50 選ばれる理由
王城では、噂が音を立てずに流れる。
誰かが大声で語るわけでもない。
廊下の隅、控え室の端、扉の向こう側。
言葉はいつも途中で途切れている。
◇
「王太子妃殿下、こちらのお席へ」
昼の会食で私は自然に上座へ案内された。
一年前なら父の隣。
半年前ならアンリ殿下の前へ。
今は、隣だ。
誰も不思議そうな顔はしない。
当然の配置として受け取られている。
私は静かに腰を下ろし、背筋を伸ばした。
視線が集まる。
好意的なもの。
評価するもの。
探るもの。
それらを私はもう区別できる。
できてしまう自分に少しだけ驚いた。
食事の最中、直接私に話しかける者はいない。
けれど、話題は常に私の周囲を回っている。
「王太子妃殿下は、民の評判もよろしいとか」
「公爵家の教育は、やはり違いますな」
アンリ殿下が軽く頷き、受け流す。
「彼女自身の努力だ」
その言葉は、私を守る盾のようでもあり、
同時に話題を打ち切る蓋のようでもあった。
私は微笑み、何も言わない。
口を挟む必要はない。
私が話すことで場の意味が変わってしまうからだ。
私はもう「参加者」ではない。
場の前提になっている。
会食のあと、回廊を歩いていると、背後から小さな声が聞こえた。
「……やはり、あの方に決まって正解でしたわね」
「えぇ。血筋も、立場も、何より――」
声は、私に気づいて止まる。
振り返ると、侍女たちが慌てて頭を下げた。
「失礼いたしました、王太子妃殿下」
「構いません」
私はそう答えた。
本心だった。
彼女たちは、悪意で話していたわけではない。
評価と納得。
それだけだ。
けれど、歩き出してから胸の奥で言葉が反芻される。
――血筋も、立場も。
私は、選ばれた。
けれどそれは、私自身を選ばれたのか。
それとも、条件を満たしていたからなのか。
答えを求める問いではない。
ただ、浮かんだだけだ。
◇
夕方、アンリ殿下と書庫で向かい合って座る。
以前と同じ光景。
同じ机。
同じ距離。
なのに、少し違う。
彼が顔を上げ、私を見る。
「疲れているのか?」
「いいえ」
嘘ではない。
身体は疲れていない。
「何か、気になることがあるなら」
彼は、そう言って言葉を切った。
続きは、私に委ねる形だ。
私は、少し考えた。
考えてから、首を振る。
「……特に」
彼はそれ以上聞かなかった。
頷き、本に視線を戻す。
それで会話は終わる。
この距離を私は知っている。
そして、彼もそれを守っている。
だからこそ、聞けなかった。
――私は、なぜ選ばれたのですか。
その問いはきっと恋人にするものではない。
婚約者にするものでもない。
未来の王妃がしてはいけない問いだ。
◇
夜、部屋に戻って。
灯りを落とす前、ふと机の引き出しを開けた。
そこにエレーヌからの手紙が重なっている。
開かずにまた閉じる。
彼女にこの話をしたら何と言うだろう。
きっと、彼女は笑って言う。
「考えすぎよ」と。
「あなたは選ばれるべき人だって」。
その言葉を私は信じられるだろうか。
それとも――
信じてしまうことが怖いのだろうか。
◇
鏡の前に立つ。
そこにいる私は、揺れていない。
少なくともそう見える。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
選ばれることは、守られること。
そう教えられてきた。
でも、選ばれるということは、「選ばれなかった可能性」が常に背後にあるということでもある。
その考えを私は追い払う。
今は、何も起きていない。
すべては、順調だ。
婚礼まで、もうあと一年。
私は、王太子妃殿下。
そう名乗ることにもう躊躇はなかった。
ただ――
なぜか、その夜の夢にアンリ殿下はいなかった。
代わりに誰もいない玉座の間が静かに、広がっていた。
※完結まで毎日投稿です。
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