11 帰り道
街から戻ってきた夜、私は食事をほとんど味わえなかった。
串焼きの塩気は、確かにおいしかった。
焼けた肉の香りも、油も、熱も、全部覚えている。
なのに――
残ったのはあの広場のざわめきだけだった。
◇
食卓に並んだ皿を私は外套の陰からぼんやり眺めていた。
「……食べないの?」
お母様が、湯気の立つカップを片手に言った。
「……食べますわ」
私は、フォークのようなものを持ってみる。
指に力が入りすぎて、お皿とフォークがカランと鳴った。
人間の手は、繊細だ。
繊細すぎて使いにくい。
お父様が、何も言わずにパンを少し寄せてくれた。
その動作が自然すぎて、私は余計に胸がきゅっとした。
お兄様は、私の向かい側で足を組んでいる。
「で」
と、短く言った。
「街は?」
私は一拍置いた。
「……うるさかったですわ」
「知ってる」
「匂いが多すぎましたの」
「知ってる」
「……串焼きは、最高でしたわ」
「それは知らない」
お兄様の口元が、ほんの少しだけ上がった。
私はそれを見て、わずかに息を吐いた。
でも次の瞬間、胸の奥がまたざわつく。
あの言葉。
――冤罪だったって噂。
――証人だった侍女が行方不明。
私は、カップを持つ指先に力を入れた。
「……お父様」
「ん?」
「……フランク王国って、どんな国ですの?」
言ってしまってから、後悔した。
舌が先に動いた。
お父様の動きが、ほんの少しだけ止まった。
止まったけれど、表情は変わらない。
「遠い国だ」
それだけだった。
遠い。
その言葉が、妙に冷たく聞こえる。
お母様が、カップの縁を指でなぞりながら言った。
「行かないよ」
私はぎくっとした。
「……え?」
「あなたが今聞きたいのは、たぶんそっちの話だから」
お母様は、いつもこうだ。
当てる。
当ててしまう。
そして、結論を先に私たちの前に置く。
お兄様が鼻で笑う。
「顔に書いてある」
「書いてませんわ」
「書いてる」
「書いてませんわ!」
言い返しながら、私は自分の頬に触れた。
熱い。
お父様が、静かに言った。
「……ヴィーラ」
名前を呼ばれただけで、背筋が伸びた。
「今は、まだ早い」
「……何が、ですの?」
問い返す声が、思ったより小さかった。
お父様は、少しだけ目を伏せる。
「……お前が人の姿を保てるようになるまでは」
私は、息を止めた。
「行くべきじゃない」
お母様が、淡々と言った。
「行くとしたら、準備がいる。あなたはまだ、人間の世界に慣れてない」
「……でも」
「でも、じゃない」
お母様の声は優しいのに、刃みたいにまっすぐだ。
有無を言わせない。
私は黙った。
◇
食後、私はひとりで廊下を歩いた。
屋敷の廊下は静かで柔らかい。
街の音の残響が、ここでは急に恥ずかしくなる。
角を曲がると、妖精が二匹、こそこそと私の外套を整えてくれた。
『……お疲れ様でした』
『街は、怖くありませんでしたか?』
「……怖くないですわ」
嘘だった。
でも、全部が怖いわけでもなかった。
『串焼き……食べたんですか?』
「食べましたわ。おいしかったですの」
『いいなぁ……』
『私たちも、食べてみたいです……』
妖精の夢は小さい。
小さいけれどきっと大切な夢。
私はそれを見て、少しだけ笑った。
「……今度、持ち帰ってもらいましょうか」
お父様か、お母様に頼めばきっと買って帰ってきてくれるだろう。
『ほんとうですか!?』
『お嬢様、神様です!』
「神様はお母様ですわ」
『それもそうです!』
妖精はすぐ頷く。
頷きすぎて羽がぶれる。
私はその様子に、ほんの少し救われた。
◇
寝室へ戻ると、私は外套を脱いで寝台に座った。
人の形。
今日はまだ保てている。
鏡は、部屋の隅にある。
見たくないのに、視界に入る。
私は鏡の方を見ないまま、指で首筋を触った。
熱は、もう引いている。
でも、触った瞬間に思い出す。
処刑台の木の匂い。
鉄の枷の冷たさ。
焦げの混じった風。
――知らないはずの感覚。
私は眉を寄せた。
「……変ですわ」
声に出した途端、背後の空気が揺れた。
「変じゃない」
お兄様の声だった。
いつの間に。
いつ入ってきたのか。
足音がしないのが、竜のずるいところだ。
「……盗み聞きですの?」
「声が廊下まで漏れてた」
「漏れてませんわ!」
「漏れてた」
お兄様は、扉にもたれたままこちらを見る。
金の瞳が、妙に真剣だ。
「街で、何か言われたな」
私は唇を噛んだ。
「……髪の色が似てると言われました」
「それだけ?」
私は言い淀む。
「……噂が、聞こえました」
「どんな」
「……処刑された、公爵令嬢が……冤罪だったって。その令嬢の髪の色が私と似ているそうです」
言った瞬間、部屋の空気が冷えた気がした。
お兄様は、ほんの一瞬だけ目を細めて、
それから、いつもの調子に戻した。
「くだらねぇ」
「……くだらない?」
「人間は好き勝手言う。死んだ人間は反論できないからな」
その言い方は、乱暴で、でも――
妙に優しい。
「……でも」
「でも、じゃねぇ」
お兄様は、私に近づいてこない。
でも、逃げ道を塞ぐように扉の前にいる。
守り方が、兄らしい。
「お前が“似てる”って言われたのは、お前が悪いんじゃない。そもそもその髪の色も令嬢の色じゃなくお前自身の色だろうが」
「……分かっていますわ」
「分かってない顔」
「……」
私は、寝台の端をぎゅっと握った。
「……私、怖かったですの」
言った瞬間、自分の声が子供みたいで嫌になった。
「……人間、見てみたかったのに」
「見たろ」
「……見ましたわ」
私は、目を伏せた。
「……楽しかったのに、最後にあれを聞いてしまって……」
言葉が、途中で途切れる。
胸の奥のざわつきが、形にならない。
お兄様は一拍置いてから、ぶっきらぼうに言った。
「次は俺も行く」
私は顔を上げた。
「……え?」
「父上だけに任せると、甘くなる」
「お父様は甘くありませんわ」
「甘い」
「甘くありません!」
「甘い」
お兄様は、いつもの調子で言い張った。
でも、その目は、さっきより少しだけ柔らかい。
「俺がいたら、余計な奴が余計なことを言ってもお前に聞かせない」
「……竜のくせに人間と喧嘩をする気ですの?」
「するわけないだろ。面倒だ」
面倒。
お兄様らしい。
私は、少しだけ笑ってしまった。
「……では、お願いしますわ」
「最初からそう言え」
「頼んでませんわ」
「頼んだ」
「頼んでませんわ!」
そのやり取りで、胸の奥のざわつきが少しだけ薄まった。
◇
お兄様が出ていったあと、私は一人になった。
鏡は、まだ部屋の隅にある。
私は、しばらくそれを見ないふりをしてから、
ようやく、ゆっくりと視線を向けた。
深紫に銀の髪。
濃紺の瞳。
これは、私の顔だ。
私の色だ。
でも、街の誰かは言った。
――似てる。
私は、鏡の前まで歩いていって、
そっと自分の頬に触れた。
「……私」
声が、思ったよりも小さかった。
「……私、誰ですの?」
答えは、ない。
でもその瞬間。
胸の奥で、何かが“ひび割れる音”を立てた。
ぱき、ではない。
ばき、でもない。
――薄い氷を、爪でなぞったみたいな音。
私は、反射的に首筋を押さえた。
熱は、ない。
でも。
処刑台の木の匂い。
鉄の枷の冷たさ。
焦げの混じった風。
――知らないはずの感覚が、確かにそこにあった。
「……変、ですわ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
私は、ふらりと寝台に腰を下ろした。
この屋敷は、静かで、柔らかくて、安全だ。
お父様も、お母様も、お兄様もいる。
私は、愛されている。
――それなのに。
胸の奥の“ひび”の向こう側から、
知らない匂いが、ゆっくりと滲み出してくる。
鉄の匂い。
焦げた匂い。
血の気配。
私は、無意識に小さく首を振った。
「私はヴィーラ。偉大な竜、アルシェとアランの娘。そして、ライハルトの妹」
一つずつ、確かめるように言う。
――それでも。
それでも、足りない。
私は、目を閉じた。
口に出すことのない魂に刻まれた「もう一つの名前」が、胸の奥で微かに震えた。
ヴィーラ=ルミナシア=フェル=ドラグナシオン=アストラリア=セレフィア=アルマディアール=インフィニタス=ソルヴァリア=レギン=オルフェリス=ヴァレンヌ=エテルナシア
私は、布団に潜り込んでぎゅっと目を閉じた。
「……変な私」
私は何も知らなくていいの。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




