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第二十八話 紅、爆ぜる。

 咆哮が、再び聖堂を震わせた。


 石床が砕け、ガディオラの巨体が大きく身をよじる。太い爪が振り下ろされ、赤い瞳がぎらりと光った。


「きゃあっ!」


 観覧席から悲鳴が上がる。


「うそ……。もう動き出したの?」


 エリーゼの顔から笑みが消えた。


 鎮まったかに見えたガディオラが、再び暴れ始めるまで、三分もかからなかった。


 エリーゼは両手を掲げ、残された聖力をかき集める。


 もう一度、あの光を。


 今度こそ、完全に鎮めなければ。


 けれど、手のひらに集まった光は、先ほどとは比べものにならないほど弱々しかった。


「どうして……!」


 いくら力を込めても、聖力はかすかに揺らめくばかりだった。


 ベアトリスも、すでに限界を迎えていた。


「ベアトリス、動かないで!」


 リディアが彼女の腕をつかみ、治癒の聖力を流し込んでいる。


「このままにしておけない……!」


「今は自分の心配をして。結界内に退避しましょう」


 そう言うリディア自身も、額に汗を浮かべていた。


 コレットも防壁を展開しようと手を掲げる。けれど、指先に灯った光は、今にも消えてしまいそうだった。


 それでも彼女は、皆を庇うように一歩前へ出た。


◇


 ガディオラが咆哮する。


 その衝撃だけで、聖堂の空気が震えた。


 もう、誰の目にも明らかだった。


 このままでは、誰かが傷つく。


◇


「どうするんだ……!」


「試験を中止しろ!」


「聖女たちを下がらせるんだ!」


 観覧席が騒然となる。


 先ほどまで四人を称賛していた神官たちも、今は顔を青ざめさせていた。


「……まだひとり残っています」


 ひとりの神官が、舞台の上を指さした。


 そこにいたのは、ミラだった。


 彼女は、暴れ回るガディオラから目を逸らすことなく、静かに手をかざし続けていた。


「そういえば、あの娘はほとんど動いていないな」


「だが、何をしていたんだ?ずっと手をかざしていただけではないか」


「今さら、あの聖女に何ができる?」


 冷ややかな声が交わされる。


 そのとき、観覧席の一角で椅子が大きく鳴った。


 ヴェリスが立ち上がっていた。


 今にも舞台へ飛び出しそうなほど、彼の身体には力がこもっていた。


 聖女たちは、まだ逃げようとしない。


 このままでは危険だ。


 大神官の指示を待っている場合ではない。


 けれど。


 ミラは、恐怖に震えていてもおかしくない状況で、ただひたすらにガディオラを見つめていた。


 その姿は、まるで魔物の声に、耳を傾けているかのようだった。


「……ミラ」


 ヴェリスの唇から、彼女の名がこぼれた。


◇


「オルディウス様。もう十分ではありませんか」


 副神官ラウレスが、険しい顔で進言した。


「聖女たちの実力は確認できました。これ以上は危険です。騎士を派遣し、直ちに試験を中止すべきかと」


 オルディウスは、すぐには答えなかった。


 ただ、舞台の上にいるミラを見つめていた。


「……いや。まだだ」


「しかし!」


「ミラの実力を、まだ見ていない」


 静かな声だった。


 別の神官が、困惑したように口を挟む。


「ですが、あの娘はずっと魔物に手をかざしていただけです。聖力をぶつけていたのでしょうが、何の効果もなかったように見えました」


 オルディウスの目が、わずかに細められた。


 彼らには、そう見えるのだろう。


 だが、違う。


 彼女は聖力をぶつけていたのではない。


 おそらく、ガディオラの苦痛を吸収していたのだ。


 だからこそ、あれほどの魔物が一時的に鎮まった。


 もしミラが何もしていなかったなら、ガディオラが大人しくしていた時間は、ほんの数十秒にすぎなかったかもしれない。


 けれど、彼女の中にどれほどの力があるのか。


 それを、どこまで扱えるのか。


 オルディウスにも、まだ分からなかった。


 彼は騎士たちに目配せした。


 ガディオラが再び動き出した場合、即座に聖女たちを救出できるよう、いつでも動ける態勢を取らせる。


 それから、静かに告げた。


「あと数分だけ、様子を見る」


「ですが、オルディウス様……」


「危険が迫れば、すぐに中止する。それまでは待て」


◇


 ミラは、ガディオラを見つめていた。


 赤い瞳。


 荒々しい咆哮。


 落ち着きなく揺れる巨体。


 その奥から、絶え間なく苦しみが流れ込んでくる。


 痛い。


 怖い。


 苦しい。


 逃げたい。


 言葉ではない。


 けれど、確かに伝わってくる悲鳴だった。


 ミラは唇を噛んだ。


 少しでも痛みを取り除きたい。その一心で、彼女は手をかざし続けていた。


 けれど、間に合わない。


 このままでは、誰かが傷ついてしまう。


 ミラは、自分の内側へと意識を向けた。


 そこには、これまで吸収してきた苦痛とともに、自分でも測り知れないほどの力が蓄えられていた。


 胸の奥が熱い。


 身体の内側から、何かが押し広がろうとしている。


 溢れ出しそうなほどの力。


 けれど、これまで一度も解き放ったことはなかった。


 それでも。


 ミラは、ガディオラを見上げた。


 まずは、動きを止める。


 そして、その隙に苦しみを鎮める。


 眠らせるのだ。


 できるかどうかは分からない。


 失敗すれば、どうなるのかも分からない。


 けれど。


 ミラは小さく息を吸った。


 (大丈夫)


「……神父さま」


 思わずミラは微笑んだ。


 自分を信じてくれる、あの顔。


 そして、顔を上げた。


「……やってみるしかない」


 その瞬間。


 ミラの瞳が、鮮烈な紅に輝いた。


◇


「……え?」


 最初に異変に気づいた神官が、息を呑んだ。


 ミラの瞳。


 そこに宿る色が、変わっていた。


 いつもの紅ではない。


 深く、鮮やかで、吸い込まれそうなほど強い紅。


 ミラは、ゆっくりと顔を上げた。


 恐怖は、もうなかった。


 迷いも、なかった。


 ただ、目の前の魔物を救いたい。


 仲間たちを救いたい。


 その願いだけが、胸の中に残っていた。


 身体の奥に蓄えられた力が、膨れ上がる。


「……魔力、解放」


 囁くような声が、静かに響いた。


 次の瞬間、紅い光が爆ぜた。


 解き放たれた魔力が、ミラを中心に一気に広がる。


 空気が震えた。


 石床に細かな亀裂が走り、祭壇の燭台が大きく揺れる。


 観覧席から、声が消えた。


 清らかで柔らかな聖力とは、どこか違う。


 もっと深く、強く、底知れない何か。


 それは、聖堂に満ちる聖力とは異質な輝きを放ちながらも、深い神聖さを感じさせる、不思議な力だった。


 その光の中心に立つ黒髪の女性は、まるで別人のようだった。


 長い黒髪が、解き放たれた力に揺れる。


 紅く輝く瞳が、まっすぐにガディオラを見据えていた。


 美しく。


 そして、恐ろしいほどに強く。


◇


「……あれは……!」


 ローランド王が、玉座から身を乗り出した。


 その顔から、血の気が引いていく。


 紅く輝く瞳。


 溢れ出す、圧倒的な力。


「まさか……」


 その先の言葉は、声にならなかった。


◇


 オルディウスも、息を呑んでいた。


 想像以上だった。


 ミラが何を秘めているのか、彼自身もまだ知らなかったのだ。


 観覧席の誰もが、言葉を失っていた。


 ミラを侮っていた者たちも。


 何の力もないと思っていた者たちも。


 今はただ、彼女から溢れる力を前に、立ち尽くすことしかできなかった。


◇


 ミラは、一歩踏み出した。


 解き放たれた魔力が、ガディオラへと向かっていく。


 紅い光が、魔物の巨体を真正面から打ち据えた。


 ――轟音。


 ガディオラの身体が大きくのけぞる。


 石床を削りながら、その巨体が後方へと吹き飛ばされた。


 あれほど暴れていた魔物が、初めて動きを止めた。


 たった一撃。


 それだけで、聖堂中の誰もが息を呑んだ。


 けれど、ミラは立ち止まらなかった。


 今しかない。


 ガディオラが動きを止めた、ほんのわずかな隙。


 ミラは、その懐へと踏み込んだ。


 そして、巨大な頭にそっと手をかざす。


 今度は、力でねじ伏せるためではない。


「もう、大丈夫だよ」


 ずっと叫び続けていた苦しみが、再びミラの中へと流れ込んだ。


 閉じ込められていた恐怖。


 誰にも届かなかった悲鳴。


 そのひとつひとつを、ミラは拒まなかった。


 すべてを受け止めるように、そっと手を添える。


 そして、微笑んだ。


 ガディオラの赤い瞳が、ゆっくりと揺れた。


 荒々しかった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。


 巨体から力が抜け、前脚が床についた。


 もう、暴れる必要はなかった。


 やがて、ガディオラは静かに目を閉じた。


 今度こそ、穏やかに。


 もう、苦しげな叫び声は聞こえなかった。


「……ゆっくり、眠ってね」


 ミラは微笑みながら、小さく囁いた。


 ガディオラの巨体が、ゆっくりと床に伏せる。


 その胸は、穏やかに上下していた。


 長いあいだ苦しみ続けていた魔物は、ようやく安らかな眠りについた。


 聖堂は、静まり返っていた。


 誰もが、目の前の光景を信じられずにいた。


◇


 ローランド王だけが、まだ動けずにいた。


 その目は、ミラから離れなかった。


 あの瞳。


 あの力。


 ある記憶が、王の胸の奥で音もなく目を覚ましていく。


 王の唇が、かすかに震えた。


「……魔、女……」


 その声は、誰にも届かなかった。


◇


 ミラは、静かに目を細めた。


「……よかった」


 ほっとしたように微笑む。


 紅く輝いていた瞳は、いつしか元の色に戻っていた。


 その瞬間、張り詰めていた糸が切れた。


 身体から、急速に力が抜けていく。


「あ……」


 (限界かも……)


 足元がふらついた。


 倒れる。


 そう思った次の瞬間。


 誰かの腕が、ミラの身体を力強く受け止めた。


「ミラ!」


 切羽詰まった声が、聖堂に響いた。


 意識が遠のく中、ミラはぼんやりと顔を上げた。


 そこにいたのは、必死な表情で自分を抱き留めるヴェリスだった。


 いつもは澄んだ琥珀色の瞳が、今は不安に揺れている。


「ヴェリス……」


 声にできたのかどうかも、分からなかった。


 ただ。


 彼が来てくれた。


 自分を、受け止めてくれた。


 その事実が、胸の奥を温めた。


 くすぐったくて、たまらなく嬉しい。


 身体はぼろぼろだったが、彼の腕の中が不思議と心地よかった。


 ミラは、かすかに微笑んだ。


 そして、彼の腕の中で、静かに意識を手放した。


「ミラ……!」


 ヴェリスは、腕の中の彼女を強く抱き留めた。


 その声には、もう隠しようのない焦りが滲んでいた。

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