9 歩く練習
翌日から、私は毎朝「床」と戦うことになった。
戦う相手としては、あまりにも地味だ。
剣でもなく、魔物でもなく、床。
屋敷の廊下の、つるりと磨かれた木の床。
けれど、油断するとそれは容赦なく私の膝を奪う。
◇
朝食のあと、私は外套のフードを深めに被って、廊下の端に立った。
左右の壁がやけに近い。
天井がやけに低い。
人の身体は、世界を狭くする。
「……いきますわ」
誰に宣言するでもなく呟いて、私は一歩踏み出した。
足の裏が、床に触れる。
竜の時は感じなかった“面積”が、妙に主張する。
支えているのは、二点。
二点しかない。
こわい。
こわいけれど、嫌じゃない。
私は二歩目を出した。
――ぐら。
視界が斜めにずれる。
慌てて腕を振って、壁に手をついた。
「……っ」
木の感触が、直接指に刺さる。
この身体は、全部が直接的だ。
触れることも、痛いことも、熱いことも。
呼吸の上下すら、うるさい。
でも、その“うるささ”の中に、確かに生きている感じがある。
「……もう一回ですわ」
私は壁から手を離し、姿勢を整えた。
◇
廊下の途中で、妖精が二匹、こそこそと顔を出した。
『お嬢様……転びませんでしたか?』
『今日は爆発しませんか?』
「爆発はしませんわ」
『昨日もそう言ってました……』
「……」
妖精の信用というものは、簡単には戻らないらしい。
私は、歩き直す。
ゆっくり、ゆっくり。
五歩。
六歩。
いつもなら、ここで膝が笑う。
今日は――少しだけ、耐えた。
「……っ」
最後の一歩を出した瞬間、膝が震えた。
私はすぐに壁へ手をつく。
転ばない。
転ばないというだけで、今日は勝ちだ。
『すごいです!』
『お嬢様、成長です!』
「……当然ですわ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
当然だと言えるほど、私はまだ強くない。
けれど、妖精たちは嬉しそうに羽をぶるぶる震わせた。
それが、妙に救いだった。
◇
庭へ出ると、空気の温度が変わった。
屋敷の中の柔らかい静けさが、外へ出ると少しだけ薄くなる。
芝生は、廊下より歩きやすい。
土が、少し受け止めてくれるから。
私は芝生の上に立ち、足の指を動かした。
靴の中で指が動く感覚が、変で、少し面白い。
「……」
深呼吸する。
そして、もう一度、歩き出す。
十歩。
自分の足で、十歩。
胸の奥が、ふわっとした。
竜の時には当たり前すぎて感じなかった種類の達成感だ。
――その時。
「やっとか」
冷たい声が飛んできた。
振り向くと、お兄様が木にもたれていた。
腕を組み、いつもの余裕の顔。
「おはようも言えないの?」
「言っただろ。見てる、が挨拶」
「挨拶ではありませんわ」
「うちの文化だ」
私が睨むと、お兄様は鼻で笑った。
「重心が前だな。あと、肩に力入りすぎ」
「……分かっていますわ」
「分かってない顔」
「……分かっていますわ!」
言い返しながらも、私は素直に肩の力を抜いた。
すると本当に、少しだけ楽になる。
悔しい。
「そのまま歩け。転ぶなよ」
「転びませんわ」
「転ぶ」
「転びませんわ!」
◇
少しして、お父様が庭へ出てきた。
湯のみを持っている。
朝の光が、お父様の髪の金と銀を柔らかく照らしていた。
「どうだ?」
「……十歩、歩けましたわ」
「偉いな」
お父様の“偉い”は、ちゃんと私の胸に落ちる。
お母様の“偉い”は雑で軽いのに、お父様の“偉い”は重い。
良い重さだ。
「今日は、歩くのを少しだけ増やそう」
「……はい」
私は頷いた。
頷きながら、ふと、交易路の方角を見る。
あの道の向こうに、人間の街がある。
昨日までは、空から眺めるだけだった世界。
豆粒みたいにしか見えなかった人間の群れ。
――同じ高さで歩く、ということ。
胸の奥が、ちくりとした。
私は、自分の首筋に無意識に触れた。
熱はない。
でも、触れると、なぜか落ち着く。
「……ヴィーラ」
お父様が名前を呼んだ。
私は、びくっとする。
名前を呼ばれると、心が引き戻される。
「どうした?」
「……」
見透かされている。
お母様ほど露骨じゃないのが、余計にずるい。
「……街のことを、考えていましたの」
「そうか」
お父様は、それだけ言った。
否定もしない。
肯定もしない。
でも、その短い返事の裏に、いくつも言えない言葉があるのを私は感じた。
「行きたいか?」
質問が、静かに落ちた。
私は、答えを飲み込むのに一拍かかった。
行きたい。
でも、怖い。
でも、行きたい。
私は、結局、正直に言った。
「……行きたいですわ」
お父様の瞳が、ほんの少しだけ細くなる。
笑ったのか、困ったのか、私はまだ分からない。
「なら、もう少しだ」
「……もう少し?」
「人の姿で、半日。崩さずにいられるようになってから」
半日。
今の私は、朝から昼までが限界だ。
午後になると手が震えて、足が重くなって、視界の端が少し揺れる。
「……分かりましたわ」
分かる。
自分でも分かる。
今の私は、まだ“外”に連れていってもらうには不安定すぎる。
お兄様が口を挟む。
「父上、甘い」
「甘くない」
「甘い」
「お前が厳しすぎる」
「俺は普通」
「普通じゃない」
お父様の返しが淡々としていて、私は少し笑ってしまった。
お兄様は、むっとした顔をする。
「笑うな」
「笑いますわ」
「笑うな」
「笑いますわ!」
◇
その日の夕方。
私は寝室の鏡の前に立っていた。
深紫に銀の髪。
濃紺の瞳。
外套を脱いで、肩の線を確かめる。
竜の身体の記憶がまだ残っているせいで、人の身体はどこか借り物みたいに感じる。
私は、鏡の中の自分に小さく言った。
「……まだ、変な感じですわね」
肩を回してみる。
首を傾けてみる。
つま先立ちしてみる。
どれも、ぎこちない。
でも。
――昨日よりは、少しだけ上手く動いている。
私は、鏡の前で一歩だけ歩いた。
転ばない。
それだけで、胸の奥がちょっとだけ誇らしい。
「……明日も、歩く練習をしますわ」
それは、逃げでも、焦りでもない。
ちゃんと“前に進んでいる”という実感だった。
私は、外套をたたんで寝台に置いた。
人の形のまま、布団に潜り込む。
天井が、まだ少しだけ近い。
でも。
この身体にも、きっと慣れる。
私はそう思いながら、静かに目を閉じた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




