62 落ちる影
竜は、膝をついていた。
王城の残骸の上。
深紫の巨体が、夜を押し潰すみたいにうずくまっている。
炎はまだ喉の奥にある。
消えていない。
ただ、行き場を失っている。
王都の空は、焼け残った煙で濁っていた。
人々は息を潜めている。
今度こそ来る、と。
今度こそ落ちる、と。
でも。
落ちない。
『……るい』
竜の口から漏れた名は、熱に掠れていた。
石畳の上で、ルイはその声を聞いた。
たった二音。
それだけで、胸の奥が痛む。
「……あぁ」
息を吐く。
「ここにいる」
まだ立っている。
足は震えている。
爪が割れ、血が石に滲んでいる。
それでも、逃げない。
竜の瞳が、ルイを映している。
そこにあるのは、怒りでも、殺意でもない。
迷いだ。
壊れたまま、立ち尽くしている心。
その迷いを見てしまった瞬間、ルイは理解した。
これは戦いじゃない。
これは――落ちかけている人間を、引き止める時間だ。
ゆっくり、一歩。
熱が押し返してくる。
皮膚が焼ける匂いがする。
それでも、前へ。
「……戻れなくなる、って言っただろ」
竜の喉が低く鳴る。
『……戻る場所など、ない』
その声は、竜の響きと、女の声が混ざっていた。
『処刑台で終わった』
『家族が殺された時に終わった』
『わたくしは、もう――』
言葉が、途切れる。
ルイは、首を振った。
「終わってねぇ」
きっぱりと。
「俺がいる」
それだけだった。
竜の瞳が、揺れる。
『……お前は、知らぬ』
苦い吐息。
『わたくしが何を奪われたか』
『何を、見たか』
ルイは、苦く笑う。
「知らねぇよ」
正直だった。
「だから、教えろ」
竜の翼が、ぴくりと震える。
「俺は、何も知らない」
「でも、知る前に焼かれるのは御免だ」
ほんの少しだけ、唇を歪める。
「お前のこと、好きだからな」
夜が、止まった。
竜の喉の奥で、炎がぱちりと音を立てる。
『……愚か者』
だが、その響きは弱い。
ルイは、もう一歩踏み出す。
今度は、竜の影の中へ。
月光が遮られる。
深紫の鱗が、すぐ目の前にある。
「愚かでいい」
手を伸ばす。
熱い。
指先がじり、と焼ける。
それでも触れる。
鱗の隙間。
まだかすかに人の温度が残っている場所。
びくり、と竜が震えた。
『……触れるな』
声が揺れる。
「触れるよ」
ルイは言った。
「お前が竜でも、災厄でも、俺にとってはただのヴィーラだ」
その名が、もう一度夜に落ちる。
ヴィーラ。
処刑された公爵令嬢。
復讐を果たした竜。
王を焼いた災厄。
でも。
それだけじゃない。
竜の瞳の奥で、何かがほどける。
深紫の巨体が、ゆっくりと縮む。
鱗が、光に溶ける。
翼が、霧のように消える。
熱が収束する。
やがて。
瓦礫の上に、ひとりの女が立っていた。
裸足。
灰にまみれたドレス。
深紫に銀を溶かした髪。
月を背にして、立っている。
その瞳は、まだ竜の色をしている。
「……どうして」
声が震える。
「どうして、止めるの」
ルイは、ゆっくりと近づく。
今度は、熱に阻まれない。
「止めるに決まってる」
当たり前みたいに。
「お前が泣いてる顔で、世界が終わるのは嫌だ」
ヴィーラの眉が、わずかに寄る。
「……泣いてなど」
否定しようとして、止まる。
頬を伝った跡が、まだ乾いていない。
ヴィーラは、目を伏せた。
「……足りないの」
小さな声。
「全部壊したのに」
「全部奪ったのに」
「静かにならない」
その告白は、災厄のものではなかった。
ただの、壊れた女の声だった。
ルイは、息を吐く。
「静かになるわけねぇだろ」
柔らかく。
「復讐で埋まる穴なら、最初から穴なんて空かねぇ」
ヴィーラは、顔を上げる。
その瞳に、怒りが戻りかける。
「……綺麗事を」
「綺麗じゃない」
即答だった。
「俺は、王が死んでざまぁみろって思ってる」
「でもな」
一歩、近づく。
「お前が市民まで焼いたら、俺はお前を止めなきゃならなくなる」
ヴィーラの呼吸が止まる。
「止める?」
「ああ」
銀の瞳が、まっすぐ見返す。
「お前を、俺の手で」
夜気が凍る。
その言葉は、脅しじゃない。
本気だ。
ヴィーラは、それを理解する。
理解して。
なぜか、少しだけ安堵した。
止めてくれる。
落ちきる前に。
世界ごと壊れる前に。
ヴィーラは、ふらりと揺れた。
力が抜ける。
膝が折れる。
その身体を、ルイが受け止めた。
熱は、もうない。
ただ、震えだけが残っている。
「……るい」
掠れた声。
「まだ、怒ってる」
「知ってる」
「まだ、憎い」
「知ってる」
「……それでも」
言葉が途切れる。
ルイは、背中に腕を回す。
「それでも、生きろ」
静かに。
「俺と」
王都の夜は、まだ煙に濁っている。
焼け跡は消えない。
死んだ者は戻らない。
復讐は終わった。
でも、物語は終わらない。
崩れた王城の上で。
災厄だった竜は、恋人の腕の中で泣いた。
泣いていた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




