第十七話 隊長さま、名前を呼ぶ
離宮近くの庭園に来ていた。
いつの間にか夕焼けが白い回廊を淡く染めている。
風が花の香りを運び、噴水の水音だけが静かに響いている。
「綺麗ですね」
返事がない。
「隊長さま?」
振り返る。
ヴェリスは、夕焼けではなく。
ミラを見ていた。
視線が重なる。
胸が小さく跳ねた。
「……ああ」
少し遅れて返ってきた声は、いつもよりわずかに掠れていた。
「……?」
ミラが首を傾げる。
けれどヴェリスは何も言わず、夕焼けへ視線を戻した。
その横顔が、どこかいつもと違って見える。
(私の顔に、なんかついてたのかな!?)
◇
三か月。
手紙だけのやり取りだった。
久しぶりに会ったミラは、以前と変わらない。
柔らかな笑顔。
風に揺れる黒髪。
けれど。
夕暮れの光の中に立つその姿は、以前より少しだけ大人びて見えた。
ヴェリスの視線が、知らず知らずのうちにずっと彼女を追っていた。
「隊長さま?」
「……はい」
「どうかしましたか?」
「いえ」
短い返事。
けれど。
視線だけは、なかなか離れなかった。
(もしかして私といるのつまらない?)
◇
離宮のすぐ側まで来た。
(もうすぐでお別れ……)
日暮れの風がやさしく髪を揺らしていく。
「あの」
思い切った。
「はい」
「“聖女様”じゃなくて……」
ミラが少しだけ視線を泳がせる。
「ミラ、と呼んでいただけたら」
ヴェリスが、ほんの一瞬だけ黙った。
「……良いのですか?」
「え?」
「その呼び方は」
金色の瞳が、ミラへ向けられる。
「それは、親しい相手だけに許している呼び方では?」
(親しい相手……)
その言葉に胸が跳ねた。
(でもやっぱり聖女様とか、様づけは嫌だし……)
「……はい」
小さく頷く。
「隊長さまには、そう呼んでほしいです」
ヴェリスの目元が、ほんの少しだけやわらぐ。
「あなたが望むなら」
「……ミラ」
たったそれだけ。
たった名前を呼ばれただけなのに。
(だめ……)
心臓がうるさい。
「では」
ヴェリスが一歩だけ近づく。
「俺のことも」
「ヴェリス、と」
「……ヴェリス、さま」
小さく笑われた。
「“さま”は不要です」
「……ヴェリス」
(呼んじゃったよー!!)
心の中は赤面だった。
呼んだ瞬間。
ヴェリスの足が止まった。
静かな沈黙。
夜風だけが、二人の間を通り過ぎる。
やがて、ヴェリスがゆっくりと目を伏せた。
「その呼び方は」
低く落ちる声。
「……嬉しいです」
その一言に。
ミラの胸も、ぎゅっと締め付けられた。
(私こそ……)
◇
白い離宮の門の前。
「選定会の間は」
「こんな風には会えないと思います」
胸が小さく沈む。
「ですので」
一拍。
「終わったら」
金の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「必ず、時間をください」
胸が大きく跳ねた。
「今度はもっと、ゆっくり案内します」
あたたかい風が通り過ぎる。
(まさか……えっと……また会ってくれるの?)
突然の事すぎて、理解が追いついてなかった。
胸が、跳ねる。
(……だめ)
そんなことを言われたら。
期待してしまう。
けれど。
(……違う)
まさか、私だからじゃない。
そんはずはない。
ヴェリス様は、誰にでも優しい人だ。
それに。
私が聖女だと思っているから……きっと、なおさら。
だから。
(本当の私を知ったら……)
胸の奥で、秘密が小さく疼く。
「……選定会、頑張ります」
勘違いしたくない。
傷つきたくない。
だから、それ以上は踏み込めなかった。
「今日は、本当にありがとうございました」
笑う。
心を隠すように。
ヴェリスが目を細めた。
「……ミラ?」
引き留めるような声だった。
けれどミラは、ただ笑った。
「すごく楽しかったです」
そう言って頭を下げた。
白い門がゆっくり開く。
そして閉じる。
その背中を見送りながら。
ヴェリスは、しばらくその場から動かなかった。
◇
閉じた門を見つめる。
街灯が揺れる。
それでも。
しばらく、動けなかった。
やがて、ミラからもらった包みに視線を落とす。
「ミラ……」
固まっていた口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……レオン」
ぽつりと呟く。
「……お前の言うとおりだ」
ヴェリスは、小さく息を吐いた。
「俺は……」
その先の言葉を、飲み込む。
手の中の小さな包みを、そっと握り直す。
苦笑が、ほんの少しだけ漏れた。




