57 狂う竜
祝祭の空に影が落ちた。
最初は、ただの雲だと思われたのだろう。
だが、雲は翼を持っていた。
歓声は、一瞬遅れて悲鳴へと変わり、石畳に落ちる巨大な影が王都を覆う。
深紫の翼が広がるたび、空気が裂ける音がする。
熱が喉を焼く。
吐ける。
今すぐにでも。
炎は竜たるわたくしのものだ。
赤い旗が風に翻る。
王冠が掲げられたまま、アンリの動きが止まっている。
目が合う。
見た。
あの赤い目がわたくしを見た。
驚愕。
恐怖。
「……ヴィーラ?」
唇が、確かにそう動いた。
わたくしの鱗は前の髪と同じ色だったから。
つい口から出たのだろう。
「不要」と切り捨てても忘れてはいなかったのだろうか?
でも遅い。
遅すぎる。
そして覚えていようといまいともはやどうでもいい。
喉の奥で炎が暴れ、視界が赤く染まる。
あの処刑台。
あの微笑み。
全部が一気に押し寄せる。
翼が羽ばたく。
衝撃波で人々が吹き飛ぶ。
屋台が横倒しになり、果物が石畳に転がる。
瓦が割れ、窓が砕け、花で飾られていた白布が裂ける。
祝祭の音楽はとっくに途切れた。
炎が零れ落ちる。
屋根の端が焼ける。
煙が上がる。
焦げた布の匂い。
悲鳴。
逃げ惑う足音。
押し合う人波。
恐怖の匂い。
あぁ。
これが人間の匂いだ。
かつて、私もこの匂いの中にいた。
今は、見下ろしている。
喉が開く。
炎が迸る。
石畳が溶ける。
城壁の一角が黒く焦げ、装飾が崩れ落ちる。
熱が、心地いい。
壊せる。
全部、壊せる。
王城も。
あの裏切り者も。
あの女も。
終わらせられる。
今度は、私が。
翼がさらに広がる。
王城の尖塔が、はっきりと視界に入る。
あそこにいる。
あの場所で私の人生は切り捨てられた。
炎が、王城へ向かおうとする。
「ヴィーラ!!」
声。
ルイ。
必死な声。
「やめろ!!」
やめろ?
どうして?
どうして止めるの?
彼らは、私を殺した。
私を「不要」だと言った。
奪った。
人生も。
未来も。
名誉も。
炎がさらに膨らみ、王城の白い壁が赤く染まる。
その瞬間。
エレーヌの顔がはっきりと見えた。
あの伏し目がちな笑みはない。
緑の瞳が恐怖に見開かれ、震えている。
かつて私の隣に立っていた少女が。
今は、怯えている。
いい。
それでいい。
だが――
別の顔が浮かぶ。
やつれた父。
すまないと動いた唇。
母の温かい手。
兄の笑い声。
そして。
濃紺の髪。
静かな夜。
「もっと伸ばしていいか?」
思い出すのはルイの照れた声。
髪を梳く、あの時間。
守りたい。
怒りの中にあったこの気持ちは。
もし。
もし、ここを焼き尽くしたら?
私は何になる?
ただの災厄。
ただの怪物。
国を滅ぼす竜。
首の後ろがさらに熱を帯びる。
だが今度は違う。
焼けるのではない。
締めつける。
理性がギリギリで踏みとどまる。
炎が逸れる。
王城ではなく、空へ。
赤い炎が空を裂き、雲を焼き払う。
轟音が王都を揺らし、王都の一角が黒く焦げる。
だが、中心は無傷。
アンリは、立っている。
王冠は落ちていない。
エレーヌは、膝をつきかけている。
見下ろす。
処刑台の向こう側にあった顔が。
今は下だ。
赤い瞳にはっきりと恐怖が宿っている。
殺すのは簡単過ぎる。
そう、今ここで終わらせるのは簡単だ。
一息で。
一振りで。
だが。
それでは、足りない。
足りなさすぎる。
裏切りも。
処刑も。
人生も。
それを一瞬で終わらせるのは、軽すぎる。
翼が大きく羽ばたく。
風圧で旗が裂け、花飾りが吹き飛ぶ。
炎の残滓が石畳を焦がす。
アンリの赤い瞳が私を追う。
恐怖がそこにある。
あの時はなかった恐怖。
いい。
それでいい。
覚えていろ。
空へと上昇する。
王都が小さくなる。
悲鳴が遠ざかり、煙が立ち上る。
祝祭は崩れた。
だが、滅びてはいない。
わたくしも炎に身を委ねかけた。
だが、まだ落ちきってはいない。
向かう先は、王城ではない。
もう一つの場所。
かつて、私が生まれた家。
リュミエール公爵家。
胸の奥の炎は消えない。
けれど形を変えた。
復讐だけに囚われてはいけない。
わたくしは確認しなければならない。
知る必要がある。
わたくしが死んだあと、あの家がどうなったのか。
空を裂いて、深紫の竜は飛ぶ。
王は、空を見上げたまま動けない。
王妃は、膝を震わせている。
祝祭の残骸の中で。
復讐は、始まったばかりだった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




