51 音を立てずに
それは、事件と呼ぶほど大げさなものではなかった。
後からなら、いくらでも理由は並べられる。
兆候だとか、前触れだとか、そういう言葉で。
でも、その時の私は、ただ「少し変だ」と思っただけだった。
◇
王城での生活は、相変わらず整っていた。
朝は決まった時刻に起き、用意された衣装に袖を通し、決められた動線を通って一日が始まる。
侍女たちは礼儀正しく、言葉も態度も乱れない。
ただ、顔ぶれが少し変わっていた。
「本日より、こちらの者が殿下付きとなります」
紹介された若い侍女は、完璧な礼をした。
無駄がなく、声も落ち着いている。
「……これまでの方は?」
「配置換えとのことです」
簡潔な答えだった。
王城では珍しくない。
私はそれ以上聞かなかった。
理由を深掘りするほどの違和感ではなかったからだ。
けれど、同じことが何度か続いた。
顔なじみだった侍女。
気心の知れた侍従。
静かに、少しずつ、入れ替わっていく。
理由はいつももっともらしい。
だから私は、それを「変化」として受け入れた。
◇
アンリ殿下と顔を合わせる時間も、減っていた。
「今日は政務が立て込んでいて」
「分かりました」
「また後日」
拒絶ではない。
ただ、忙しいだけ。
声も態度も変わらない。
それが、かえって不安を遠ざけた。
私は、彼を信じていた。
◇
その日、部屋に戻ったのは夕刻だった。
机の上に、小さな箱が置かれているのに気づく。
見覚えのない箱。
鍵はかかっていない。
中には、透明な薬瓶が一本。
淡い色の液体。
「……?」
記憶を探る。
だが、見覚えはない。
触れていない。
頼んでもいない。
少なくとも、私はそう思っている。
私は蓋を開けず、箱を閉じた。
明日、管理責任者に確認しよう。
そう判断した。
それだけのことだった。
◇
――その夜。
突然、扉が叩かれた。
いつもの控えめな合図ではない。
躊躇のない、硬い音。
続けて、声が響く。
「王太子妃殿下。開けてください」
複数人の気配。
足音が重なる。
胸の奥で、何かが音を立てて落ちた。
私は、ゆっくりと立ち上がる。
背筋を伸ばし、扉へ向かう。
悪いことはしていない。
それは、はっきりしている。
だからこそ、これは「誤解」だと思った。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
衛兵。
侍従。
見慣れない役人の顔。
部屋の中へ、遠慮なく踏み込んでくる。
「失礼いたします。王太子妃殿下」
礼はある。
だが、配慮はない。
「……何事ですの?」
声は、思ったより落ち着いていた。
「確認すべき件がございます」
役人の一人が合図をすると、別の者が机へ向かった。
「それは――」
止める暇はなかった。
引き出しが開けられる。
箱が取り出される。
あの薬瓶。
「こちらを」
役人が掲げる。
「殿下の部屋より発見されました」
一瞬、世界が静かになった。
「……それは、わたくしのものではありません」
即座に言った。
躊躇も、迷いもない。
事実だからだ。
役人は、淡々と頷いた。
「その件について、詳しくお話を伺います」
伺う、という言葉は丁寧だ。
けれど、選択肢はなかった。
衛兵が一歩前に出る。
私は、その時ようやく理解した。
これは、説明すれば終わる話ではない。
確認でも、相談でもない。
――進行だ。
何かが、すでに動き出している。
私は、深く息を吸った。
無実であることは、揺るがない。
それだけが、私の支えだった。
だから、歩き出した。
静かに。
誇りを崩さず。
この時の私は、まだ信じていた。
正しさは、必ず届くのだと。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




