第十一話 隊長さま、夜会に出席する①
夜の王都は、光でできていた。
石畳を照らす街灯。
行き交う馬車のランプ。
店先からこぼれる明かり。
無数の光が連なり、夜の王都を華やかに浮かび上がらせている。
◇
その中心。
アレティス公爵邸は、今夜ひときわ眩しかった。
天井から幾重にも垂れたシャンデリア。
磨き抜かれた大理石。
銀の食器に並ぶ料理。
楽団の旋律に、貴族たちの笑い声が重なる。
絹が擦れ、宝石が揺れ、グラスの中で金色の酒がきらめく。
王都の華が、一夜のために集められていた。
◇
そんな中。
扉が開く。
「アレティス公爵家嫡男、ヴェリス・アレティス様」
一瞬。
ざわめきが消えた。
談笑が止まる。
グラスを持つ手が止まる。
扇の陰から、いくつもの瞳が覗いた。
(ヴェリス様……!)
(ついにお帰りになったのね)
その名だけで、視線が集まる。
遠征帰りの英雄。
騎士団第二部隊隊長。
そして――王都で名を知らぬ者はいない、公爵家の嫡男。
黒の礼装を纏ったヴェリスが、静かに歩み入る。
蜂蜜を溶かしたような金の髪。
長身。
琥珀のような淡い金の瞳。
その視線が、会場をゆっくりと巡る。
目が合った令嬢が、微笑んだ。
ヴェリスは、ほんの少し口元を緩めて会釈を返す。
令嬢の頬が、見る間に染まった。
隣の友人が、慌てて袖を引く。
けれどヴェリスは、それ以上何をするでもなく、そのまま歩いていった。
◇
「隊長」
隣でレオンハルトが笑った。
「今ので五人目です」
「何がだ」
「隊長を見て、固まった令嬢」
「そうか」
「……分かってるんですね」
「何が?」
レオンは一瞬黙った。
それから、吹き出すように笑う。
「そういうところですよ」
「礼をしただけだ」
「ええ」
レオンは楽しそうに頷く。
「その『礼をしただけ』で、相手は一晩中悩むんですよ」
「大げさだ」
「そう思ってるところも含めてですよ」
ヴェリスが呆れたようにレオンを見る。
そのとき。
「相変わらずね、ヴェリス」
柔らかな声がした。
◇
ヴェリスが足を止める。
周囲の貴族たちが、自然と道を空けた。
現れたのは――
黄金の髪を優雅にまとめた、美しい女性だった。
落ち着いた紅色のドレス。
細い首元を飾る真珠。
年齢を感じさせない艶やかな肌。
すっと通った鼻筋。
柔らかく弧を描く唇。
慈愛を思わせる微笑。
けれど、その微笑の奥には、相手を測るような鋭さがある。
かつて“奇跡の聖女”と謳われた女。
今なお、その美貌と気品は衰えを知らない。
アレティス公爵夫人。
オフィーリア・アレティス。
「母上」
ヴェリスが一礼する。
「遠征帰りでしょう?」
「はい」
「なら、もう少し楽しそうにしていなさい」
「楽しんでいます」
「まあ」
オフィーリアが息子の顔を眺める。
「そうかしら?」
レオンが堪えきれず吹き出した。
「奥様、それは隊長には酷ですよ」
「そう?」
オフィーリアは楽しそうに笑う。
「昔から変わらないわね」
「はい。完全に隊長です」
「二人とも、何の話です」
ヴェリスが眉を寄せる。
オフィーリアはそんな息子を見て、ふっと目を細めた。
「お帰りなさい、ヴェリス」
「ただいま戻りました」
その声音だけは、少しだけ柔らかかった。
◇
「今夜は良い子が多いわよ」
オフィーリアが会場を見渡した。
「公爵家、侯爵、名門伯爵家。それに――」
ふっと、口元を緩める。
「母上」
「まだ何も言っていないでしょう?」
「顔に書いてあります」
レオンが、思わず笑った。
「奥様、今日は気合いが入っていますね」
「ええ。一年近く留守にしていた息子ですもの。少しくらい働いてもらわないと」
「何をです」
「もちろん、社交よ」
にこり。
ヴェリスが黙る。
オフィーリアは楽しそうに続けた。
「今夜は、あの子も来ているわ」
「エリーゼ様ですか?」
レオンが尋ねる。
「ええ」
オフィーリアの表情が、ほんの少し嬉しそうに緩んだ。
「もう十八でしょう? すっかり大人になったわよ」
◇
そのとき。
会場の奥が、ふっとざわめいた。
「エリーゼ様だ」
「本当に?」
「こちらへいらしたぞ」
「今夜、どなたか求婚するらしいぞ」
「侯爵家のご子息でしょう?」
「いや、王族との縁談もあるそうだ」
「選定会を前に、皆さん必死だな」
小さな囁きが、次々と重なる。
人の流れが、自然と一方へ寄っていく。
◇
ヴェリスの視線が、止まった。
そこにいたのは――
淡い桃金色の髪。
光を受けて煌めく、淡い紫の瞳。
白を基調とした上品なドレス。
少女の可憐さを残しながらも、その立ち姿にはもう幼さがなかった。
すっと伸びた背筋。
華奢な身体に、女性らしいしなやかさを纏っている。
相手の目を見て微笑む、自然な所作。
可愛いだけではない。
一人の女性として、人の目を惹きつける美しさがそこにあった。
◇
「エリーゼ様!」
「こちらです、聖女様!」
「まあ、以前よりさらにお美しく……!」
声を掛けられるたび、エリーゼは足を止める。
「こんばんは」
「ありがとうございます」
「まあ、嬉しいです」
笑って。
相手の言葉を聞いて。
丁寧に返す。
そのたびに、周囲の顔が明るくなる。
王都最高峰の聖女。
エリーゼ・フェルシアン伯爵令嬢。
その名を知らない者はいない。
十八歳にして、数々の癒しの功績を持つ。
美貌も、家柄も、聖女としての力も。
彼女は、生まれながらにして多くを持っていた。
男も。
女も。
誰もが彼女に目を奪われる。
◇
「なるほど」
レオンが小さく呟いた。
「……何?」
オフィーリアが笑う。
「あれなら、今夜求婚者が列を作るのも納得です」
「でしょう?」
オフィーリアは満足そうに頷いた。
そして――
ちらり。
ヴェリスを見る。
「どう?」
「何がです」
「……まあいいわ」
オフィーリアは意味ありげに笑った。
その視線の先で。
エリーゼが、こちらに気づいた。
一瞬。
その淡い紫の瞳が、大きく見開かれる。
そして――
ぱっと。
花が咲くように、その顔が明るくなった。
「――ヴェリス!」
エリーゼが、人の間を縫うようにこちらへ向かってくる。
◇
「エリーゼ」
オフィーリアが嬉しそうに声を掛ける。
「オフィーリア様!」
エリーゼは笑顔を輝かせた。
「ご無沙汰しております!」
オフィーリアは目を細めた。
「また綺麗になったわね」
「本当ですか?」
「ええ。すっかり大人になったわ。どこか私の若い頃に似ているわ」
「嬉しいです!」
エリーゼが笑う。
そして。
その視線が、ヴェリスへ向いた。
「――ヴェリス!」
「エリーゼ」
「お久しぶりです!」
「ああ。久しぶりだな」
「十か月ぶりよ?」
「そうだったか」
「もう。覚えてないの?」
頬を膨らませる。
ヴェリスが、優しく笑った。
「覚えているよ」
「本当?」
「ああ」
エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった」
そして、少しだけ身を引いてヴェリスを見上げた。
「私、変わったかしら?」
ヴェリスの視線が、もう一度エリーゼに向く。
「……綺麗になった」
「でしょう?」
エリーゼが得意げに笑った。
レオンが、隣で口元を押さえる。
「……自分で言います?」
「だって本当ですもの」
「なるほど」
レオンが頷く。
「反論できませんね」
「褒めてくださっているんですよね?」
「もちろん」
エリーゼは満足そうに笑う。
オフィーリアがくすりと笑った。
「そういうところは変わらないわね」
「そこもオフィーリア様に似たんでしょうか?」
「まあ。そうかもしれないわね」
「嬉しいです」
エリーゼは素直に笑った。
そして、ヴェリスを見る。
「今夜は、たくさんお話できるわね」
「ああ」
「それから――」
エリーゼが少しだけ声を落とす。
「最初のダンスも、私とお願いしますね」
ヴェリスが瞬く。
「最初の?」
「はい」
エリーゼは当然のように頷いた。
「昔から、そうだったでしょう?」
「そうだったか?」
「もう」
頬を膨らませる。
けれど、すぐに笑った。
「約束よ?」
「分かった」
エリーゼは嬉しそうに笑った。
その横で。
オフィーリアが、満足そうに目を細める。
「ふふっ。では、また後ほどね」
「はい!」
エリーゼは笑顔のまま去っていった。
◇
その背中を見送り、レオンが小さく息を吐く。
「……隊長」
「何だ」
「罪な人ですね」
「何の話だ」
「……本当に分からないんですか?」
ヴェリスは答えず、遠ざかるエリーゼを見た。
「選定会前だ」
「はい?」
「今は、何も決める必要はない」
レオンが黙る。
「俺だけを見る必要もないだろう」
ヴェリスは少しだけ目を伏せた。
淡々とした声だった。
レオンはしばらくヴェリスを見つめた。
やがて、ふっと笑う。
「……なるほど」
「何がだ」
「やっぱり、隊長らしいです」
「そうか?」
「ええ」
ヴェリスは意味が分からないという顔をした。
「……レオン」
「はい?」
「お前も楽しんでこい」
「え?」
「せっかくの夜会だ」
「今夜くらい、ゆっくりしてこい」
レオンは小さく笑った。
「……そういうとこっすよ、隊長」
「?」
「では、お言葉に甘えます」




