第二十五話 内緒話は何やら物騒です
エリーゼとの女子トークに花を咲かせていた頃――。
王家の離宮から離れた、王都の教会。
人の気配が途絶えた地下深くに、一つの部屋があった。
窓はない。
灯りは、机の上に置かれた小さなランプだけ。
その薄暗い部屋で、大神官オルディオスは一冊の書物を開いていた。
分厚い革張りの表紙。
黒ずんだ金具。
何度も封じ直されたような跡。
教会の正式な記録には残されていない、古い禁書だった。
オルディオスは、黙って頁をめくる。
古い文字が並んでいる。
そこに記されているのは、ある聖女の力についての記録だった。
人を癒やす力。
傷だけではない。
病も、毒も。
身体に残った僅かな苦しみさえも、まるで自らが引き受けるようにして消していく巨大な力。
けれど、その力には代償がある。
受け入れた苦しみが積み重なれば、力そのものが持ち主を蝕む。限界が来れば、やがてーー。
「…………」
オルディオスの指が止まった。
今日、大聖堂で見たミラの姿が脳裏に浮かぶ。
目も開けられないほどの強い光。
割れた水晶。
患者に手をかざしながら、自身の身体を震わせ、僅かに苦しみに耐えているような顔。
あれほどの癒しを、たった一人で。
「……似ているか……」
呟きは、誰に聞かせるでもなかった。
「そうお思いになられますか」
背後から声がする。
副大神官ラウレスだった。
この部屋に入ることを許されているのは、大神官と副大神官だけだ。
いつからそこにいたのか。
オルディオスは振り返らない。
「お前も見ただろう」
「はい」
ラウレスが机のそばまで歩み寄る。
けれど、禁書には手を伸ばさなかった。
「……あれほどの力を、私は見たことがありません」
「私もだ」
「なぜこの書物を?」
オルディオスは答えず、頁を閉じた。
ぱたん、と乾いた音が地下室に響く。
「分かっているのだろう。古い話だ」
「……はい」
「私自身、この目で見たことはない」
オルディオスは、閉じた書物へ視線を落とした。
「だが、前任大神官から聞かされた話だ。代々、限られた者にだけ受け継がれてきた。禁じられた話だ」
「……二十五年前の件は、その話に繋がります」
「ああ」
オルディオスの声が低くなる。
「だが陛下が実際に目にされたこは、我々だけの秘密だ」
「……」
オルディオスは静かに続ける。
「ただな言い伝えと古い記録に残された内容からすれば、陛下の証言は……無視できない。」
ラウレスの表情が強張った。
「今日のミラ様も、あり得る?」
「ああ」
短い沈黙。
オルディオスは、もう一度禁書へ手を置いた。
「あくまで可能性だ。だが、だからこそ、放っておくわけにはいかん」
「ですが……討伐は禁止されています。今の教会に、以前のようなことはできません」
ラウレスの声が低くなる。
オルディオスは答えない。
「いや……もし本当にそうなら、拘束することぐらいならできる。だが、内密にだ」
「民に不安を与えてはならない……ということですね」
オルディオスは小さく頷いた。
その脳裏に浮かんだのは、二次選定で、ミラが最後まで患者たちを癒やし続けた姿だった。
指先が、禁書の表紙をゆっくりとなぞる。
「あの力を利用できるなら……これほどの力を、眠らせておく理由もない」
ラウレスが顔を上げる。
「保護……ということですか?」
オルディオスは答えない。
ただ、静かに書物を閉じた。
「まずは確かめる」
オルディオスが言った。
「明日の最終選定で」
「……ミラ様の力を?」
「ああ」
オルディオスは立ち上がった。
「予定していたAクラスより、強い魔物を用意しろ」
ラウレスが息を呑む。
「……それでは」
オルディオスは、ゆっくりと顔を上げた。
「まさか……Sクラスを?」
「ああ」
「……お待ちください」
ラウレスの表情が変わった。
「Sクラスは、研究用に捕獲されたものが一体しかありません」
「分かっている」
「捕獲した後も、封印を維持するだけで相当数の神官が必要になるほど、管理が難しいものです」
「分かっている」
「ならば、なぜ……!」
珍しく声を荒らげたラウレスを、オルディオスは静かに見た。
「それほどのものを使わなければ、確かめられないかもしれん」
「……」
「通常のAクラスでは、あの力がどこまで届くのか分からない」
オルディオスは、淡々と告げる。
「もちろん、選定の範囲を越えさせるつもりはない」
「ですが、Sクラスですよ?」
「だから、封印は完全には解かん」
「それでも危険です」
「ああ」
オルディオスは否定しなかった。
「危険だからこそ、私が許可する」
ラウレスは言葉を失った。
しばらくして、低く息を吐く。
「……もし、制御を失ったら?」
オルディオスは答えなかった。
代わりに、机の上の禁書へ目を向ける。
「……その時は、私が入る」
ラウレスは驚いたようにじっと大神官を見つめた。
「承知しました」
踵を返す。
扉が閉じられた。
地下室に、再び静寂が戻った。
オルディオスは一人、机の前に立っている。
しばらくして。
閉じられた禁書の表紙に、そっと手を置いた。
「……これだけは、知られてはならぬ」
低い声が落ちる。
ランプの炎が、ふっと揺れた。




