61 災厄
王都はまだかろうじて生きていた。
焼け残った旗が風に裂けて鳴る。
崩れた塔の影で人が這う。
瓦礫の隙間から泣き声が漏れる。
それら全部が、ヴィーラには煩わしい音にしか聞こえなかった。
ざわめき。
うめき。
祈り。
同じだ。
処刑台の下で笑っていた者たちと同じだ。
深紫の竜は、王城の残骸の上に立っていた。
翼を広げるたび、風が王都を削る。
鱗に月光が滑り、銀が滲むように光った。
喉の奥が開く。
熱が集まる。
白熱した光が肺の奥で渦を巻く。
吐き出せば、静かになる。
きっと。
今度こそ。
――すべて、焼けば。
その時。
王都のどこかで鈴が鳴ったみたいな音がした。
人の声だ。
たった一つ。
泣き声でも悲鳴でもない声。
「ヴィーラ!!」
名前。
あの呼び方。
竜の瞳がわずかに細くなる。
誰だ?
誰がわたくしを呼ぶ?
誰がまだこの名を持ち出すのか。
火が喉の奥で膨らむ。
呼んだ喉ごと焼き切ってやればいい。
そう思ったのに。
その声は、続いた。
「やめろ!」
怒鳴っているのに慈しみを感じる声。
「もういい! もう――やめてくれ!」
竜の首がゆっくりと動く。
視線の先。
王城の崩れた正門の向こう。
石畳に立っている男がいた。
濃紺の髪。
銀の瞳。
月の光を受けて、その目だけが氷みたいに冷たく光っている。
ルイ。
その顔を見た瞬間、胸の奥に違う熱が走った。
怒りではない。
殺意でもない。
――うるさい熱だ。
胸の底に沈めた恋心という名の手触りが、いきなり浮かび上がってくる。
髪を梳く指。
木櫛の音。
静かな夜。
だから、余計に苛立つ。
こんな時に。
こんな時に、思い出すな!
竜の唇が裂ける。
『――どけ』
声が、空気を潰す。
言葉というより命令だった。
風が波になって、瓦礫が舞う。
ルイは、よろけた。
それでも倒れなかった。
足を踏ん張って、前を向いた。
その足元で、石がひび割れる。
竜の熱に、石が耐えられない。
それでも、ルイは逃げない。
「……お前、誰を殺してるか分かってんのか」
ルイの声が、震える。
怖いからじゃない。
怒りだ。
「王を殺すのはまだ……わかる。お前のことだ。何か理由があるんだろ?」
一歩、前に出る。
「俺だって、あの国を憎んでる」
もう一歩。
「けど……そこにいるのは、王だけじゃないだろ」
竜の喉が鳴る。
白熱した光が歯の間から漏れ、ガチリと歯が音を立てた。
焼ける。
今なら焼ける。
口を開けば、この男も灰になる。
それでも。
ルイは、目を逸らさない。
銀の瞳がまっすぐ竜を見上げている。
「……ヴィーラ」
今度は、小さな声だった。
呼び名が柔らかい。
「俺、分からねぇんだ」
ルイは、唇を噛んだ。
血が滲む。
「お前に何があったのか」
「なんで、こんなことになってんのか」
「……俺、何も知らない」
竜の胸の奥で何かが軋んだ。
知らない?
そうだ。
知らない。
知らないから、こんなことを言える。
知らないから、止めようとする。
――知らないのに、ここに来た。
ルイは息を吸い、吐いて、言った。
「でも」
喉が震えている。
「……俺は」
言葉を選ぶみたいにゆっくり。
「お前を、災厄にしたくない」
その瞬間。
竜の喉の火が揺らいだ。
災厄。
その言葉が鱗の隙間に針みたいに刺さる。
わたくしは災厄だ。
そう言われるために生き返ったのではない。
そう言われるために、燃やしたのではない。
なのに、ルイは続ける。
「……もうやめてくれ」
膝が、少しだけ曲がる。
怖いのに。
それでも、踏みとどまっている。
「お前が誰を憎んでてもいい」
「俺が何を奪われてもいい」
声が掠れる。
「……でも」
ルイは胸の前で拳を握る。
爪が手のひらに食い込む。
「お前が、この街の子供の首を折ったら」
「この街の女を焼いたら」
「……お前が、もう戻れなくなる」
戻れない。
その言葉に、竜の視界が一瞬だけ暗くなった。
処刑台の青空。
あの笑み。
あの「不要」と言われて。
家族を殺されてから。
そもそもわたくしの戻れる場所なんて、最初からなかった。
なのに。
ルイの言う「戻れない」は、違う。
場所じゃない。
――ヴィーラという形のことだ。
竜の喉の奥で、炎が唸る。
吐けば、静かになる。
吐かなければ、うるさいままだ。
竜の爪が石を抉る。
甲高い音が夜に響く。
王都の人々が、遠くで悲鳴を上げた。
また来ると思ったのだろう。
来る。
来るはずだった。
けれど、竜は吐かなかった。
代わりに、低い声が漏れた。
『……るい』
名前。
人の言葉みたいに、短く。
ルイの肩が、びくりと跳ねた。
「……っ」
ルイは、息を止める。
返事をするのが怖いみたいに。
でも、黙らない。
「……そうだ」
喉が震えている。
「俺だ」
そして、少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「……ここにいる」
竜の瞳が、揺れる。
ほんの一瞬。
深紫の鱗の奥で、別の色が滲む。
濃紺の瞳の奥に、細い亀裂が入る。
怒りの中に、違う感情が混ざる。
痛みだ。
喪失だ。
――泣きたい、という感情だ。
でも、竜は泣けない。
泣く代わりに、壊す。
それが竜のやり方だ。
だから、竜は吠えた。
王都の夜が裂けるほどの咆哮。
音だけで、窓が落ちる。
瓦礫が跳ねる。
ルイの身体が吹き飛びそうになる。
それでも、ルイは地面にしがみついた。
指が石を掴む。
爪が割れて、血が滲む。
「……っ、ヴィーラ!!」
叫ぶ。
「俺を見ろ!!」
竜の視線が、ルイに落ちる。
ルイは立ち上がる。
足が震えている。
でも、立つ。
「俺を殺すなら、殺せ」
嘘だ。
本当は怖い。
本当は生きたい。
それでも言った。
「でも、殺したら……」
ルイは、息を吸う。
「お前は、もう二度と、俺の名前を呼べない」
竜の喉が、止まった。
炎が、喉の奥で詰まる。
吐けない。
吐いてしまったら。
この男の名前を二度と呼べない。
それだけが、嫌だ。
嫌だ、と思った瞬間に――
竜の中で、何かが折れた。
折れたのは理性ではない。
復讐だ。
復讐だけで立っていた足場が、崩れた。
竜の膝が、ゆっくりと落ちる。
大地が震える。
王城の残骸が小さく崩れた。
喉の炎が、ふっと弱まる。
熱が、完全に消えたわけではない。
ただ、方向を失った。
竜の瞳から、透明なものが一滴落ちる。
落ちた瞬間、石畳に触れて蒸発した。
涙だと気づくのが遅れて、ヴィーラは自分自身に腹が立った。
『……やめ、ない』
声が、掠れる。
『……まだ、足りない』
吐き気みたいな言葉。
ルイは一歩、近づこうとして、熱に阻まれる。
それでも、手を伸ばした。
届かない距離で、指が宙を掴む。
「……分かってる」
ルイの声が、今度は低い。
「足りないのも」
「静かにならないのも」
「……全部」
嘘だ。
分かってなどいない。
でも。
分からなくても、ここにいる。
それが、ルイのやり方だ。
「でも」
ルイは、もう一度言った。
「お前を災厄にしたくない」
竜の胸の奥が、きりと痛む。
災厄。
それは、わたくしが選んだ姿だ。
でも。
その言葉を、ルイの口から聞くのは――違った。
竜の翼が、ゆっくり畳まれる。
巨大な影が少しだけ小さくなる。
炎が完全に消えたわけではない。
まだ喉の奥に残っている。
でも、吐かない。
吐けない。
ルイが、そこにいるから。
ヴィーラは、低く唸った。
怒りの唸りではない。
壊れた獣の、呻きだった。
『……るい』
もう一度、名前を呼ぶ。
そのたった二音だけで竜は世界を焼かずに済んだ。
王国の夜はかろうじて残った。
崩れた王城の上で。
深紫の災厄は、恋人の声にだけ、足を止めた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




