の動きを封じるために使われることが多い。
けれど、あの力は違った。
荒れ狂う魔物を圧倒し、完全に鎮めて眠らせてしまった。
リディアの知る限り、これほどの力を扱えたのは、遠い昔の大聖女くらいだったはずだ。
(いったい、どうやったのかしら……?)
リディアの口元に、笑みが浮かんだ。
(ミラ、あなたは自分の力のことをどこまで知っているの?)
彼女の視線は、ヴェリスの腕の中で眠るミラに注がれたままだった。
◇
一方、エリーゼは、ヴェリスの姿から目を離せずにいた。
(……ヴェリス?)
彼が抱きとめているのは、ミラだった。
意識を失った彼女を、まるで壊れ物のように大切そうに抱いている。
その手つきも、声も、表情も。
エリーゼの知っているヴェリスとは、違っていた。
(どうして……? 私じゃなくて、ミラなの?)
胸の奥が、波立つ。
ヴェリスは優しい人だ。
けれど、自分に向けてくれる眼差しは、ほかの人とは少し違う。エリーゼは、ずっとそう思っていた。
選定会が終わったら、気持ちを伝えよう。
きっとうまくいく。
そう考えるだけで、胸が弾んでいたのに。
今、彼の腕の中にいるのも、あんな眼差しを向けられているのも、自分ではない。
(……まさか、ミラのことが好きなの?)
思い浮かんだ考えを、エリーゼはすぐに打ち消した。
そんなはずはない。
だって、ミラは……。
そこまで考えた瞬間、胸の奥に、どろりとしたものが広がった。
(……私、何を考えているの?)
ミラは友人だ。
助かってよかったと、喜ぶべきなのに。
あんな力を見せたのだ。みんなが驚くのも当然だし、ヴェリスが心配するのも当然なのかもしれない。
そう、わかっている。
わかっているのに。
彼がミラを抱く腕を緩めないことが、どうしようもなく気に入らなかった。
(……ずるいわ)
何も望んでいないような顔をして。
あんな力を見せて、みんなを驚かせて。
そのうえ、ヴェリスにまで、あんな顔をさせるなんて。
エリーゼは唇をきゅっと結んだ。
(……でも、勘違いよ)
そうに決まっている。
(冷静に考えたら、ヴェリスが、ミラを好きになるわけないわ)
自分に言い聞かせるようにして、エリーゼは二人から目を逸らした。
◇
会場で、ひときわ目を輝かせている男がいた。
王太子セドリックである。
「すごいな!」
王族席で、セドリックが弾んだ声を上げた。
「あの力を見たか、クラウス?」
「はい。私も、まだ信じられません」
側近のクラウスも、驚きを隠せずにいた。
セドリックは、楽しそうに笑った。
「彼女を、私のそばに置きたい」
クラウスが、思わず主君を振り返った。
「……ミラ様を、ですか?」
「ほかに誰がいる?」
セドリックは、にっと笑った。
「元々気にはなっていたが、今日の力を見れば、なおさらだろう?」
「それは……確かに、ですが」
「魔物への対策にも、これからの国のためにも、あの力は大きな意味を持つ」
セドリックは、ミラへ視線を向けた。
二次選定では、ほかの候補者たちが選定を終えたあとも、最後まで患者の治療を続けていた。
そして今日、誰も止められなかった魔物を、自らの力で鎮めたのだ。
「力だけではない。民を思う心も、王妃には必要だからな」
まだ判断するには早い。だが、王妃候補として考える価値は十分にある。
「クラウス。彼女について、もっと詳しく調べておいてくれ」
「承知しました」
クラウスはうなずいた。
セドリックは、満足そうにもう一度ミラを見た。
そして、その傍らにいるヴェリスへと目を向けた。
親しい友は、意識を失ったミラを腕に抱いたまま、彼女の顔をじっと見つめ続けていた。
その眼差しに、セドリックはふと目を留めた。
「……へえ?」
口元に、ゆっくりと笑みが広がる。
「ヴェリスのやつ、いつの間に?」
「……私も、意外に思いました」
「だろう?」
セドリックは、楽しそうに肩を揺らした。
あのヴェリスが。
いつも冷静で、簡単には本心を見せない友が。
あんな眼差しを、一人の女性に向けている。
セドリックの青い瞳が、悪戯に煌めいた。
「これは、なかなか面白い」
セドリックは、ミラを見つめた。
(欲しい……ミラ)




