10 初めての人間の街
朝の庭は、冷たい。
芝の露が靴の裏にまとわりついて、歩くたびに小さく音がした。
竜の時には気にも留めなかった音だ。
でも今の私は、二本足で、布を着て、地面と同じ高さにいる。
私は、深呼吸してから、もう一度足を出した。
一歩。
二歩。
三歩。
昨日より、膝が笑わない。
「……いい感じだな」
少し離れたところで、お父様が湯のみを片手に言った。
朝の日差しが、金と銀の混じった髪に柔らかく落ちる。
私の胸の奥が、ふわっと軽くなる。
「……十歩、いけますわ」
「じゃあ、今日は十一歩だ」
「それは急に欲張りですわね」
言い返すと、お父様が小さく笑った。
その笑いが消える前に、足音がもう一つ増えた。
「遅い」
お兄様だ。
木にもたれて腕を組んでいる。
朝から余裕がうるさい。
「おはようも言えないの?」
「言った。遅い、が挨拶」
「挨拶じゃありませんわ」
「うちの文化だ」
「文化を捏造しないでくださいまし」
私はぷいっと顔を背けた。
すると、お兄様はわざとらしく息を吐く。
「重心、前」
「……分かっていますわ」
「分かってない顔」
「分かっていますわ!」
悔しいけれど、言われた通り肩の力を抜くと、確かに少し歩きやすい。
悔しい。
私は十一歩目を踏み出して、ちゃんと止まった。
転ばない。
転ばないだけで、今日は勝ちだ。
胸の奥が、少しだけ誇らしい。
◇
お父様は、私が呼吸を整えるのを待ってから、静かに言った。
「ヴィーラ」
「はい」
「……街、行ってみるか?」
一拍。
言葉の意味が、胸の奥で鳴った。
街。
人間の街。
交易路を上から眺めていた、あの“線”の先。
豆粒みたいに動いていた人間たちが、同じ高さで呼吸している場所。
怖い。
でも――
「……行きたいですわ」
声は、思っていたよりも迷わなかった。
お兄様が眉を上げる。
「大丈夫か?」
「歩く練習になりますもの」
「理由が実用的すぎる」
「あと……人間を、ちゃんと見てみたいんですの」
私がそう言うと、お父様の目がほんの一瞬だけ細くなった。
笑ったのか、寂しかったのか。
私はまだ分からない。
「……そうか」
お父様は頷いて、立ち上がる。
「無理はしない。今日は“覗く”だけだ」
「覗く、ですの?」
「慣れるための、最初の一歩だ」
最初の一歩。
その言葉が、なぜだか嬉しかった。
◇
街へ行く準備は、案の定、大騒ぎになった。
妖精たちが私の周りをぐるぐる飛び回り、勝手に私の髪を触り始める。
『その髪はだめです!』
『目立ちすぎます!』
『光って見えます! 銀が!』
「光ってませんわ!」
『光って見えます!』
正論だった。
深紫に銀を塗した髪は、人間の街には派手すぎる。
結局、髪はゆるく三つ編みにされ、フードを深く被せられた。
動きやすいワンピース。
柔らかい革靴。
外套は少し長め。
全部、初めての感触だ。
布は、竜の鱗と違って頼りない。
けれど、温かい。
「……なんだか、変装みたいですわ」
「変装みたいなもんだ」
お父様が当たり前みたいに言う。
お父様は人の姿でも、どう見ても“ただの美形の旅人”で済むのがずるい。
お母様とお兄様は、屋敷に残る。
「お母様……」
「なに?」
「……いってきます」
「うん。生きて帰ってきてね」
「縁起でもありませんわ!」
でも、私はその言葉が嫌いじゃない。
生きて帰るという約束は、ちゃんと結ぶ価値がある。
お兄様が鼻で笑った。
「落ちるなよ」
「落ちませんわ」
「落ちる」
「落ちませんわ!」
「……なら、ちゃんと父上の袖を掴め」
言い方は乱暴なのに、言っていることは優しい。
私は、一拍置いて頷いた。
「……はい」
◇
街は――音が多すぎた。
人の声。
馬のいななき。
車輪の軋み。
金属のぶつかる音。
笑い声と怒鳴り声と呼び込みの声が、全部いっぺんに押し寄せてくる。
匂いも強い。
焼いた肉。
汗。
革。
香辛料。
酒の甘い匂い。
私は、無意識にお父様の外套の袖を掴んでいた。
「……大丈夫か?」
「……はい」
嘘だった。
でも、全部が嫌なわけじゃない。
目が忙しい。
耳が忙しい。
頭が忙しい。
それなのに――
楽しい。
屋台の前を通るたび、私は足を止めた。
「……あれ、何ですの?」
「串焼きだな」
「……美味しそうですわ」
「食うか?」
「……いいんですの?」
「今日は社会勉強だ」
私は人生で初めて、串焼きを食べた。
熱くて、しょっぱくて、油っぽい。
――とても、美味しかった。
◇
しばらく歩いたあと、小さな広場で数人の人間が立ち話をしているのが見えた。
「……なあ、知ってるか」
「ん?」
「フランク王国の話」
私は、足を止めた。
フランク王国。
知らないはずの音なのに、胸の奥がちくりとする。
「ほら、昔、王太子の婚約者だった公爵令嬢が処刑されただろ」
「……ああ。反逆罪の」
「実は冤罪だったって噂、最近また出てるらしいぞ」
私は、息を止めた。
「……なんでも、証人だった侍女が行方不明になったとか」
「今さらだな。死んだやつは戻らない。もう十年以上前の話じゃないか」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、無意識にフードを深く被った。
その瞬間。
「……あれ?」
誰かの声がした。
「おい、あの子……」
私は、びくっと肩を震わせた。
「……髪の色」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「……似てないか?」
私は、反射的にお父様の腕にしがみついた。
「……お父様」
お父様は、何も言わなかった。
ただ、一歩だけ前に出て、私を背中に隠した。
「……娘だ」
低く、はっきりした声だった。
「それ以上、不快な視線を向けるな」
空気が、ぴしりと固まった。
その男は、何か言いかけて、口を閉じた。
「……すまん」
小さく呟いて、目を逸らした。
私の心臓は、うるさいくらい鳴っていた。
◇
そのあと、私たちは少し早めに街を出た。
帰り道。
私は、ずっと黙っていた。
「……お父様」
「ん?」
「……私、王太子の婚約者だった公爵令嬢に似てますの?」
一拍。
「……さぁ? 人間の話だからな。私は知らん」
正直な答えだった。
私は、唇を噛んだ。
「……色が同じだと言われました」
「……そもそもとっくに死んだ人間の話だ。お前とは関係ない」
「……でも」
お父様は、立ち止まった。
それから、私の前にしゃがみ込む。
「ヴィーラ」
「はい」
「お前は、お前だ」
「……はい」
「人間の過去とも、誰かの罪とも、関係ない」
「……はい」
「……それでも、外は優しくない。私も元は人間だったが、人間というものは案外醜い生き物でもある」
その言葉が、胸に落ちた。
私は、そっと頷いた。
「……でも」
「ん?」
「……街、好きですわ」
お父様は、一瞬だけ目を丸くしてから、笑った。
「……そうか」
その笑い方が、少しだけ、寂しそうだった。
――この日。
私は初めて知った。
人間の世界は、きれいなものばかりじゃない。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




