番外編 赤の王太子の後悔 後編
処刑台の日、空は青かった。
ヴィーラは縛られ、立ち、最後まで背筋を伸ばしていた。
アンリは彼女を見なかった。
見れば、何かが壊れる気がした。
代わりに隣のエレーヌを見た。
彼女は青い空を見上げていた。
唇が小さく動いている。
何かを呼んでいる。
名前だろう、とアンリは思った。
ヴィーラの名前を。
エレーヌは最後まで、ヴィーラを愛していた。
愛していたまま、沈黙した。
愛していたまま、止めなかった。
それはエレーヌが選んだことだ。
アンリが奪った選択ではない。
だが。
槌が打たれ、判決が読まれ、刃が落ちた後。
アンリは初めて、喉の奥が甘く腐る感触を知った。
勝った、と思っていた。
ヴィーラを消せば、空洞が埋まると思っていた。
埋まらない。
むしろ、空洞が広くなる。
エレーヌが泣いていた。
声を殺して、隣で泣いていた。
彼女が泣くたびに、アンリは理解した。
エレーヌの涙は、自分への罰だ。
誰かに与えられた罰ではなく、自分が自分に課した罰。
彼女は選んだことを知っている。
選んだことを一生背負うつもりでいる。
アンリにはそれができない。
自分の嫉妬を政治と呼び替えた。
自分の恐怖を王家の安定と呼び替えた。
自分の醜さにずっと別の名前をつけてきた。
エレーヌは弱い女だと思っていた。
だが自分の選択を自分の選択と呼べる強さは、アンリにはなかった。
◇
即位の日、王冠は重かった。
民の歓声が王城の高みへと届く。
旗が揺れる。
音楽が鳴る。
アンリは微笑んだ。
正しい微笑み。
その瞬間、影が落ちた。
翼を持つ影。
深紫の竜。
アンリは王冠を掲げたまま、動けなくなった。
恐怖ではない。
もっと古い感覚。
喉が、詰まる。
甘いものが腐った感触。
ヴィーラが死んだ夜から、ずっとそこにあった感触。
竜が空を横切った即位式の夜に。
王城を破壊したその竜は王の前に降り立ち、人の姿へと変貌した。
深紫に銀を溶かした髪。
裸足のこの世のものとは思えない美しい女。
そんな顔をした女をアンリは一人しか知らない。
「ご機嫌麗しゅう。お久しぶりですわ。アンリ王太子殿下」
その鈴を転がしたような声でアンリは全てを理解した。
彼は彼女を消そうとした。
消えなかった。
消えたのは、彼が「正しさ」と呼んでいたものの全部だった。
最後にアンリが言えたのは、たった一言だった。
「……すまなかった」
誠実な謝罪ではない。
喉に貼りついた腐った甘さをやっと吐き出した音だった。
彼女は言った。
「遅いのよ」
白熱が視界を満たす。
アンリは灰になった。
誰の英雄譚にもならないように。
誰にも語られないように。
自分の愚かさから婚約者を殺した男は呆気なく歴史の1ページからから姿を消した。
小さな神になろうとした男は、神にすらなれず灰になった。
それが――王太子アンリの「正しさ」の結末だった。
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