番外編 恋に溺れた女
最初に会ったのは、雨の匂いが残る午後だった。
庭園の奥。
貴族たちはまだ祝宴の続きを楽しんでいる。
今日は、王太子が正式に婚約者候補を集った日だった。
噂では、最有力は――
ヴィーラ・ド・ラ・リュミエール。
国一番の名門家の令嬢で。
誰よりも美しくて聡明な。
エレーヌの大切な親友。
エレーヌは噴水の縁に座っていた。
手に握っているのは、さきほどヴィーラから受け取った花冠だ。
「似合うと思ったの」
そう言って笑った親友の顔を思い出す。
あの子は、本当に優しい。
自分が王太子の婚約者候補筆頭に挙がっていることも知らずに、彼女はただいつも通りに花を差し出した。
きっと、彼女が選ばれるだろう。
そう思った瞬間。
胸の奥に、黒いものが広がった。
祝福したい。
本当に、そう思っている。
でも。
……羨ましい。
そして、少しだけ。
悔しい。
ヴィーラは何も奪っていない。
むしろ、いつだって分け与える側だ。
それなのに。
選ばれる未来が当然のように彼女の上に落ちてくる。
エレーヌは、自分が選ばれる想像をしたことがなかった。
最初から、隣に立つ役目だと決めていた。
だから泣いていた。
親友が幸せになる未来を想像して。
その隣に自分はいないと、勝手に決めつけて。
――そして、自分が誰からも選ばれないと、勝手に諦めて。
涙を拭おうとした、その時。
「泣いているのか」
低い声がした。
振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。
濃い赤の髪。
整った顔立ち。
だが衣装は質素で、護衛もいない。
「泣いていません」
エレーヌは即座に言い返した。
「なら、よかった」
彼は笑った。
その笑みは、宮廷で見る作られたものではなかった。
少しだけ不器用で、少しだけ寂しそうだった。
名は名乗られなかった。
エレーヌも名乗らなかった。
ただ、その後も何度か王城の庭園で顔を合わせた。
彼は、国のことを話した。
民のことを。
上に立つものとしての重責を。
まるで当事者のように語るのにエレーヌは深く考えなかった。
ただ思った。
優しい人だ。
自分を見る目が、まっすぐだったから。
そう、勝手に思い込んだ。
◇
ある日、祝宴の大広間。
エレーヌは人波の後ろにいた。
ざわめきが割れる。
「王太子殿下のお成りです」
赤い髪が、光を浴びる。
ゆっくりと現れたその顔に、エレーヌは息を止めた。
庭園の青年。
あの笑み。
あの瞳。
アンリ・ド・ラ・フランク。
王太子。
世界が、音を失う。
彼の視線は群衆を越え、
一瞬だけ、エレーヌに触れた。
ほんの一瞬。
それだけで、胸が焼ける。
知らなかった。
本当に、知らなかった。
もし知っていたら。
――それでも、好きにならなかったと言い切れるだろうか。
彼に呼び出された夜。
彼は王太子の衣をまとっていた。
「驚いたか」
柔らかく笑う。
「なぜ、言わなかったのですか」
「言えば、君は距離を取っただろう」
否定できなかった。
「私は……」
言葉が詰まる。
好きだったのは、王太子ではない。
庭園で話した青年。
でも、今目の前にいるのは王太子だ。
「君が必要だ」
その言葉は、前と同じだった。
けれど今は、意味が違う。
必要なのは、女としてか。
それとも、政治の駒としてか。
エレーヌは、考えなかった。
考えたら、壊れる。
ただ、頷いた。
好きだったから。
それだけだった。
◇
裁判の前日。
エレーヌは震える手で書簡を握っていた。
ヴィーラが疑われている。
証拠は不自然だと、分かる。
でも。
彼を信じたい。
あの庭園の青年を。
あの、寂しそうに笑った人を。
王太子ではなく。
だから、沈黙した。
止めなかった。
恋に溺れたのは、きっとその瞬間だ。
◇
処刑台。
青い空。
ヴィーラの瞳は、まっすぐだった。
責めない。
泣かない。
エレーヌは思う。
あなたは強く、私はどうしようもなく弱いのだと。
刃が落ちる。
世界が傾く。
それでも、アンリは隣にいる。
だから自分は、正しいのだと。
そう言い聞かせる。
◇
結婚式の日。
人々に祝福されながらエレーヌは空を見上げた。
親友の死んだ日と同じ青い青い空。
「……ヴィーラ」
名を呼ぶ。
王太子妃としてではない。
ただの女として。
あの庭園の日に戻れたら。
彼が王太子だと知っていたら。
好きにならなかった?
――違う。
きっと、好きになった。
だから、これは運命ではない。
自分の選択だ。
最後に浮かんだのは、王冠ではない。
庭園の午後。
雨の匂い。
あの不器用な笑み。
「……愚かね」
自嘲の声は、誰にも届かない。
◇
恋をした相手が王太子だった。
それだけのことが、国を焼く引き金になった。
エレーヌは最後まで彼の名ではなく、ヴィーラの名を呼んでいた。
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